長い雨
- 後編 -



 湯を浴びて上がり、リビングへ行くと、ソファに座っていた桜井がと目が合う。
 柳生は待ち構えるべき壁に気付く。寝る場所をどうするか、という事だ。
「桜井くん、私の部屋へ行きましょう」
「良いんですか」
 目を細める桜井。試されているような視線に、凝視すると吸い込まれそうになる。
「はい。どうぞ」
 自室しか選択は無かった。どうするかなんて、選べるものは無かった。
 桜井は立ち上がり、ソファの横に置いてあった自分の鞄を抱える。
 案内をしようと背を向けた柳生の耳は、桜井の呟きを捉えた気がして振り返った。
「何か、言いましたか」
「ええ。…………柳生さん、優しいって」
 見上げた桜井の瞳はまた細められ、笑んだ。口も笑っているのかと視線を動かそうとしたが、縦に動かせずに横へ逸らした。
 柳生の部屋は二階にある。廊下を歩き、階段を上り、桜井が付いてきているのかは振り返らずに足音だけで確かめた。木が軋む音、足が付く音、耳を澄まして確かめた。




「こちらです」
 部屋へ着くと扉を開け、電気を付ける。
「ここが、柳生さんの部屋」
 桜井は中に入って見回した。特に目に付いたのは本であった。本棚には難しそうな本が並べられている。
 屈んでタイトルを読むとミステリーが目立つ。身を起こして柳生の方を向いた。
「ここ、柳生さんの匂いがする」
 柳生は驚く素振りを見せるが、短く言い返す。
「今日の君は、おかしい」
 ずっと思っていた違和感を口に出した。
「今日、って」
 俺の何を知っているのか。
 反射的に過ぎった言葉を飲み込み、目を伏せて俯く。
「あ」
 持っていた鞄の中にあった携帯が振動し、声を漏らした。
 取り出して、携帯を開き、メールの欄を見ようとするが、途中で開けたまま鞄へ押し込んだ。
「良いのですか」
「ええ」
 桜井は顔を上げ、鞄を部屋の壁に立てかけた。
「では、もう寝ましょうか」
 緊張による精神的な疲労で、寝るには十分な眠気を持っていた。
「私は床で寝ますので、桜井くんはベッドで」
 明かりのスイッチに手を当て、押す。


 パチン。部屋が暗くなるタイミングと、柳生の息を呑むタイミングが重なった。
 背中から、桜井が腕を回してきたのだ。
 締まり、抱き締められるより早く、胸の内の心がぎゅっと締まる。
 ドクドクドクドク。心臓が早鐘のように鳴りだす。
 唇が震えて動かない。声が出せない。
 心がぎゅうぎゅうと締め付けられて、目の奥が染みた。
「床、だなんて。一緒に寝ませんか」
 桜井が背に額を付け、低い声で囁く。
「ねえ、良いんですよ」
 回ってきた手が上着の胸元を掴んだ。布擦れの微かな音が、雨音に囲まれた中でも聞こえた。
「いいえ。お願いします」
 押し付け、摺り寄せる。
「なに、が」
 搾り出し、柳生は声を発した。
「駄目です。いけません」
 手を引き剥がそうとした腕は、上がって触れられぬまま落ちる。手を閉じ、指をこすって滲んだ汗を拭い、開いてからズボンでもう一度拭った。
「だから、良いって言っているんです。柳生さん、俺の事を好きって言ってくれたじゃないですか」
 胸に、大きな矢が刺さった感覚が襲う。
「言いましたよ。君が、好きだと」
 でもね。柳生は両手で桜井の手を引き剥がし、捉えたまま向き直った。
「そんなんで、君を好きになったんじゃない!」
 腕を振り下げ、離す。
「君が好きだ!けれど気安く君を抱く程、浅くは無い!踏み躙らないでくれ、私の想いも、君自身も…………。悲しいですよ……私は……。私は、悲しい」
 はぁ、はぁ。感情が昂り、息が乱れた。
 桜井の首の後ろに手を沿え、引き寄せるように抱き、二人は膝を落とす。
「柳生さん。あなたは、優しい」
 柳生の肩に顔を埋め、桜井は呟いた。
「あなたが優しいから、あなたがとても優しいから、あなたが優しすぎるから」
 滲みそうになった涙を、柳生の衣服に染み込ませる。
「好きに、なっちゃうじゃないですか。でも、それは言っちゃ駄目だった」
 柳生の肩に優しく触れ、そっと距離を取って彼の顔を真っ直ぐに見上げた。
「もう、好きな人がいたから。あなたと同じ、男の」
 包むように抱き締める。ゆっくり、ゆっくりと力をこめて。
 柳生の目は見開かれていた。目尻が痙攣し、瞳は前を見ているようで、どこも見えていなかった。


 そうだったのか。
 力が抜ける。
 そうだったのか。
 頭の中で、思い出がパズルのように組み込まれ、形を成していく。
 桜井の戸惑った顔、悲しそうな顔。繋がったような気がした。
 思い返してみれば、あったのかもしれない可能性。疑いもしなかった。幸せだったから。
 少しぐらいなら、過ぎった事もある。しかし、あまりにも非現実だった。
 言ってくれれば良かったのに。いや、無理だっただろう。
 この想いはあまりにも盲目すぎた。
 都合の悪いものは耳を塞ぎ、目を逸らして走りすぎた。疲れも知らずに、ひたすらに前を向いて。
 愛していれば、愛さえあれば、全てだと思っていた。
 身体がバラバラになっていくようであった。崩れて、滅びて、跡形もなくなるような。
 それでも、無くならなかった。それでも、愛だけが残っていた。


「愚かでしたね、私は」
「違う、嬉しかった」
 互いの声は掠れ、雨音に掻き消える。




 柳生のベッドに二人は背中合わせで眠った。枕は除けて、柳生の眼鏡は机に置いた。男二人では狭くて暑かったが、それについては何も言わない。横に転がった体勢で、淡々と言葉を交わす。
「どなた、なんですか。君の……」
 途絶えた言葉の先を察して、桜井は答える。
「伊武、です」
「ああ、彼ですか」
 伊武。なんとか名前と顔は頭の中で合致した。
 参謀と呼ばれる柳が対戦前に他校の情報を見せてくれるので、なんとなくではあるが記憶には残っている。長い黒髪が印象的で、やや暗そうな雰囲気をした選手。一瞬は意外であったが、なんとなくではあるが納得は出来た。
 桜井のときどき見せる雰囲気が、伊武に感じたものに通じる気がする。恐らく、好き合う事で似てきたのだろう。
「伊武くんと、何かあったから来たんですか」
「いいえ。何も無かったんですよ。何も、無かった」
「………………………………」
「それに、別れたし」
 柳生に見えない位置で、桜井の口元が硬くつぐまれる
「別れても、好きなんでしょう」
 桜井の返事は返って来ない。
「何か、言って下さい。君はそうして、私を束縛する。ずるくて、酷い人だ。憎らしい」
「………………………………」
「一つ、約束をして下さい」
「………………………………」
 僅かだが、柳生の声色が変わる。
「君の気持ちが決まったのなら、私の元へ来て下さい。どちらの結果でも良い」
「………………………………」
「君の、笑顔が見たい」
「…………………………わかり、ました」
 低く、聞き取り辛いが、確かにそう聞こえた。
「愛しています」
 あなたの愛も、十分俺を狂わせている。
 桜井は目の前で己の手を開閉させてみせた。伊武への想いも、柳生への想いも、どちらかを絶対に捨てねばならない。もう抱えてはいられないのだ。
 この手は、ただ一つの頼りない手。指で唇をなぞれば、朝に触れた伊武の唇の感触が戻ってくる。瞳は柳生の部屋という現実を教えてくれる。今の自分は夢と現実の狭間に立たされているようであった。ゆらめき、不安定で行くあてもなく彷徨っている。ああしかし、もう迷えはしない。ああ今は、休めよう。桜井は瞼を閉じた。
「………………………………」
 柳生はそっと仰向けになり、天井を見上げる。まだ、雨が降っている。
 雨はいつか止むだろう。桜井の迷いも、いつか晴れるのだろう。その時、自分はどんな顔でいられるだろう。
 この恋を、諦めなければならない。
 考えるだけで、涙が零れた。
 愛している。愛しているのに。いくらだって、愛せるはずなのに。
 涙は生暖かく、気持ち悪かった。




 雨は降り続けた。雨音と、二人の寝息、その中にもう一つ混じる音があった。
 桜井の置いた鞄。中から一定の間隔で携帯電話が振動している。くぐもった微かな音は微弱ながらも存在を示していた。
 開いたままの携帯。画面はメールの欄。
 何通も、何通も“伊武”の件名が続いていた。








 翌日、雨は止んだ。長い雨は、ほぼ一日中降っていた事になる。
 目覚ましの設定時間の前に、柳生は自然と目が覚めた。
 隣には桜井の姿は無く、机の上に畳まれた着替えと書置きが残されている。内容は泊めてくれた礼に対するシンプルなものであった。
 カーテンを避け、窓を開けて外を見ても、桜井は見つからなかった。


 建物の間から顔を覗かせる朝日が眩しい。目を細め、町並みを眺める。
 この中に、再び桜井が溶け込むのを思い浮かべて。
 その時もきっと、こうして目を細めるのだろう。眩しいに、違いないだろうから。










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