これまで、これから
- 後編 -
屋上へ続く階段は薄暗い。他の階段とは雰囲気が違う、物寂しい感じがする。
登り終わって扉を開ければ、まっ平らで広い屋上に出た。空は抜けるように青い。
数組の生徒が弁当を食べており、人気の無いフェンスの前に桜井が立っていた。彼はフェンスに指を絡め、グラウンドを見下ろしている。
「桜井」
呼ぶと桜井は顔だけを向けて、目が合うと戻した。口を開こうとした時、強めの風が吹いて塞がれてしまう。衣服がパタパタと音を立てる。
「話を、しに来たよ」
口元だけを綻ばせる伊武。桜井の隣に並び、フェンスに寄りかかった。
「きちんと、話さなきゃな」
桜井の低い声が伊武の胸へ染み込み、体温を冷やす。
「伊武、俺は浮気した」
「……………………………」
「そんなつもりなかった。けれど、結果的にそう思われても仕方の無い事になって、流された」
「神奈川の人?」
頷く桜井。
「教えてくれないか。朝よりは、落ち着いたから」
「わかってる。言うよ、そうしないと話せないから」
数回、深呼吸をする。胸に手を当て、心音を確かめて告げた。
「柳生…………比呂士さんだ……」
「誰?」
「忘れていないはずだ。関東大会で対戦した、立海大付属の選手さ」
「…………………あ……………」
ぼんやりとした記憶が、次第に鮮明に蘇ってくる。柳生比呂士――――確か桜井と対戦したダブルス選手だ。
よりにもよって、立海の選手。橘を痛めつけた立海の選手とは。あまりにも信じられない真実に、瞳は見開かれた。
「桜井、なぜ?」
伊武は桜井を見る。嫉妬とは異なる怒り。怒りを通り越した悲しみが渦巻く。
「わかっている。わかっているよ、伊武。本当に、なぜだったんだろう。本当に…………」
フェンスに額を擦り付け、桜井は俯く。声は途中で途切れた。
その姿に彼が苦悩していた事を伊武は悟る。自分との関係以上に、言えなかったのだろう。
桜井は語った。
橘が入院する病院に、立海の部長・幸村も入院していた事を。
伊武と気まずくなった日、柳生と出会った事を。何度も、偶然が重なって出会った事も。
優しく、真っ直ぐな彼に、心の安らぎを感じた。純粋に彼の好意が嬉しかった。
気付いたら、引き戻せなくなっていた。自分が変わろうとしている。伊武を想う心さえも、揺らいでしまいそうになっていたのだ。
どんな時も、桜井の目に柳生は心強く映っていた。
「伊武にも話せなかったし、あの人にも話せなかった。いつか、いつか言わなきゃって、いけないってわかっているのに」
押し付けられたフェンスが軋んだ。
「俺は、伊武に別れられて当然の事をしていたんだ」
「柳生には話したの」
発せられたのは、細い声。想像以上に凹んだのを伊武は実感する。
相手が立海の柳生と知り、激しい劣等感を覚えていた。
テニスは強かったし、恐らく年上の三年。自分が知らない事を知っているだろうし、出来ない事もたくさん出来るだろう。比べられたら、とても敵わない。
「話した。あの人は俺の返事を待ってくれた」
「どう…………するの……」
鼓動が嫌なように高まる。緊張と恐怖で、指の先が凍えた。
「断るよ。もう、決めてる」
桜井はきっぱりと言い放つ。
「あの人の好意は嬉しかったし、俺も好きだった。でも、大事な事を言えなかった俺は今更甘えられない。頼ってしまうのが目に見えてる。もし…………その後でまだあの人が好きだったら、支えられるくらい強くなってから会いに行きたい」
「駄目だよ」
自然と、呟かれた。
「それは駄目だよ桜井。それじゃあ、俺と同じだよ」
首を横に振る。
「桜井と別れてわかった。自己満足だけ片付けて、何も進んじゃいなかった。女の子を好きになっても良かったかなって思ったけれど、無理だった。柳生との事は、混乱していてどうしたら良いのかわからないよ。だけど、桜井は逃げの選択をしている。それだけはわかる」
「……………………………」
「俺は、ずっと桜井といて、楽しかったし幸せだったけど、明るい将来は想像できなかった。後ろめたさが剥がれなかった。俺から言い出したのに、桜井をずっと困らせていたね。一人で勝手に悪い結果を想像して、一人で潰れそうになってた。桜井と別れて、桜井から柳生の話を聞いて、俺は思う。
桜井を好きになった事、桜井に言った事、間違いだなんて思いたくない」
想いを吐露する伊武の唇は泣き出しそうに曲がるが、目は穏やかだった。
「俺も、桜井も、お互いいなくても生きてはいける。他の誰かとだったり、一人でも。けど、俺は桜井といた方が楽しい。
改めて思うよ。俺は、桜井と未来を生きたい。俺と君は違う人間だし、これからも変わっていくんだと思う。どうなるかわからないし、想像する以上に未来は暗いのかもしれない。それでも俺は歩いてみたい。君とだったら。
ま、桜井次第だけど。浮気も嫌だし。もちろん明るい方向を目指したいし。…………お喋りが過ぎたね」
軽く咳払いをし、照れ隠しのように首を曲げて筋を伸ばす。
「プロポーズみたい」
柔らかに微笑む桜井。唇を曲げ、彼も泣き出しそうになる衝動を耐える。
「……こうして向き合って笑えたのを、忘れかけていたよ…………」
「そうだね」
二人の口元が綻び、安堵の息が吐かれた。
桜井は前に出て、身体を伊武へ密着させる。肩に顔を埋め、胸と胸を合わせた。抱きはせず、寄り添わせる。そうして、伊武だけに聞こえる声で囁く。
「伊武、有難う…………」
「ん」
伊武も喉を鳴らし、返事をする。
身体を離し、桜井は言う。
「逃げの選択はしない事にする。しかしそうすると、あの人との事も決めなくちゃならないから、時間をくれないか」
「悔しいけど、そういう事になるね。……ねえ、桜井」
「うん?」
「どちらにしても、俺は桜井ともう友達には戻れそうに無い。それでも、君はこれからも全国を目指す大切な仲間だ」
「俺も、同じ気持ちさ」
二人は手を伸ばし、硬い握手を交わす。
かくして心のわだかまりは晴れた。
告げるべき言葉、決意は伝えた。
彼を愛した。後悔していない。前に進むべき準備はすでに整っている。
残すは、彼の想いがどこへ行き着くか。
願わくば、隣にいて欲しい。
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