- 中編 -



 幸村と書かれた札のある戸を開く。中にはベッドで本を読む幸村の姿があった。
「幸村」
「幸村くん」
 仁王と柳生が名を呼べば、幸村は彼らの方を向いて薄く笑う。
 二人は傍に寄り、雑談を始めた。
 しかし次第に、柳生は病院前での出来事に居たたまれない気分になってくる。
 秘めた想いを親しい人物に悟られてしまった。男である柳生が、男に恋愛感情を抱いてしまった事。しかも余所者である他校の生徒に。
 仁王も男、幸村も男。自分だけが汚れて、申し訳ない罪悪感に捕らわれてしまう。
「あの」
 柳生は会話を中断させた。
「私、買出しに行ってきます。何か欲しいものありましたら、おっしゃってください」
 幸村は急に何事かと目を瞬きさせるが、思いついたように手を合わせてから柳生に頼む。
「じゃあ、行ってきますね」
 そう言って柳生は病室を出て行ってしまった。


 仁王と二人きりになった、しばしの沈黙の後、幸村は問う。
「喧嘩でもしたのか」
「プリッ。そんな事もある」
 斜め上へ視線を動かし、仁王は答える。
「珍しいな。仁王は柳生を怒らせても、その場で済ませて長引かせないように思えたから。そうなると、柳生に非があったのかい」
「よう見とるのー」
「部長だからね」
 幸村は身体の上に乗せてあった本の続きに視線を落とす。
「気にしなくていい。俺も柳生も大丈夫じゃ」
「気になんかしてないよ。俺は信じているから」
「それも、部長だからか」
「そ」
 ぺらり。本のページがめくられた。
「この本、柳に借りたんだ」
「面白いか」
「柳が選んだものだから、いつか面白くなる面白くなるって読んでいるんだけど、一向に面白くならないんだよ。もうすぐ読み終わりそうなのが悔しい。昨日、赤也に漫画を頼んでおいた」
「きっとエロ本が来るぜよ」
「それが狙い」
 くくっ。幸村と仁王は声を噛み殺して笑う。
「仁王も読んでみるかい」
「また貸しはいかんよ」
 仁王は壁際へ移動し、寄りかかった。
「ここでだけでもさ。随分と読みたそうに見えたから」
「気のせいじゃ。俺には合わんよ」
 首を横に振り、軽く笑って肩を竦める。
 その仕種がまた、触れたいのに触れられないように見えて、なぜだか悲しく映った。




 病院近くのコンビニエンスストア。自動ドアが開き、柳生は入った。
 買う物を頭の中に巡らせると、先ほどの罪悪感も蘇ってくる。
 仁王が怒るのも無理はない。こんな時期に、自分だって許せない。
 しかし柳生自身にもわからないのだ。どうして、なぜ、理由を内に求めても返っては来ない。


 恋に現を抜かしやがって。


 仁王の声で再生され、次に自分の声で想像した。
「あ」
 物を取ろうと手を伸ばした手が、隣の人に当たってしまう。謝ろうと振り向いた先にいた人物に唇が硬直する。
「ああ」
 相手は柳生に気付き、会釈をした。柳生も遅れて挨拶をする。
「こんにちは」
 笑いたいはずの口元は、つい引き攣ったように上がった。
 相手は仁王から"現を抜かしている"と注意を受けた、桜井雅也。中学生の夏服に、後ろへ撫で付けた髪、どこからどう見ても少年だ。関東大会に二人は対戦し、柳生は惹かれた。
 罪悪感は桜井が男だから、だけではない。
 桜井は会釈をした後は、何事も無かったように籠に物を放り込みだす。何も言わなくても、何もしなくても、彼から感じる拒絶。後輩の切原が桜井の所属する不動峰の部長を傷付けてしまった。こうして桜井がここにいるのも、部長の見舞いの為である。切原の先輩である柳生、所属する立海は彼らから快く思われていない。仕方の無い事であり、その他にも数々受けて来たやっかみも常勝の王者の定めであると割り切ってはいる。
 男であり、恨まれている相手に好意を抱いてしまった。
 背徳に満ちた、危険なものだからこそ、惹かれているのかもしれない。罪悪の意識すら、快感へと変化しそうだった。
 いけないと理性は拒否しても、本能は惹き込まれて行く。遠い片想いは、挨拶を交わすまで近付いていった。心の内は、業火が渦巻き、貪欲にもっと近付きたいと桜井を求めていた。こんな想いは桜井や立海の仲間たちには申し訳ない。けれども、止められはしないのだ。


 柳生も桜井と同じように素知らぬ振りで買い物をする。だが意識は桜井に向けられて、どう彼に声をかけようか、そればかり考えていた。
 誰にも知られたくは無い想いを仁王に指摘され、私情は持ち込まないと言った筈なのに、桜井を前にすると全てが崩れ落ちそうになる程揺らぐ。眼鏡の奥に隠れた目は苦痛にしかめられた。
「…………何か?」
「え?」
 細い問いかけに、つい大きい声で聞き返す。横目で見ていた筈の桜井を、我に返れば身体ごと向けて見詰めていた。
「いえ、その……。昨日、仁王くんと喧嘩してしまいまして」
 誤魔化すように、唐突に話題を切り出した。多少の嘘は混ぜて。
「仁王?」
「はい、ダブルスパートナーです。ええと、君と対戦した時とは違いますけどね、普段は彼と組んでいるんです」
「はあ」
 ぽかんと口を開けて、桜井は相槌を打つ。
「桜井くん、君もダブルスプレイヤーでしょう?パートナーと喧嘩する事はあるのですか」
「特に。温厚な奴なので。怒るとしても俺だけの場合が多いです」
 石田の顔を思い浮かべて語る。
「私もそうです。仁王くんは私をわざとからかってばかりで。しかし、今回は私が完全に悪い」
「じゃあ謝ったらどうですか。あなたの顔、とても反省しているように見えるんで」
「そんな風に見えますか」
「なんとなく」
 桜井は目を細める。思い込みかもしれないが、笑ったように見えた。
「あなたはいつも、自分の悪い事ばかりを話すから」
 籠を持ち直し、レジへ持っていく素振りを見せる。
「良い人なんですね。もっと自信を持ったらどうです」
 別れの会釈をして、桜井は背を向けた。
 立ち尽くす柳生の耳に、店員の声とレジの音が右から左へと通っていく。
 ドクドクと胸の鼓動は高鳴り続ける。
 強くなれる気がした。彼が好きだと改めて感じる。気の迷いではない、確かな想いだと信じたい。
 後悔しない為に、力を望んだ。貪欲な心は底を見せない。




 翌日、幸村の病室にやって来たのは真田であった。挨拶を交わした後、切原から頼まれた紙袋を渡す。
「なんだ、次来た時にくれれば良かったのに。有難う」
 受け取り、開けて上から覗き込んでみると、やはり予想通りのいやらしい本であった。つい笑いが込み上げて、肩を小さく震わせる幸村に、真田は首を傾げる。
「どうした」
「真田も見る?」
 表紙をチラつかせ、すぐに仕舞った。真田は頬を上気させ、声を荒げる。
「けしからん!赤也め……!」
「真田、しーっ、しー」
 人差し指を口元に当てて、静まるよう合図を送った。
「くっ」
 真田は適当な椅子を取って、幸村のベッドの近くに座る。
 黙ったが、口をへの字にしたままの真田に、幸村は頼み事をした。
「そこにある林檎、切ってくれないか」
「うむ」
 即答して、真田は棚の上の皿の中にある林檎を取り、傍に置いてあった果物ナイフで切り出す。
「待って、せっかくだから兎にしてくれ」
「うむ」
 流れる動作で器用に皮を兎の形に飾りつける。その様子を面白そうに幸村は眺めた。
「出来たぞ」
 皿に乗せて差し出す真田に、感嘆の声を上げる。
「わー凄いな。いっただっきまーす」
 喜び、美味しそうに口に運ぶ幸村に、安堵して笑みを浮かべる真田。
「あ、酸っぱ」
「誠か」
 顔を近づける真田の口に、食べかけの林檎を入れる。そうして噤まれた唇に、自分のそれを押し付けた。
 息が止まり、喉がぐっと鳴って林檎が通る。唇を解放させると、酸っぱそうな真田の顔があった。
「酸っぱかったろう」
「知らん」
 真田は俯く。
 膝の上に置かれた手の上に、幸村が重ねる。触れた指先が、一瞬冷たいように感じて彼は顔を上げた。


「どうした」
 幸村が真田の瞳を覗き込んでくる。隠し切れない不安の色が映っていた。
「真田。関東大会、優勝してくれるだろうな」
「当然だ」
「俺は信じているぞ。だから」
 真田の手を強く握り締める。
「俺を信じてくれ。必ず、戻ってくる」
「わかっている」
「いいな?」
 念を押すように手を揺らして止めた。
「無論だ」
「よし!」
 力強く幸村は頷く。
 決して迷うな、揺らぐな、逸らすな。真田も頷き、応えた。











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