言ってはいけない
- 後編 -



 菊丸の話によると、昨日の夜、夜道で河村が後ろから来る車に気付かずに当たってしまったらしい。
 運良く、大事には至っていないが念の為に入院を余儀なくされたというのだ。
 昨日の夜。夜道で。不二は記憶を辿る。恐らく、不二と別れた後だろう。河村の声が遠くなっていったのはまさか……。頭を振り、嫌な可能性を掻き消した。
 菊丸は不二に一緒に病院へ行こうと急かす。彼は先日、青学メンツと共に食事をしていないので、川村の事故に不二が絡んでいるかもしれない事を全く知らない
 後ろ暗い面はあるものの、河村の様子を見に行くのが先決であり、菊丸と待ち合わせをして病院へ向かった。


「タカさんいるー?」
 人懐っこい声で菊丸が病室へ入る。後ろから不二も付いてきた。
「やあ二人とも。ごめん、大げさで」
 ベッドで眠っていた河村は身を起こし、苦笑いする。
「具合、どう」
「明日にでも退院できるよ。ホント、打ち身だけだから。入る病院、間違えたかも」
「この病院、前にも入ったよね」
「うん、四天宝寺の時。テニスで大怪我したの、なかなか信じてもらえなくって。今回も何かあったんじゃないかって警戒されて入院って訳」
「そりゃ災難だ」
 河村と菊丸が一通りの会話を終えると、四つの瞳が不二に向く。
「車にぶつかったって言うから、心配したよ。でも、元気そうで良かった。はいこれ、良かったら食べて」
 持ってきた林檎の入った袋を渡す。
「有難う」
「ごめんね。その……昨日……」
「ああ、その事なんだけどね」
 不二が口籠りながら、昨夜の事を口に出そうとすると、河村は軽く静止させた。
 丁度良いタイミングで、乾が入ってくる。軽く笑うだけの河村の反応からして、既に病室に顔を出していたのだろう。
「乾も来ていたの」
 乾は頷くと、河村が彼に説明を求めた。


「実はな、タカさんは昨日俺たちが解散した後からの記憶が曖昧らしいんだ」
「記憶喪失だなんて大げさなものじゃないよ。ただ、一時的に飛んでいるだけかも」
「あー吃驚したよ」
 オーバーリアクションで胸に手を当てる菊丸。
「不二、昨日はタカさんと一緒に帰ったよな」
「うん」
「何か無かったか?」
「別に……」
 反射的に答えを避けてしまった。
 河村に告白をしてしまった記憶が無くなった。このまま忘れられたままならば、気まずい思いはせず、普段通りに接しられるかもしれない。
 けれども、それは喜ぶべきものではない。不謹慎な思考だろう。
 不二は思いを巡らせる。本当に、車にぶつかった衝撃で忘れているのだろうか。
 河村にとって自分の告白や口付けが、本当に嫌で、最悪で、頭が消去したとしたら――――
 それとも、忘れた振りをしてくれているとしたら――――
 タカさんは僕にどうして欲しいのか――――
 不二は一人、張り裂けそうな不安を心に押し込めた。
「なにか、おかしくない?」
 菊丸が急に怪訝そうな顔で見詰めてきて、不二は驚く。
「なにが」
「俺たちとか、解散とか、一体なんの事?」
「英二は昨日来なかったじゃない。皆で焼き肉したんだよ」
 内心動揺しながら、冷静に話す。
「え?マジで皆来たの?大石がしきってたのに?」
「初めは警戒したけれど、案外普通だった」
「うわー、行けば良かった」
「残念無念また来週」
 頭を抱える菊丸に、不二、河村、乾は声を揃えた。


「タカさん、昨日の食事の後は、僕と一緒に帰ったんだよ」
 不二は河村の横に立ち、ゆっくりと語りだした。
「事故に遭ったのは僕と別れてからだろうね。もしかしたら、気付ける範囲にいたのかもしれないのに。ごめん」
「不二、謝らないで。どうも俺の不注意みたいだしさ」
 恐らく、僕を追いかけて走っている時に事故に遭ったのだろう。
 不二は心の内でもう一度詫びた。
 河村の様子を見る限り、本当に忘れてしまっているようだった。彼の嘘は目に見えるものだから。
 まるで昨日の出来事をハサミで切ったように、空白になってしまった。
 また、今までの関係をやり直す、のだろうか――――
 チャンスなのか、二度とやるなという戒めか――――
 自らが真実を口に出すべきなのか――――
 不二が抱える秘密は、不二だけが抱えるものになってしまった。
 置き場所は途方に暮れ、心を揺らすしかない。






 翌日。河村は退院した。
 直後、菊丸がリベンジとばかりに、青学メンツを集めて焼き肉をしようなどと言い出す。
 当然、河村も不二も呼び出され、奉行の管理下ではあるが和やかに食事を楽しんだ。
 この日も帰りは河村と不二が一緒に帰る事となる。
 不二は先日の繰り返しを避けたがっているが、前回参加したメンツは彼の不安を察してか、振り払う為にあえて二人だけで帰るように薦めた。
「タカさん、今からでも誰か誘わない」
 店の明かりを何度も振り返りながら、不二が言う。
「他の奴らは遠回りになるし、良いじゃないか」
「でも……」
「大丈夫だよ、不二」
「君の心配をしているんだよ」
 河村は不二を元気付けさせようと笑い、背を押した。
 そうして二人きりのまま、あの事故が遭った、不二が振り返りたくない過去がある小さな路地に入る。


「落ち込まないで」
「ええ、いや」
 不二はかなり落ち込んでいるように見えたらしく、河村に声をかけられて慌てて顔を上げた。
「不二がそんなになる事ないよ」
 やはり、河村は知らないのか。
 忘れて欲しいくらいだったはずなのに、本当に忘れられたら悲しくなった。
「不二が責任を感じるような出来事があったのかい」
 河村は足を止め、核心を突く一言を放つ。
 不二の胸は大きく脈打った。彼も数歩歩いた先で止まる。
 薄闇に囲まれた中で、遠い大通りの喧騒が耳をくすぐった。
「………………………………」
 振り返らずに背を向け、不二は深く頷く。
「背負わせてごめん。俺が忘れたばっかりに」
「君は、悪くないよ」
 搾り出すような呟きだが、よく通った。
「まだ思い出せないんだ。良かったら、話してくれないかな。何があったのか」
「………………………………」
「言いたくない、事なの?」
 不二はまた、無言で頷く。
「タカさんには、災難な事だよ」
「それでも、知りたいんだ。…………駄目かな」
「ごめんね。怖いんだ。言ったら、今度言ったら、本当に君が遠くなってしまうような気がして」
 頭を垂れて、肩を落とした。
 夜がもたらす心の弱さか、真実を口に出せば全てが崩れてしまう気がしてくるのだ。
「僕、最低なんだよ。君が絶対に覚えて欲しくない事を忘れて、安心したんだ。絶対に言いたくない」
 言いたくない思いのあまり、口数が多くなっていく。
「昨日、君の誕生日だったのに、台無しにしたの僕なんだ。君に嫌われそうだけど、本当の事を言ったらもっと嫌われるから良いんだ」
「不二、もう良いから」
 河村の手が不二の肩に触れた。
 微弱な電流が走ったかのように竦む。
「俺、ここにいるよ。遠くに行かないよ。嫌いにならないよ」
 もう片方の肩にも手が乗った。
「不二には笑っていて欲しい。そんなにも思い出して欲しくないなら、たとえ思い出しても忘れておくよ」
 鏡は無いが、恐らく酷い顔をしているに違いない。顔がなかなか上げられない。
「だから、不二」
「……君に、嫌われても、僕は君が好きなんだ」
 掠れた、聞き取り辛い声で呟く。
「うん。俺も好きだよ」
 よく聞こえなかったが、なんとなく答えるべき言葉を口にする。


 だから、君のは違う。


 言葉にならない。喉の奥から笛のような音がするだけだった。
 たぶん、不二は違うと言っているのだろう。
 なんとなく、河村は悟る。


 なんとなくではあるが、この路地に入ってから薄っすらと記憶が蘇ってきていた。
 まだ全てではないが、不二が言いたくないものが何であるかは感付いていた。
 しかし、思い出して欲しくないのならば。
 今の言葉を初めてとして受け止めよう。河村は思う。
 やり直しではない、新しい始まりとして。










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