長い雨
- 中編 -



「桜井、くん……?」
 恐る恐る呼びかける声が掠れた。
 桜井はただ見つめ返す。
 その姿からは、どこか弱々しさを感じた。不安定で、雨音に掻き消えてしまうような。
 普段の彼は、例え影を纏っていても立っていられる芯を持っていたはずなのに。
 違和感が非現実めいて、目の前に立つ彼は幻想とさえ思える。
「お久しぶりです」
 薄く笑う桜井だが、低い音が聞き取り辛い。
「一体……どうして、こんな所に」
 柳生は心配そうに歩み寄る。


「わかりません」
 不意に桜井が柳生を見上げた。
 交差する視線に、柳生の胸は見えない力に突かれる。
 雨のせいか薄暗い空間の中で、桜井の瞳の暗さが吸い込まれそうなくらい黒い。肌は青白い、不健康なものに見えるが、浮き立った色はぞっとするほど白かった。髪も、肌も、傘を差していたというのに、しっとりと濡れているように見えた。
 確認にと、制服を見れば白いシャツは薄っすらと透けて張り付いている。もっと良く見れば感触さえも伝わってきそうで、柳生は視線を戻した。
「濡れていますよ」
 自分の傘を桜井の傘の上に上げて、彼を中に入れる。差し掛かる影が、より闇を深めた。
「駅に着いてから、傘を買ったもので」
 俯いた桜井は肩を押さえて摩る。
 つい彼の視線を追った瞳が、襟の隙間へと向いてしまう。
 ずっと恋焦がれて、触れてみたいという欲求が高まっているせいなのかもしれない。柳生は首を振り、雑念を振り払おうとした。
「ここへは、何のご用で来たのですか」
 まさかまた部長が入院でも。
 桜井の元気がないものだから、何か冗談でも言おうと過ぎったが、思いついたものは不謹慎なものであった。慣れぬものはしないのが吉――――柳生は言葉を飲み込む。
「ですから……わからないんです」
 呟くように桜井は同じ事を言う。
「もう……わからなくて……どうしようもなくて…………駄目だって何度も考え直そうとしても。あなたに」
 桜井の手が静かに柳生のシャツへ伸び、掴んだ。
「会いたくて」
 寄せるように手を引き、頭を柳生の胸に預ける。
 固い感触が胸に当たった。大した事は無い衝撃であった。
 なのに。手の力が緩んで、傘がゆっくりと傾いて地に落ちる。
 ドクドクと心臓が忙しなく鳴り、血潮が沸いて身体が熱い。雨の音も、冷たさも、消えていく。
 神経が、触れている場所に集中した。
 喉が渇いて生唾を飲み込んだ。そっと、ゆっくりと、両手を上げて、手を何度も開閉させて、桜井の手に回す。そうして背に触れて、ゆっくりと、ゆっくりと、力をこめて抱き締める。
 湿っていて、生暖かい人の温度。息を吸うと、人の匂いがした。
 これが桜井の温度と、匂いなのか。目を瞑って記憶に焼き付けた。




 雨だけが鳴る濡れた道を、二つの傘が行く。
 桜井は手をなかなか離してはくれず、どこか、らしくない彼をそのまま帰すのには気が引けて。
 二人とも雨に濡れて、時間も遅くなっていくばかりで。
 その中で柳生が下した判断は、自宅へ連れて行くことであった。
 “馬鹿言わないで下さい”
 仁王に放った言葉が、まさか返ってくるとは。今、馬鹿にした行為を行おうとしているのだ。
 歩く中、会話は特に交わさなかった。桜井は俯き加減で柳生の隣に並んでいる。
 柳生は思う。県を越えた自分を会いに来るというのは、回りには頼れない何かがあるのだろう。心の根を折られる、何かがあったのだろう。力になりたいと強く思うが、何も話してくれなければ何も出来ない。話さなくても通じ合える程に近付きたいという思いだけが先走る。
 三度目の問いかけでも"わからない"と答えられれば、もう術が無い。だから、言い出すのを躊躇っている。
 そうこう巡らす内に、家の前まで着いてしまった。"柳生"と表札のある一軒家だ。
「どうぞ。ここが私の家です」
「お邪魔します……」
「今日は、家族が出ていますので、くつろいで下さい」
 柳生は扉を開けて、桜井を招き入れる。
「じゃあ、二人きりなんですね」
 横を通り過ぎる桜井が呟いた。
「え」
 耳が赤く染まり、思考が一時的に止まりそうになる。
 戸を閉めて振り向くと、靴を脱いだ桜井が柳生を向いて見詰めていた。
「柳生さん」
 家の温かな明かりが、また異なる彼を映し出す。細め、笑う目は捕らわれたように逸らせない。
「は」
 はい、という返事が緊張で詰まり、一文字だけ吐かれる。
「帰りたくないんです」
「え」
「泊めてくれませんか」
「…………………………」
 衝撃に、手の先が一瞬痺れた。
 家族は明日にならねば戻らない。断るのも、受け入れるのも全て柳生にかかっている。だが、自分が良いとか悪いとかの問題ではない。
「いけません。ご家族が心配されるでしょう。それに……明日は平日です」
 動揺を払い、出来うる限りのはっきりとした口調で、桜井を考え改めさせようと意見した。
「学校へは早い電車で行きますから。家へは電話で話しておきます。だから」
 桜井は靴下のまま、玄関へ下りて懇願する。
「お願いします。柳生さん」
 これ以上の拒否を示すなど、出来なかった。
 思えば、家へ連れて来た時点で選択肢は狭められていたのだ。もしかしたら、最初からそのつもりだったのかもしれない。心のどこかでわかっているし、望んでいた。彼の策に溺れ、惹き付けられていくのを。




 雨に濡れた身体が急に冷えてきて、柳生は桜井にシャワーを浴びたらどうかと話を持ちかけた。桜井を最初に入れて、彼が風呂場にいる間に着替えを用意する。着替えの服は自分のものであった。家には家族がおらず、桜井という客人が入ってきたせいか、自宅のはずなのに違う空気を感じずにはいられない。その上、客人が客人なのだから、落ち着かない。時間の進みも遅い気がした。
 リビングを意味無く、うろついた柳生は溜め息を吐く。夜は長い。窓の外に降る雨も、変わらず降り続けた。
「先に使わせてもらって、すみません」
 そろりと、桜井が開いたドアより顔を覗かせる。
 首にタオルをかけ、サイズの合わない柳生のシャツとハーフパンツ。柳生が着る際に感じたものを、彼も感じている。生活臭の染み付いたものを使われている。柳生は酷い羞恥を見せられた気分だ。それは桜井の方も同じだろうと思うのに、彼は表情一つ変えない。私だけが思っているものと余計に羞恥を掻き立てられる意地悪さにも映る。
 桜井の思惑を、想像しようとしてしまう。暴いて、覗いて、全てを見たいと望んでしまう。
 ああ、同じ男だ、年下だ、そう変わらないものを経験しているはずだ。全く見えないはずはない。
 何度心の内へ言い聞かせた事だろう。
 なにが一体、遮断をしている。
 他でもない、この想いだろう。一方的で、曲がる事を知らない、視野の狭い想いなのだろう。
 この歯がゆさを、胸の痛みを、彼はわかっているのだろうか。
 裏を返せば憎らしさなのだろう、この想いは。
 けれども責任は他でもない、自分にある。そうしてまた募っていく。愛と憎しみとは、良く言ったものだ。


 柳生は口を硬くつぐみ、胸を掴むようにして上着を掴む。
「柳生さん?」
 桜井は目を丸くさせてから瞬きし、名を呼ぶ。
 そうして気付いた、彼が髪を下ろしている事を。
 どちらでも、彼は良い。そんな盲目な言葉が一瞬にして過ぎった。
「はい、わかりました。入ります」
 薄く笑い、桜井の横を通り過ぎようとする。
 香る、水気を持ったシャンプーの匂い。
 普段は良い香りのはずのこの匂いは、むせそうなくどいものに感じた。思わず、手の甲で鼻を押さえてしまいそうになる。
 きっと、本能なのだ。危険だと知らせているのだ。
 背中で、視線が当たる。
 危機を察知した時、目を合わせずに静かに立ち去るのが得策。
 心ではない、身体がそう騒ぐ。決して向かってはいけないと。


 更衣室で服を脱ぎ、風呂場に入る。
 濡れたタイル、熱気は桜井が使った証。
 ふと下を見れば彼の髪が落ちていた。髪をかき上げているせいか、想像していたよりも長い気がする。
 背を屈めて拾おうとするが、やめてシャワーで流した。
 彼の知らない所で触れるのは、後ろめたい気がしたのだ。
 たとえ、髪の毛一本でも。











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