玄関で立ったまま靴を履き、爪先を鳴らす。
「じゃあ、行って来るよ」
 そう言って、桜井は家を出た。
「雅也?」
 桜井の母は顔を出し、誰もいない玄関を見る。
「雨が降ってきたって、言おうと思ったのに」
 戻ってくる気配はない。
 せっかちな子ね。溜め息を吐いた。


 アスファルトに落ちた小さな黒い染みは、点々と増えていく。
 それでも桜井は気にせずに通学路を行く。
 振り返るとか、立ち止まるとか、今はしたくなかった。
 追い詰められていく心の限界は刻々と迫り、何かの拍子があれば、崩れ落ちてしまいそう。
 だから、前だけを向いていたかった。


 雨は止む事無く、小雨は雨と化し、降り注ぎ続けた。
 空を雲が覆い、大地を濡らす。
 長い、雨の日の始まりであった。



長い雨
- 前編 -



 黒い学生服や鞄は、始めの頃は雨を弾いてくれたが、やがては水を通して冷たくなる。
 桜井が学校へ着く頃には、随分と濡れてしまった。
 この調子では朝錬は無いだろうが、部室にタオルが置いてあるので向かう事にした。幸い、鍵は用務員が開けていく為、鍵当番という役目がない分、便利である。
 小走りで部室へ行く桜井。同じ目的で部室へ向かう、もう一つの影には気付きもしなかった。相手は裏門から入って来たのだから。後ろから回り込むようにやって来た人物と鉢合わせになり、二人は硬直する。
 交差する視線。よりにもよって伊武であった。
「…………………………」
 傘も差さずに立ち尽くす桜井と伊武。時は止まる事無く、衣服に水を浸食させていく。
 薄暗い空が、余計に雰囲気を重くさせる。
 先に沈黙を破ったのは伊武。彼は桜井の横を通り、部室の扉を開けた。つられるままに、桜井も中に入る。


 室内はさらに空気が重くなった。
 扉を閉めると雨音は若干塞がれ、曇りといっても明かりを付ける程ではないので、薄暗い中で行動をする。こうして二人きりになった時の空気は変わっていない。痛い程静かで、心に刻まれたひびがじわじわと広がっていくような感じがした。
 二人はそれぞれのロッカーからタオルを取り出して、まずは濡れた髪を拭う。
 こんな時は背中でも向いていたいのに、位置的にどうしても並ばなくてはいけなくなる。想像以上に雨に濡れていて、肩を見るとシャツが透けていた。
 桜井の髪は整髪料が無駄になってしまい、溜め息混じりに髪を下ろす。そうして、タオルで拭う振りをしながら、横目で伊武を見た。薄暗い部屋の中で、しっとりと濡れた伊武の髪は漆黒の艶やかさを醸し出している。
 不意に触れてみたい衝動に襲われ、桜井は視線を逸らしてタオルを握り締める。この手は覚えている、伊武の髪の感触を。
 見た目通り艶やかで、綺麗で、いかにも伊武らしい、彼という存在を感じられた。
 けれども触ると伊武は少しだけ嫌な顔をして、黙り込んでしまう。良いのか、悪いのかをはっきりさせたくて、わざと触れ続けたものだ。


 あの頃は、幸せだった。幸せだったと思っていたはずなのに。
 どうして、こんな事になってしまったのだろう。なにが二人を変えてしまったのか。
 全てはそう、立海との試合から。支えだった、憧れていた、太陽だった橘が崩れてから。
 立海との出会いは、失意に落とさせるだけではなく――――
 頭を振り、桜井は閉じた目を開いた。
 あの時こうしていたら、思い出を無かった事に出来たら。何度思い、苦悩した事か。その度に歯がゆく、己に絶望した事か。


 桜井はもう一度、伊武を見た。今度は横目などではなく、隠さずに見据える。
 伊武はゆっくりと振り向き、桜井を見た。
 見えない何かに背中が押されるように、桜井は一歩前に出て伊武の唇に口を押し付けていた。


 触れた時、冷たかったそれは次第に温度を高めて、心地良くなる。
 下がろうとした伊武の腕を桜井は引き寄せた。
「…………ん……」
 喉がひくりと震え、吐息が漏れる。
 久しぶりの口付けは、唇を合わせただけなのに甘くてとろけそうだった。口付けとは、こんなに良いものだったのかと、内心驚いた。
「う」
 二人の瞳は閉じられる事無く見詰め合う。相手の瞳に己の影を落とし、伊武は目を細めた。
 桜井の想いが一心に伝わってくる。この別れを告げた男に向かって、真っ直ぐにだ。
「んんっ……」
 心臓がバクバク鳴って、頭がくらくらする。どうしようもない引力を感じる。この気持ちは、ずっと変わらない。だが、同等の恐怖があった。
 想えば想うほど、壊れていく自分を感じていた。桜井を壊してしまいそうになる自分を感じていた。
 二人の行き着く先は、潰し合う虚無なのではないか。こんな関係なのだから。
 幸せな“今”はあったが、幸せな“未来”を思えなかった。
 駄目な考えなのはわかっている。桜井が否定してくれるのを待っていた。甘えて、依存する、そんなずるさに、何度己に絶望した事か。
 別れも一方的で、どこまで勝手なのか。駄目なのはわかっている。わかっているからこそ――――


 伊武は桜井の手を解き、一歩下がった。唇は自然に離れる。
「…………………………」
 彼の表情は振り向いた時の、口付けを交わす前と同じであった。
 ただ一つだけ違う。僅かに瞳が濡れている。
 それは、もう本当に二人は駄目なのだと、告げられているようであった。言葉に出来ない想いが、訴えてくるのだ。
「………あ」
 薄く開かれた口から、呟きが漏れた。
「………そっか………………」
 声が、震える。泣き笑いのように口を硬くつぐむと、荷物を抱えて部室を出て行った。
 半分だけ開いた扉。先に見える景色には桜井の姿は見えない。
 一人佇む伊武は、後でメールか何かで言葉を告げようと考える。詫びや慰められる資格は無いが、せめて何かを。
 だが、何を言えば良いのかわからず、送るのには時間がかかってしまった。






 雨は、夕刻になっても降り続ける。
 神奈川県にある立海大付属は放課後になると、色とりどりの傘を持った生徒たちが帰宅していく。
 その中には柳生と仁王の姿もあった。柳生はシックな傘を、仁王はビニール傘を持って校門を潜る。立海ともなれば、雨が降っても練習が出来る場所はあるが、生憎三年生は追い出しとばかりに帰宅の指示が出た。
「あいつ、なんじゃろ。俺たちはやる気あるのにのー」
 仁王は髪を耳の後ろにかけながら、コーチへの愚痴を吐く。彼の髪は湿気のせいか、勢いが無い。
「高校に上がった時の備えでもさせてくれても良いじゃねえの」
「では、まずは勉学の予習でもしたらどうです?」
「お、刺々しい。紳士も腕が疼いたんか」
 くくく。喉で笑う仁王。その横で歩く柳生の口も笑っていた。
「それにしても暇じゃ。どっか寄るか。お前も来んしゃい柳生」
「いえ、私は留守番をしなければなりませんので」
「留守番?」
 訝しげに仁王は柳生を見る。
「今日一日、家族が出かけてますから」
「妹のあん娘もか?」
「はい。友達の家でお泊りだそうです」
「友達って、ボーイフレンドかもしれんよ」
「まさか」
「ホントか〜」
「からかわないでください」
 ニヤニヤする仁王の視線を、ツンと撥ね退ける柳生。
「じゃあ俺が遊びに行っても良か?」
「お断りします。仁王くんは私の買った本にケチ付けますから」
「それでムキになった柳生が内容を説明してくれるおかげで、俺は博識になるっちゃ」
「君……非常に迷惑ですね」
「プリッ」
 柳生が呆れ果てるも動じない。相変わらずの仁王であった。


「家に家族はいない、友人も来ないのなら、それこそ誰かを連れ込む好機じゃな」
 彼、とか。仁王は口だけを動かす。
「馬鹿言わないで下さい」
 彼が誰を指すかをすぐに察し、柳生は頬を染めた。
「馬鹿って事はないじゃろ。それから、どうしてる」
「どうも、こうも」
 俯き、顔を逸らす。
「大会も終わったし、何か行動せんと何も動かん。柳生……結ばれる気はないのかの?」
「言われなくても、わかっています。ですが」
「のう、柳生」
 切り出す仁王の声色が変わった。
「どうせ叶わない想い。いっそもう、パーッと諦めたらどうじゃ。二人で」
 肩を上げて見せ、彼は笑う。
「彼女でも作って、普通に青春を謳歌すれば良いんじゃ。今度ほれ、合コンでもやってみるか」
 仁王くん?柳生は振り返り、呼びかける声が出ずに、口を薄く開いた。
「…………みは、応援してくれているのかと、自惚れていました」
 やっと搾り出す声の初めは音にならない。
「…………………………」
 仁王は鼻で息を吐き、髪をいじる。
 応援は、していた。だが桜井と伊武との存在を知った今では、それは出来ないでいた。
 友が傷付かない事を望んでいた。立たされている不幸に気付いていないのなら、そのままでいさせてやりたかった。
「俺は、あいつはやめておいた方が良いと思うんじゃよ」
「なぜです。君に何がわかると言うのですか」
 眼鏡の奥から、痛い視線が刺さる。
「知らないのは、柳生もだろ。本当は、怖いんじゃろ」
 柳生の足が止まり、二三歩歩いた先で仁王も止まった。


「私をいじめてそんなに楽しいですか」
 心にも無い柳生の言葉に、仁王は目を見開く。
「柳生」
「ここでお別れです」
 丁度立っていた場所は、二人が別れる信号の前であった。
 声をかけようとする仁王に、柳生は背を向き、横断歩道を渡って行ってしまう。
「柳生…………」
 後姿を眺める中で、信号は赤へと変わり、車が走り出した。雨のせいか、タイヤの音が良く通る。
 何もしてやれない不甲斐無さが悔しかった。






 仁王と別れた柳生は、一人歩道を歩く。住宅街へ入ると車の音は遠くなり、静かになった。
 友との喧嘩は胸につかえる。痛い所を突かれて、つい怒り出してしまった。
 明日、謝ろう。傾きかけていた頭を上げる。
「ん?」
 不意に、声が漏れた。立ち止まり、傘を持ち直して、良く見えるようにする。
 電柱に寄りかかる一つの影。仁王と同じようにビニール傘を持っていた。白いシャツに黒いズボン。有り触れた男子中学生の制服。
 まさか。柳生の胸がどくりと鳴る。
 鼓動と同時に、糸に引かれるように彼は振り向いた。


 雨が、静かに降り注ぐ。二人を囲い、閉じ込めるように。
 重く、冷たく、降り注いだ。










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