これまで、これから
- 中編 -



 どうして、駅から出てきたの?
 “おはよう”“何していたの”など声はかけられず、伊武は遅い歩調で桜井の後をつけた。
 俺を見ないで欲しい、気付かないで欲しい。桜井と別れてから、こんな事ばかりを考えている気がする。
 結局、学校に着くまで桜井は後ろを振り返らなかった。
「よお、桜井おはよう」
 石田が桜井を見つけて軽く手を上げる。
 桜井も挨拶をしようとした時、石田は後ろを歩く伊武に気づく。
「伊武」
 石田の声につられて振り向く桜井の表情は、明らかに驚き方がおかしい。
 何か後ろ暗いものがある。そう確信をした。


 部室へ向かおうとする桜井を伊武は大股で追いつき、肩を掴んだ。
 力が強かったかもしれない。過ぎったが抑えられなかった。勢いのままに振り向かせる。
「駅から降りてきたでしょう。何していたの」
 口早に問いただす。
 ただならぬ様子に、うろたえる石田。伊武と桜井を交互に見た。
「何って伊武こそ、どうして見ていたんだよ」
「たまたま、通ったんだ」
「俺もたまたま」
「嘘だ。だったらどうして俺の眼を見ないんだよっ」
 肩を揺らし、顔を上げさせようとする。
「なんだよ!俺が何したって無反応だったくせに!」
 伊武を見据えた桜井の瞳は悲しみに歪み、睨みつけていた。
「おい、やめろって」
 石田が仲裁し、とりあえずこの場は落ち着かせる。
 部室に入って着替える中。伊武と桜井は隣同士で視線を合わせずに制服のボタンをはずした。
 指に視線を落とし、桜井は伊武にだけ聞こえる音量で呟く。
「昨日は神奈川に、いた」
 桜井が緊張状態にあるのを、誰も知る由も無い。
「神奈川?」
 伊武の手が止まる。桜井の手も止まっていた。
「寝たよ、一緒に」
「…………………………え」
 吐息のように、掠れた音が喉の奥から搾り出される。
 神奈川。寝た。一緒に。三つの単語が繋がらない。
「どういう、意味?」
 伊武は桜井を見る。桜井は硬く目を瞑って言い放つ。
「優しかったよ、その人は」
「…………あ…………」
 桜井が何を言いたいのか、おおよその意味はわかった。
 だが、認めたくは無い。理解したくは無い。心が頑なに拒否している。


 桜井は、神奈川の人と一夜を共にした。


 血の気が引いて、その下がった地点から一気に昇り上げてくる。
 どうしようもない怒りが込み上げてきたのだ。
「ふざけないでくれるか!なんなんだよ!」
 伊武は桜井の胸倉を掴む。
 桜井はそうなる事を悟っていたように力を抜いていた。
「さっきから二人ともやめないか!」
 石田が再び仲裁に入ろうとする。時間に余裕があるせいか、まだ部室には三人しかいない為、騒ぎが大きくなっても止める人間は石田しかいない。大柄で力の強い彼も、元来の性格が穏やかなので強引な制止は出来ないでいた。
 普段感情を表に出さない伊武が、これほどまでに怒りを露にしている。
 桜井、お前は一体なにをやったんだ。視線を桜井に向ける石田だが、彼は諦めきった顔で抵抗を示さない。
「誰だよ!名前を言えよ!」
「伊武も名前は知っている人だ。だけど、誰かは言えない。…………その人は悪くない。悪いのは、全部俺だから…………」
「知ってる………って……」
 困惑する伊武。思い当たる節が全く浮かばない。
 まさか、神奈川が立海のある県だとまでは、頭に血が上った状況で予想が出来るはずも無い。
「ごめん。もっと言い出すタイミングをたくさん考えていたのに、最悪になっちまった。元から、ずっと計れなかったのに、今日だけ上手く行くはずもないか」
「桜井……?」
 胸倉を掴んだ手が緩む。
「後でゆっくり話す。メール、有難う。俺も同じ事を思ってた。石田もすまないな、とばっちり食らわせちゃって」
 手が離れ、皺になった襟元を正しながら、桜井は着替えを再開させた。
 桜井にかけるべき言葉は浮かばず、伊武も石田も自分のロッカーの前に身体を向ける。しばらくすると内村が入ってきて、普段通りの部室の風景に戻った。
 しかしそれはあくまで表面的なものであり、水面下には重く沈み込むものがある。
 桜井は着替えを終え、早々とコートへ入っていく。
 彼の背を、じっと伊武は見つめる。手を伸ばせば、声をかけたら、すぐに届きそうなのに、とても遠いものに感じた。
 いつも、本当に、桜井は遠い。まるで景色を眺めるかのように、瞳は細められた。
 追いつこうとしても、届かなかった。
 追いつこうと、したんだよ。
 そっと、視線で訴えかける。これは届かなかった結果への弁明なのだろうか。
 直接は語り掛けられなかった。






 朝練の間、伊武の心は桜井の言った“神奈川の人”に悩まされていた。
 彼の言い方からして、相手は男なのかもしれない。
 自分と同じように、彼に特別な感情を抱いているのだろうか。
 寝たというからには、彼に触れたのだろう。
 そもそも、これは浮気なんじゃないか。
 しかし、別れた後ならば違うだろう。
 どちらにしても、裏切られた気分であった。
 こうもすぐに新たな関係を結ばれると、俺たちの想いはそんな程度だったのかと思い出まで汚されるようだった。
 怒りたいのに、今は怒る資格は無い。
 矛先は、どうしても“神奈川の人”に向けたい意地がある。
 桜井が名前を言わなかったのも頷ける。
 疎外感を覚えた。彼は知らぬ間に外の世界へ飛び出していたのだ。
 そうして見えない場所で、二人で手に入れられなかった幸せをおさめたのかもしれない。
「俺とじゃ、駄目だったのか」
 独り言が呟かれた。誰の耳にも届かないぼやき。
「俺も、連れ出してくれれば良かったのに。駄目だ、たぶん俺は行こうとしなかった」
 そんなだから、置いていかれたんだ。
 浮かんでしまった、今の自分にはあまりにも重い言葉は声にはならなかった。
「俺は……」
 靴で摺るように地を蹴り、止める。


「伊武、ちょっと良いか」
「え、ああ」
 そっと声をかけられて、顔を上げれば石田がいた。
 二人はフェンスの方へ寄り、交互にしゃがみこんで靴紐を結び直しながら潜められた会話を交わす。
「桜井と何かあったのか」
 伊武と桜井の関係は誰にも話していない。
 石田の目には急に二人が喧嘩しだしたように見えたはず。
「うん、少し」
「そっか。桜井がここの所、元気がなさそうで」
「そう」
「伊武のせいだとは言わない」
 人が良いのか悪いのか、微妙なフォローを入れられる。
「悩んでいるみたいで、急に大人しくなる事もあって。今日お前らが言い争いしているのを見た時、前に楽しそうに話していたのを思い出したよ」
「そう」
「案外、お前ら仲良いの?」
「どうだろう」
 自嘲気味に口の端が上がった。
「桜井は伊武を好きそうに見えた。変な意味じゃないけど」
「だろうね。俺も桜井は好きだよ」
 伊武は立ち上がり、石田を見て一言言う。
「変な意味じゃないけど」
 ラケットを持ち直し、コートの方へ向かっていった。
 常識という意味合い的には、変な意味に属する想い。だが、伊武自身としては変とは思いたくは無い、済んだものだった。下心ももちろん含めて。
 改めて思えば、後ろめたい想いを抱える一方で自分を信じていたい想いもあった。
 本当に、今頃になって見えないものが見えてきた。振り返られる間が出来たからだろうか。
 朝錬を終え、教室へ繋がる廊下を歩く最中にメールが届いた。


 伊武、話がしたいんだ。


 先日送ったメールをそのまま伊武に変えた文面。
 その後ろに、昼休みの屋上と場所を指定されていた。伊武が桜井に別れを告げた時間と場所だ。


 本心を言えば、もうどうにもならない決定打をされそうで逃げ出したい。
 けれど逃げ出せる場所などないのは、もうわかりきっていた。
 揺らぎ、さまよった先に見えたのは、同じ場所だった。
 行くしかない。
 彼が待っている内に、自分が待っていられる内に、伝えるべきものは伝えなければならない。
 同じ今は無い。ただ同じようなものが続いていただけに過ぎない。
 刻々と、時間も自分たちも変わっているのだから。










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