「ところで、おエライさんって誰の名前出すんだ? 具体的な名前出さねぇと、向こうも信用しねぇだろ。
……まさか、フレンじゃねぇだろうな」
すうっと目を細めて向かいの男を睥睨すると、対象はソファー上で身を縮めた。
「ないない! ないから、ユーリ君目が怖いってば!
そんなことするわけないでしょ!」
「じゃあ、誰だよ。
相手が飛びつくほどの大物(エサ)なんて、そうそう居な…」
言いかけ、ユーリは言葉を途切らせた。
澄ました顔のレイヴンを眺め、唇だけが「まさか」と音なく呟きを刻む。
「そ、お手頃でしょ?」
レイヴンがにんまりと笑った。
騎士団隊長首席、シュヴァーン・オルトレイン――
「だ…大胆だな、おっさん…」
唖然の後、ユーリは深々と息を吐く。
「だってさー、隊長首席ってやつは噂だけが一人歩きしてるでしょ。
それならごまかす手はいくらでもあるし、もし変な風聞が残っても死んだ人間にはどうってことないし、ぴったりじゃないのよ」
「……そりゃ…」
あくまで飄々としたレイヴンの声音に、ユーリは短く唸って黙り込んだ。
フレンから聞くところによると、確かにシュヴァーンはまだ騎士団から除名されていないらしい。なぜか。
本来アレクセイの反逆に加担した罪を問われてもおかしくないはずだが、そのあたり最終的にどういう結論が出ているのか…ユーリはまだ何も知らない。
あれでいて、したたかなヨーデルのことだ。
公式に決断を下していないというのも、何らかの含みがあってのことなのだろう。
『レイヴン』の功績を考慮してのことなのか、あるいは元シュヴァーン隊の士気を懸念してのことなのか。はたまた、政治的に利用できるとの思惑があるのか、籍を残しておくことでレイヴンの行動に何がしかの干渉が可能と考えたのか…。
無論、多少はエステルや自分達の心情も汲んでのことでもあるのかもしれないが――。
しかし実際問題として、そうして騎士団に籍がある以上は、たとえ死亡説が流れていようと隠密行動中という噂が流れていようと、シュヴァーンは変わらず隊長首席のままであり、レイヴンが言うところの利用価値があるということなのだろう。
たとえ、レイヴン――当の本人に死人として扱われているとしても。
黙り込んでいるユーリになにを思うのか、レイヴンは眉を下げて笑う。
「あらら、餌にご不満?」
「…不満とか不満じゃねぇとか、そういうんじゃねぇよ。
ただ、釣り役がおっさんでその上餌まであんた…シュヴァーンかと思ったらな。オレに何しろって?」
いなくてもいいんじゃねぇの?
視線を外しながらご機嫌斜め気味に呟くユーリに、レイヴンは身を乗り出した。
「いらないわけないでしょー。青年がいてこその釣りよ?
もしおっさんになんかあったら、颯爽と助けに来てくれるでしょ」
「コケること前提の話かよ」
「保険は大事よ〜?」
心持ち首を傾げ、覗き込むようにこちらを見る年上の男を、ユーリは黙って眺める。
自分を指して「保険」と言い切る相手の信頼は、面映いようなくすぐったいような妙な気分だ。
その信頼には応えたいと思いつつ、口調はすっかり呆れた響きになる。
こればかりは自分でもどうしようもない。する気もないのだが。
「ったく…大物釣りだってんだから、演技はしっかりしろよな。んなとこまで面倒見きれねぇぞ」
「ああ、それも大丈夫よ。
なにせ、ほとんどが嘘じゃないもんでね」
レイヴンはそ知らぬ顔でぬけぬけと言い越した。
「だって、騎士団の上層部が薬欲しがってるのはホントでしょ。…まあ、欲しいのは証拠品として、だけど」
非常に人の悪い笑みを浮かべたレイヴンを眺め、今度はユーリが肩を竦めレイヴンに倣う。
「ははっ、んで、肝心の一番オイシイ部分には針(うそ)が仕込んであるってか」
「信じさせたい嘘(エサ)は、9つの真実にひとつだけ混ぜておくのがポイント、…なーんてね」
レイヴンが自嘲気味に呟く理由は…、いや言うのはよそう。
ユーリは足元のトレイを取り上げる動きで、レイヴンから視線を外した。
10年――と一口には言うが、それだけの時間をこの男はどのように過ごしてきたのだろう。
道具だの死んでいただのと言いはするが、それでもこの男の心が摩滅しきっていたわけではない。
今のような台詞を口に出来るまでに、どれだけのことを思ったのか――。
ロクでもない大人だよ、と自分で言いはするし、おっさんは寂しがりなんだから、ともしょっちゅう漏らす。
それはどちらもその通りだろう。だが……。
…もう一度飲み潰して本音を引きずり出してやりたいな、とユーリは小さく息を吐き殺した。
「おっさんの腕の見せ所ってか?」
「そうよー。おっさんの見せ場とっちゃダメよ、青年」
「おっさんがコケなきゃ、オレの出番はねぇんだろ。
…それとも、いっそコケてオレの出番、作ってくれんのか?」
「青年、今日はいじわる?」
立ち上がり、片付けに厨房へ向かうユーリの足が止まる。
肩越しに振り返って、目を細めた。
「これ、食わせてやったのは?」
「…ごちそうさまでした、大変においしかったです」
長椅子の上で土下座せんばかりに平伏するレイヴンに、ふっと男前な笑みを浮かべ再び歩き出そうとして、ユーリはまた足を止めた。
「ああ忘れてた」
自分に向き直ったユーリの視線を受け、平伏していた頭だけがひょっと上がる。
「相手は誰にする」
「へ?」
「そっち系のヤバい薬ってんなら、使いたい相手が要るんじゃねぇか?」
問いかけに、長椅子の上へ正座したままレイヴンは幾度か目をしばたかせて一度天井を見上げ、頬をかいた。
「んーーーー…、まあその辺はボチボチ考えるわ。
最終的にそこまで言う必要、ないかもしれないしね……って、だからそんな怖い顔しないでってば!
心配しなくても、ダンチョーの名前も嬢ちゃんの名前も使ったりしないから!
嬢ちゃんの名前使ったりしたら、青年だけじゃなくて団長代行とリタっちにまでボッコボコにされるじゃないのよぉ」
「当たり前だっつの」
大仰に怯えた身振りで身を縮めるレイヴンに、ふん、と肩をそびやかせ、ユーリはこんどこそ厨房へと向かう。
片付けに取り掛かりながらよくよく考えてみると――なにやら上手く言いぬけられた気がしたが……何をかまでは、今のユーリには良くわからなかった。