「じゃあ母さん、行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
不二が学校より帰宅してくると、入れ替わりで母淑子が外出をしていった。
笑顔で見送り、扉が閉じられる。
姉が帰るのは夜を回ってからなので、家には不二一人。
これは彼にとって、絶好の機会であった。
君の為に
- 前編 -
不二家の台所。調理の音に紛れて上機嫌な鼻歌まで聞こえてくる。
不二はエプロンに三角巾の姿で、あるものを作っていた。それはショートケーキ。翌日にある河村への誕生日プレゼントであった。家人がいると詮索されかねないので、留守番は都合が良い。
誰かが戻る前に作り、包んでしまおうという考えだ。料理の経験は無いに等しいし、己の舌の一般的感覚も自信は無いが、本を見ながら一生懸命作っている。大好きな人に、喜んで貰えるように。
河村の笑顔を想像すると自然と笑みになり、頬の筋肉が緩みそうになる。しかし、ここは我慢だと不二は耐えた。
誕生日にショートケーキとは定番中の定番ではあるが、河村の為に作る世界でたった一つのケーキなのだ。
「よーし」
本と作った実物を見比べながら一人頷く。見た目では順調にいっていると思いたい。
クリームのコーティングは終わり、後は盛り付けを残すのみ。美味しそうに見せる正念場であった。
緊張による手の震えを抑えて、一つ一つ丁寧に彩らせていく。クリームを飾り、苺を適度な間隔で乗せる。そして、最後の苺を乗せようとした、まさにその時であった――――
ガチッ。
玄関の方で、鍵がはずされる音がした。
「ん?」
鍵を持っているという事は家族だろう。母が忘れ物でもしたのだろうか。
不二は最後の苺をケーキの横にひとまず置き、エプロンと三角巾を手早く取って玄関へ向かった。頭の中はもしもの言い訳を巡らせている。
「母さん。忘れ物?」
声をかけようとした不二は思わず“あっ”と上げた。
「ただいまー」
帰ってきたのは弟の裕太であった。
突然の帰宅に不二は喜びと同時に焦りが込み上げる。裕太が今日帰ってくるなど、連絡は来ていない。嬉しくてたまらないのだが、なぜ今日なのだと内心突っ込まずにはいられない。
「裕太、おかえり。どうしたの」
「どうしたって……別に」
裕太は靴を脱ぎながら、きょとんとして言う。
確かに裕太の意見はもっともだ。ここは彼の家であり、帰ってくるのに特に理由がない時もあるだろう。
「母さんは?」
「出かけてる」
「そっか。腹減ったなー、何かある?」
不二の横を通り、裕太は鞄を肩に下げたまま、どたどたと台所へ入っていく。止める隙も無かった。
ケーキを見つけた弟が感嘆の声を上げるのに時間はかからない。不二も遅れて台所へと入る。
「あ、兄貴、兄貴。これ……」
裕太は兄とケーキを交互に見ながら、ケーキを指差す。
見つかってしまっては仕方が無い。愛する弟になら言っても良いかと白状しようと思った。
「裕太。これは…………」
「兄貴」
不二の言葉を遮り、裕太が改まったように名を呼ぶ。
「俺の為に…………」
ずずっ。鼻を啜り、涙目になる。
――――今、なんてった?
不二は耳を疑いそうになった。開眼した目は点になっている。
裕太はケーキが自分の為に作られたと勘違いをしてしまったようだ。
甘い物は裕太の好物は好物だが、帰るという知らせも聞いてないのに用意が出来る訳はないだろう。末っ子の甘えなのだろうか。兄としては理解が出来ない。
違うんだよ、と否定をしようとした不二の唇が硬直する。
「有難う。俺、すげえ嬉しい」
照れ臭そうに裕太が笑った。
「……………………」
そう出て来られたら、何も言えない。
頭の中で葛藤が渦巻き、ある方が勝利をし、口を開いた。
「裕太。お腹減っているんだろう?手、洗ってきて早くお食べ」
「うんっ」
裕太は素直に頷き、鞄を置いて流しで手を洗う。
言ってしまった後、不二は呆然と立ち尽くした。
僕は何を言っているんだろう。今日までの苦労はなんだったんだろう。
後悔をするが、弟の期待を裏切れなかった。
切り分けたケーキ、入れた紅茶がテーブルの上に乗せられ、二人は席に着く。
「ケーキ、兄貴が作ったの?」
フォークを持って裕太が問う。見た目で姉の作ったものでは無いのは一目でわかった。
「うん。初めて作ったんだけど、どうかな」
手を付けずに反応を伺う不二。
「美味い。美味いよ、兄貴」
本当に美味しそうに裕太はケーキを食べた。目の前で裕太がこんなにも笑っていてくれる。喜ばしい事この上ないのに、やはり胸の疼きは拭えない。顔で笑って腹で泣いた。
明日、どうしよう。そんな事ばかりを気にしていた。
残った分を持っていこうという考えもあるが、裕太は空腹で食べ盛りもあり、全て食い尽くすつもりなのだろう。作り直そうとも思ったが材料が無い。買出しに行けば裕太を一人にしてしまうし、何より疑われるだろう。ケーキは完全に諦めるしかない。
買出しに行けないという事に、もう一つの難点が浮かび上がってきた。ケーキの替わりも用意が出来ない。そもそもケーキ以外のものを頭の中に入れていなかったので、即席で思い付くはずもない。河村に何一つプレゼントを渡せないのだ。
しょうがない。
弟の笑顔と向き合い、不二はそう自分に言い聞かせた。
自分に言い聞かせて、納得したつもりだったのに。
翌日、プレゼントを用意せぬまま歩く通学路は酷く重い感じがした。
どうしよう。河村に会ったら何て言おう。どうして悪あがきもせぬまま今日を迎えたのだろう。
遅くて間に合わないどうにもならない思いが、胸の中をぐるぐると掻き混ぜている。
そんな時に限って、痛い所を突かれるのは世の不条理だろう。
「不二先輩ーっ」
後ろから呼ばれて振り返ると、自転車に乗った桃城が後ろに越前を乗せて走ってくるのが見えた。
「おはようございます」
「ちーっす」
自転車を降り、横で持って漕ぎながら不二の横に並んで挨拶をする。
「ああ、おはよう」
不二も笑顔で応えた。
「不二先輩。今日、どうなんスか?」
わざとらしく桃城が囁く。
「え?」
「とぼけちゃってまたぁ」
「河村先輩に何あげるんすか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべる桃城の横で、越前が直球で勝負をかけてくる。
「え、ああ。うん」
まさか用意出来なかったと言えるはずもなく、言葉を濁らせた。
「なにか不二先輩のは凄い気がするもんですから」
「俺もとっておきの物を用意しました」
無邪気に話しかける後輩。裏腹に不二の気持ちは沈んでいく。
越前のとっておきの物を奪ってやりたい衝動に駆られるが、当然冗談である。
「君たちは口が緩そうだから内緒だよ」
不二は笑みで返してやった。
「ちぇっ」
残念がる桃城と越前の二人が、あまりにも同じ顔をするものだから、思わず噴出しそうになった。
本当にどうしよう。昼休みに入ったら言い訳も通じなくなるだろう。教室じゃあ菊丸が後輩以上に知りたがってくるだろうし。
気が重くて仕方が無かった。
真実を河村に打ち明ければ、彼はきっと純粋に許してしまうのだろう。許されるのが嫌なのは自分自身。河村へ想いを伝えたい、自身の心であった。
一方、山吹中。不二の他にもう一人、河村の為にケーキを用意しようとする人間がいた。
その名は亜久津、河村の幼馴染である。
不二と同じように先日、家族のいない間に手作りケーキをこしらえ、学校に持って来ていた。放課後、青春学園へ行って渡すという計画だ。しかし、その時間までに保管しておく場所が必要である。
「……………………」
中の様子を伺い、誰もいないのを確認して忍び足でテニス部の部室へ入り込む。朝練が終わった丁度良い機会を狙っていた。登校時間ぎりぎりなのは不良なので気にしない。
もうテニス部員ではないが、ここは不思議と居心地が良い。私立のせいか引退の時期は遅く、しても形式上のものでしかないせいか、馴染みの三年生は冬に入っても部活動に励んでいる。
椅子をロッカーの前に置き、靴を脱いで乗った。そうしてそっと傾けないようにケーキの入った包みをロッカーの上に乗せて隠す。冷えていて保存場所に丁度良いし、大掃除でもなければ探られはしない。
亜久津は一人頷き、安心して部室を出て行った。証拠隠滅の為にもちろん椅子は戻しておいてある。
しかし、そうそう物事は上手くいかなかった。
昼休み。東方が慌てて部室へ入り込んで来たのだ。
相当急いでいるらしく、しきりに腕時計に視線を向けていた。
「ったく、どうして俺が。あーどこなんだ」
愚痴を吐き、部屋の中を見渡す。何かを探しているのか、瞳は忙しなく動いた。
「どこだ?どこだ?」
朝、亜久津がしたように、椅子を台にしてロッカーの上を探し出す。
「あーっ」
額に手を当てて記憶を探ろうとするが、様子からして思い浮かばないようだ。
「わからん」
思い出すのを諦め、ロッカーの上に乗っている荷物をテーブルの上へ移動し始めた。ケーキの包み以外にも箱などが置いてあり、亜久津は格好のカムフラージュとして利用するつもりだったのだが逆効果になってしまう。
「これ……じゃないな。あれでもない。確かにあったはずなんだがなー」
ケーキの包みがテーブルの上へ避難させられた。
「なんだこれ」
手に違和感がして見てみると、付箋がくっついている。どこかに貼り付いていたものが偶然付いてしまったらしい。剥がして、適当な箱に一旦くっつけておく。選ばれたのはケーキの包みであり、付箋には“好きに食べてくれ”と、誰かが土産にでも書いた内容が不幸にも記されていた。
「あった!」
探し物を見つけ出し、東方は声を上げる。
椅子から降りて、片付けずに部室を出て行ってしまった。
彼からすれば時間が押しており、放課後一番に来て片付ければ良いと考えていた。
けれども予定は狂い、彼が来る前に他の部員が来てしまう。
「なんだこりゃ」
「誰だよ一体」
放課後。喜多と室町の二年生二人は部室の扉を開けるなり、惨状に目を丸くさせる。それもそのはず、埃の付いた荷物でテーブルが埋め尽くされているのだから。
「片付けるしかないよ」
「しょうがねえなあ」
半ば呆れ顔で片付けをはじめた。これでは着替えも出来ない。
埃を被っている事から、ロッカーの上の物だろうと、だいたいの予想はつく。
「これ見て」
亜久津のケーキを指差して、喜多が言う。
「食べて良いって書いてあるにはあるけど、誰だ?」
「さあ」
喜多と室町は顔を合わせ、肩を竦めて見せた。
「どったの?」
ぬっ。
二人の間を後ろから、千石が顔を割り込ませる。
「千石さん、声ぐらいかけて下さい」
淡々とした口調で指摘する室町。
「メンゴ。うっわー、食べて良いって!中身なんだろう!!」
手を合わせて“許して”のポーズを取るが、千石は付箋の内容が目に入るなり瞳を輝かせて包みを手に取った。
「良いんでしょうかね」
「だって良いって書いてあるし。食べなきゃ逆に失礼じゃない?」
「それもそうですね」
千石のペースに乗せられていく後輩二人。次に入ってきた新渡戸も乗り出す。
「どうしたの皆?」
「これこれ、食べて良いって」
はしゃいで新渡戸へ箱を見せた。
「おっ、早く食べよう」
「そうそう、食べよう食べよう」
「……………………」
喜多と室町はもう一度顔を見合わせる。苦さを含んだ笑みを浮かべ、先輩たちに従う事にした。
しばらくして、遅れてしまった東方は詫びながら部室へ入ってくる。
「ごめん、散らかっていたのは俺…………」
最後まで言い終わらぬまま、東方の口は固まった。
「東方先輩もどうですダーン」
入って見れば部室は綺麗に片され、レギュラーと壇がテーブルを囲んで何やら食べている情景が目の中に入り込んだ。壇が嬉しそうに隣の空いた席を軽く叩く。
「どうしたんだ……これ」
状況が呑み込めず、東方は手を頭の後ろへ回した。皆が食べている物をよくよく見ればケーキであった。
「食べて良いって書き置きがしてあったんだ」
奥の席に座る南が答える。
「へえ」
立ち尽くし、目をパチクリとさせた。そうは言われても、いまいち呑み込みきれていない。
「おっと」
後ろから新たに人が入って来たようで、東方は道を開けようと横へ移動する。
入ってきたのは、亜久津であった。
しん……と一瞬、空気が静まり返ったような気がする。
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