- 前編 -



 ネットの上を横切るボール。動き、打ち返す選手。
 立海大付属中テニス部は大会に向けて練習に励んでいた。
 しかし、ボールを、狙うべき場所を瞳は捉えているはずなのに意識は別の所に移行し、乱れそうになる。
「つ…………」
 選手の一人、切原はコートの上で足を止め、目の間を指で摘まんだ。頭を振り、前を向くと対戦相手の桑原がネット際まで寄って彼の様子を伺っている。
「赤也、どうした」
「別に、どーもしないっスよ」
 ケロッとなんでもない顔をしてみせた。
「そうか?」
 桑原は切原の瞳を見据えようとするが、一瞬“別の場所”へ逸れるのを切原は見逃さなかった。しかし指摘はせずに口を閉ざす。そうして試合の続きを再開させた。
 そんな二人のやり取りが終わる頃。隣のコートにいた丸井が急にストレッチを始めた。


 “別の場所”の近くには真田が腕を組んで立っている。
 “別の場所”の場所には何も無い。何も無いのに、ぽっかりと空いた空虚があった。
 真田の隣、副部長の隣――――部長である幸村の立つ場所であった。
 幸村は病を患い、入院している。立海は要を失っていた。
 けれど、常勝の名は汚せない。士気を落とす訳にはいかない。部長の代わりを務める真田の声は一際大きかった。ああ、だがその後に残る空虚。誰もが知っていながら、何も言わなかった。
「弦一郎」
 柳は無意識に真田の名を呼んだ。
 友を見据え、立ち尽くしていた事に気付き、一人驚いたようにぎこちなく唇が震える。
 幸村の病はデータでは予想が出来ない。幸村の分まで頑張ろうとする真田が今にも潰れそうに見える。二人は大事な友だった。どうすれば友を救う事が出来るのだろうか。考えれば考えるほど泥沼へ嵌っていく気がした。皮肉の囁きまで聴こえてくるのだ。
 どうすれば、友を救っているという自己満足を得られるのだろうか、と。




 今日の練習を終えて、選手たちは制服に着替えて帰宅していく。
 夕日に染まる部室に残る真田の背に、そっと柳は声をかけた。
「弦一郎」
「…………………………」
「弦一郎」
「蓮二か。どうした」
 二度呼んで、真田は振り返る。上の空だったのが見え見えであった。練習中はあんなにも張り切った素振りを見せていたのに。隠し切れない大きな穴が、限界を超えた無理に見えてしまって胸が痛む。
「腹、減っただろう。何かを食べに行かないか」
 出来るだけ真田にわかるように笑い、柳は誘う。
「そうだな。どうするか」
「焼肉はどうだ。たまには皆に内緒で食ってみるのは」
 立海テニス部のメンバーには焼肉好きが多い。焼肉を食べる時は大概、レギュラー陣で寄ったものだ。
「すまないな、蓮二。幸村がいない間の勝利を勝ち取り続けるまでは、焼肉を自主的に禁止している。それに、お前は脂っこいのは趣味じゃなかったか」
「たまには食べたくなる時もあるさ。残念だ」
「……すまん」
 帽子を被り直し、表情を腕で隠す。
 二人は同時に俯いた。
 いくら鈍い真田にでも柳の気遣いは痛い程わかっている。柳自身も、なぜこうも見え透いた誘い方をしたのか、数秒前の自分の言動が意味不明であった。
 わかっている、友の心が。
 わかっている、友の痛みが。
 口に出せない思いが。
 伝えなければならない言葉が。
 何も出来ない歯がゆさに瞳を逸らすしかない。
「俺は、帰る」
 柳は沈黙を破り、背を向けた。
 ドアノブに触れた時、真田の声が聞こえる。
「また、明日な」
「ああ」
 項垂れるように頷いて扉を開けた。


 部室を出て、校門を潜ろうとすると、柳は門の柱で揺れる尻尾――――もとい、仁王の結んだ髪が目に入る。
「よお」
 制服のポケットに手を突っ込みながら前に出て、仁王が企んだ笑みを見せた。いや、仁王の笑みはどんなものでも企んだように映る。
「遅い帰りだっちゃ参謀。何しとった」
「別に」
 返事の声はどことなく暗い。ポーカーフェイスを仲間内まで保つのには疲れてしまい、つい感情が表に出た。
「仁王、お前こそどうした」
「参謀を待っていたナリ」
 くく、仁王は喉で笑うが、柳は無反応に流す。
「俺?」
「そうじゃー。もうすぐ俺のクラスで嫌な小テストがあっての、教えてほ」
「柳生に聞けば良いだろう」
 途中で遮り、言い放つ。あまりのも冷たい声が口から出て柳自身も驚くが、訂正をする気分にはなれなかった。
「お、おお。柳生はちと…………説教臭い所があるんで……えー……参謀でもと思ったが、わかった……。あー、その、すまんの参謀」
 急に調子が低くなるが、また急に上がる。
「…………………………」
 表情を変えない柳に、仁王の瞳が焦ったように彷徨うが、悟られないように話を続けた。
「ほれ、参謀は成績良いし、何でも出来そうっちゃ。そんな参謀でも出来ん事あるなら俺に言いんしゃい。俺……俺は、詐欺師じゃし………」
 仁王の言動がおかしい。柳は瞬きさせて見張る。
「仁王?」
「俺、詐欺師じゃし、なんとでもしてやるぜよ」
「おかしいぞ、仁王」
 肩に触れようと伸びた手は、仁王が下がる事によって届かない。
「おかしいのは、皆じゃろ」
 俯き、影を秘めて口を硬くつむぐ。
「自分をもっと心配しんしゃい」
「仁王、俺は」
「嘘」
 吐き捨てるように言い、仁王は背を向けて大股で行ってしまった。
 言い返す事も、呼び止める事も出来なかった。
 立ち尽くす柳の横を、帰宅する生徒たちが物珍しそうに眺めて通っていく。


 柳は思う。仁王が、部室での自分と重なる。
 方法がわからなくて、とにかく元気付けようとがむしゃらに向かった自分と。
 まさか。柳は思い直す。
 仁王がそこまでする友愛を自分に向けるはずは無い。
 ただ、心が孤独で共通点を強引に探しているだけだ。
 仁王は……、仁王と俺は……仲間であっても。
「友達じゃない」
 誰にも聞こえないように呟く。
 声に出してみて、己の白状さに口元が引き攣ったように上がった。


 幸村がいなくなって、自分の嫌な所が目に付いていく。
 幸村のせいにして、また嫌になってくるのだ。




 次の日。仁王と柳生は二人で幸村の見舞いに、病院へ向かおうとしていた。角を曲がって信号を渡れば辿り着く。渡ろうとした途端に点滅して赤になってしまった横断歩道の前で、二人は立ち止まる。
「のう、柳生」
「…………はい、どうしました」
 声が車の音に紛れて柳生の反応が遅れた。
「柳の事……なんじゃけど」
「柳くんですか?」
 走る車を眺めながら話す。
「どう思う」
「どう……とは?」
 柳生の横顔を見る仁王の目つきが変わる。針のように小さな痛みを与える鋭さを澄まして。
 柳生が顎を上げた。彼は、車道の先を覗こうとしているのだ。眼鏡の奥の視線などお見通しであった。
「柳生、何か柳に面白そうな本をすすめてやってくれんかの」
 柳生と柳は読書という共通の趣味を持っていた。だが――――
「仁王くん、本と言っても私の趣味が柳くんに合うかどうか」
 頭を左右に動かしだす。早く青になってくれないかとばかりに。
 柳生の意識は別の場所へ向いていた。
 いくら余裕でも大会が近いというのに、幸村が入院しているというのに、柳が苦しんでいるというのに、この男は……!
 苛立ちが急速に湧き上がり、仁王は顔をしかめた。
「どうしました、渡りますよ」
 青になった横断歩道を足早に踏み出し、仁王を呼ぶ柳生。
 仁王の心中にも微塵も気付かず、無邪気に手招きをする。


「柳生、いい加減にせえ」
 横断歩道を渡り終えると、仁王は柳生の襟首を掴んで引き寄せた。顔が向かい合い、仁王は怒りを露わにする。柳生は驚くばかりで目を丸くさせていた。
「この大事な時期に、随分と良い身分じゃのう」
「なんですか、一体」
「俺が気付いていないとでも思ったか。恋に現を抜かしやがって」
 カッと柳生が赤くなる。普段だったら、からかってしまいたくなる絶好の反応だ。
「な、なにを」
 予想以上の動揺であった。声が震え、どもっている。相手が相手なら当然だろうが、まさかここまでとは。
 にやけそうになる口を、舌で唇を舐めて静める。
 さらに引き寄せて、真実をそっと耳打ちした。
「対戦した不動峰の小さい方。紳士にゃ意外な趣味……」
 今度は青くなった。追い討ちをかける止めの一言は、身体を押されて妨害された。
「仁王くん、君……っ……」
 仁王を押した柳生は、よろけるように後ろへ下がる。
「おー、図星、図星。とやかくは問わんよ、問いたくも無い。その惚けた頭、たいがいにせえ。腕を鈍らせたら承知せん」
「言われるまでもありません。私はそんな私情は持ち込まない」
「そう、その意気」
 柳生の横を通るように彼の肩を強く掴み、病院のドアを潜る仁王。
「私が……」
 呟き、柳生は仁王に引っ張られた襟を整え、彼の後をついていった。


 誰もが心を乱していた。
 悟られまいと隠し、押し込めても、しまいこめずに漏れた弱さがさらに狂わせていく。
 狂いは時間が経つにつれ、絡んで硬くなる。
 無理に解こうとすれば痛みを伴う。
 解けぬまま、時だけが流れた。










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