現
- 後編 -
真田が一人病院へ行ってしまった後、柳は帰宅の準備を部室で整えていた。
「ん」
手を止め、鞄を大きく広げて中身を確認する。入れた物を出してみても、やはり見つからない。
筆箱を教室へ置いてきてしまったようだ。
筆記用具なら家にあるし、持ち帰らなくても差し支えは無い。
けれども、置いて帰るのには気が引けた。
物をもう一度戻し、鞄を持って教室へ向かう。
放課後の校舎の人気は無く、夕日の赤が染め上げている。
教室の扉を開けても誰もいない。
自分の席から筆箱を取り出し、鞄の中へ入れて入り口の方を振り向くと、仁王が寄りかかっていた。
「まだ、帰らんのか」
「忘れ物をしたんでな」
「真田は病院か」
「そうだ」
柳は机に手を置き、二人は離れた距離で会話を交わす。
「なにを忘れた」
「ただの筆箱だ」
「今日でなくても良かったじゃろ」
「ああ、そうなんだがな」
柳の視線は窓の景色へ移った。
「過ぎた後で後悔はしたくはなかった。些細な事でもな」
「あー……っと、真田はどうしとるかな」
仁王は髪をいじりながら、話題を変える。
「さあな」
「きっと、幸村とよろしくやってるっちゃ」
「そうだな」
「だから、大丈夫だ。幸村もな。病気は患っとるが元気そうじゃった」
「………………………………」
返事は聞き取れなかった。
「のう参謀……俺は参謀が気がかりぜよ」
「俺が?」
問おうとまた仁王の方を向けば、すぐ傍に彼がいた。
いつも余裕のある顔は無表情で、じっと柳を見上げている。
「参謀は、どこに寄りかかれば良い」
「俺が?」
同じ問いを柳は呟く。困惑して、見詰め返すしかできない。
「なぜだ仁王。どうしてお前は」
「なんで、じゃろうな」
仁王自身も知りたいぐらいだった。
どうして惹かれてしまったのだろうか。
好き、だけでは説得力はない。
考えれば、考えるだけ、目の奥が染みる。
仁王は手を伸ばし、柳の首の後ろにそえた。踵を僅かに浮かせて、そっと顔を引き寄せた。頬と頬が触れ、人の体温が伝わってくる。
何かを発しようと柳の唇が薄く開く。
「気にするな。俺の勝手だ」
耳元で囁かれる声は優しく、温かい。
何かを言うべきなのに、声が出てこなかった。
柳の脳裏に過ぎる。今、口付けをしても良いと。狂気の自覚はしている。無表情だった仁王に表情を作らせたい思いの行き着く先なのだろうか。
しかし、話してしまえばペテンの種明かしをされそうで、唇をつぐむ。
今は、嘘も真実も知りたくはない気分であった。
「じゃあな」
「おう」
校門の所で柳は仁王に手を振った。二人の口元には笑みが零れている。
「仁王は帰らないのか」
「ああ、そうじゃった」
「なんだそれは。では……」
一緒に帰らないか。そう柳が誘おうとした時――――
「仁王くん」
柳生が現れて仁王を呼んだ。
「柳生」
初めの一文字が調子はずれの音を出し、突然現れた柳生に目を丸くさせる仁王。柳も開眼している。
「なんじゃ一体」
「まずこれを」
仁王の鞄を投げられ、上手く受け止めた。
「君に話があります」
度の強い眼鏡を通してでも、真剣な眼差しは伝わってきた。
「おや、柳くんもいらっしゃったんですか。もしや」
柳に気付いた柳生は視線を向ける。
「いや、俺は帰るだけだ」
手を慌ててパタパタと振った。
なぜだろう。柳の胸はどきりと、ぎくりとも似たような高鳴りがする。
仁王と帰りたかっただけなのに。後ろめたい気分がしたのだ。
一方、仁王は柳の言いかけた言葉が気になっていたが、期待はしておらず、彼の返事を聞いてやはりたいした事ではない話だったのだと察した。
「じゃあな」
柳はもう一度別れを告げて帰っていく。
「おう」
仁王と柳生は二人並んで手を振った。
柳が遠くなると、仁王は柳生の方を向く。
「話を聞こうかの」
「昨日はすみませんでした。こんな大事な時期に、君が怒るのも当然です」
「え、ああ」
あの事か。仁王は思い出して相槌を打つ。
怒ったは怒ったが、仁王の方も八つ当たりの気持ちも少なからずあったので、一方的に詫びられるのは気後れした。
「ですが、口だけならなんとでも言える。私は態度で証明したい」
「はあ」
詐欺師でも紳士の意図はなかなか読めてこない。
柳生は鞄を開け、ラケットを取り出して仁王へ突きつける。
「勝負をしましょう。仁王くん」
売られた勝負。買って勝つのが常勝の誇り。
仁王の瞳が刃の切っ先のように鋭くなった。
「……買った」
柳生の口元が弧を描く。だが瞳は獲物を定めた獣の荒々しさを秘めている。
二言などは許されない。逸らしたら、余所見をしたら、食われてしまう。
学校のコートは閉められたので使えない。二人はストリートコートで勝負をする事になった。
着替えはせず、制服姿でコートに入る。
ズボンで隠れていても相手の筋力や身のこなしは十分心得ている。
相手は強い。間違えなく強い。手の内さえも知っているのに、油断のなら無さは相手を知った時から消えていない。寧ろ、高まっている。
正式な試合でも、ましてや練習でもない。これは、この勝負はどんな部類に含まれるのだろう。考えを巡らせても適した名は浮かばない。
雰囲気じゃわからない。言葉じゃわからない。相手を知る為の、自分たちなりのやり方だった。
器用じゃない。無骨な手段だ。しかし、それで良かった。
「柳生。お前が売ったんじゃ。お前からでええよ」
「では、お言葉に甘えます」
ボールを数回跳ねさせ、柳生はサーブを放つ。
もう打たれる場所を知っていたかのように仁王は返した。
それさえもわかっていた柳生は、いきなりレーザービームを打ち出す。
「もっと本気出せ柳生。そんなレーザービームじゃったら、俺にも出来る」
柳生を真似た仁王のレーザービームが放たれる。
動揺の色を見せるが、柳生は受け止めた。
「く」
受け止めるのがやっとで、柳生のボールは隙だらけであった。
けれども、仁王は返さずに彼のコートに落ちる。
「試合はお預けじゃ。策が浮かんだ」
「策?」
柳生は屈めた背を上げて手を下ろした。
「態度で示してくれると言ったな。じゃったら勝負より、成すべき勝利があるはずぜよ」
「随分と自信があるようですね。良いでしょう、乗りますよ」
策の内容を聞く前に柳生は了承する。もう、相手の意志は言葉を交わさぬとも伝わっていたのだから。
「では、これにて本日の練習は終了する!」
自信に満ちた真田の声はコートに良く響いた。
後に残るものは空虚ではない。立海ならやれるという、希望が湧いてくる。
部室に戻った選手が着替えている中、柳は真田に声をかけた。
「なあ弦一郎」
「どうした」
「この後、何かを食べに行かないか」
次の言葉を、真田は待つ。
「手軽な定食屋がある。なめこ汁が美味かったよ」
「それは良いな。行こう」
薄く笑う真田に、柳も口元を綻ばせる。
「お二人さん、なんの相談しとるんじゃ」
仁王が話の中に入っていき、すぐ後ろには柳生もいた。
"相談"という単語に真田と柳は顔を見合わせる。今日一日、仁王と柳生は二人でこそこそと話していた。雑談という雰囲気ではない、まさしく相談といったような入り込めない壁を感じたのだ。
「お前らこそ何を話していた。さっきもそこで着替えもせず話していただろう」
「お喋りがしたい時もありますよ。それより」
真田の指摘を流す柳生。柳は仁王が肘で柳生を突いた気もするが、触れたに過ぎないとも思えるので首を傾げるだけであった。
「なに、食べに行く話だ。仁王と柳生も来るか」
「おお、行く行く」
「そうですね、行きます」
頷く仁王と柳生の間を、切原が割り込んでくる。
「なんの話スか?俺も行きますよー。先輩たちも!」
後ろを向けば丸井と桑原がおり、彼らも首を縦に振った。
切原はメンツで行き先が焼肉屋だと思い込んでいるのだろう。だが、誰一人教えてやりはしなかった。
図書館でないだけマシだと、着いた時の切原の反応を想像して楽しんだ。とことん、底意地の悪い上級生であった。
店に着き、席に着くなり切原は予想通りの不満を述べる。
「聞いてないっすよー、俺はてっきり焼肉屋かと」
「俺たちは言ってもないし、お前は聞きもしなかっただろう」
ぴしゃりと一蹴する柳。その横では他の三年生がしみじみと頷いている。
「どっちにしても赤也は焼肉定食だよな」
「ええ、そうっス」
桑原がメニューを指差して見せると、へらっと切原は笑う。
注文した料理が届き、メンバーは食べ始めた。
「久しぶりだな、皆で食べるのは」
「幸村が帰ってきたらさ、まずは焼肉か?」
「すぐには無理だろ」
「んじゃ、ここか」
視線は料理を見下ろしながら、誰に振る訳でもない話を誰かが答える。
ガシャ。器が当たる音がする。見れば窓際の席の仁王が危うい手で茶碗を持っているではないか。
「仁王、大丈夫かよ」
食べる手は休めずに丸井が言う。
「ええ大丈夫です」
「え?」
「なんでもないっちゃ」
仁王――――仁王を偽る柳生は茶碗を持ち直し、窓の外の景色を眺める。
今、すぐ横で、桜井に似た髪形の中学生が通って行った。目を凝らせば別人だった。しかし、見つけた途端に上がった頬の筋肉と胸の鼓動は、すぐには治まらない。
また、彼に会えるだろうか。淡い希望を抱いた。
彼らは流れ行く時を、起こり行く出来事を、湧き上がる感情を、それぞれ浮かぶ思いを食べ物と共に飲み込んだ。
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