それは、貴族街に程近い市民街の路地奥。
 裏道を複雑に折れ曲がり、消えそうな灯りに頼りなく照らされた煤色の扉を開けたところにあった。
 細い階段を下りた、半地下の空間。
 何本もの頑丈な柱に支えられたそこは、外界と隔絶された怠惰と享楽の世界――。
 相当数の燭台とランプに照らされたフロアは、押し殺したような異様な熱気に包まれていた。
 アルコールと刹那の興奮に酔いしれる大勢の男女。
 広いフロアに無数に点在するテーブルと、そこに集う人間の視線が展開するカードに向けられ、また回転盤を走る玉に集中している。
 息を呑む瞬間の後、歓声と落胆の溜息。
 いずこもその繰り返しだ。

(よくまあ、飽きずにやってんなぁ…)
 カジノのフロアを眺め渡し、似たような光景ばかりの反復にそろそろ飽きてきたらしく、小さくあくびをかみ殺す青年の姿が一つ。
 闇色の上下に、夜色の布地と多少の細い革で飾られた衣装。下肢の右半分を覆う夜色の共布が翻る様はある種の優雅さをにおわせるが、隙のない動きがその印象を覆す。
 飾り気を排除しながらも、しなやかで無駄のない動きが優美さすら感じさせる。
 品良くとは言え贅沢に飾り立てたフロアに出れば、スタイルの対比がいっそ目を引くだろう。
 入場直後、居所を定めてから一歩も動いていない今ですら、気にかける人間は幾人もいる。ただ本人が纏う拒絶の空気を敏感に感じとったか、声をかけてくる人間は一人もいなかったが。

 柱の影、揺らめく火影に沈むように壁へ身を寄せるユーリは、たまにちらりちらりと投げられる視線に溜息をついた。
(やっぱり、帽子でも被ってくるんだったな…あの黒いやつ)
 そうすれば、このうっとうしい視線を遮るものになっただろうに、と。
 本当は、この衣装とともに隠れ家には持って行ったのだ。
 しかし、着替え終わって帽子を手に取ったところで、目を丸くしたレイヴンに遮られてしまった。
「ちょ、ちょっと青年。それ被ったら悪目立ちだからやめなさいってば」
 なぜ悪目立ちなのかわからず、面食らった瞬きとともに首を傾げて発言者を眺めると、いつも通りの胡散臭いいでたちをした男はなぜか視線をさまよわせつつ、念を押してくる。
「とにかく、それはやめときなさいって。ね?」
「あっそ…」
 目的の場所へ何度も出入りしている人間の言う事なのだから、と素直に聞いてみたのが失敗だったかな、とユーリは暗赤色の布に顎を埋めるようにして、小さな声で短く悪態をついた。
 …実際のところ、帽子など被っている人間が見当たらない以上、男の言ったことに納得せざるを得ないのもわかってはいるのだが。



 中の様子をじっと観察しているうちに、ユーリはいくつか意図的に目立たない場所へ配置されたテーブルがあることに気付いた。
 各テーブルではそれぞれ変わらずゲームが展開されているが、そういった卓に限って妙に思いつめた姿がある。
 そこでふと、一人の男に目を留めた。
 何かにすがるような視線と追い詰められた空気が、奈落の底に落ちる落胆を経て――ある一点から狂気に似た高揚感へと変化していく。
 ユーリの背を、冷たい汗が一筋流れた。
 普通のカジノなら、手持ちのチップがなくなったところでゲームは終了する。が、その卓でゲームが継続しているということは…老首領の元では許されていなかったような「あくどい」ゲームというやつか。
 このままいけば、テーブルのプレイヤーは遠からず破滅するだろう。
 その破滅が身ひとつで済めばまだいいが、巻き込まれる人間が居るとしたらそれこそ悲惨の一言だ。
 割って入りたい気持ちを抑えるため、ユーリは拳を握り目をそむける。
 今の目的は、その根本を絶つこと。
 自分達が早急に手を打つことが出来れば、彼も――彼の家族も間に合うかもしれない…。

 当てもなく外した視線だったが、視界の隅に見慣れた色が掠めてユーリは半ば無意識にそちらを向く。
 そこには、フロアに入って間もなく「あいさつ回りに行ってくるわ」と別れた連れの姿があり、ユーリは紫の背を何気なく目で追った。
 ふらふらとフロア内を流し歩きつつ、たまにテーブルでゲームに参加しては勝ったり負けたりを繰り返している。
 レイヴンの姿を見かけて声をかける人間も、ユーリが思っている以上に多い。
 このような場であるから話は長く続かないが、手を挙げるだけの軽い挨拶をよこす相手は相当数いるようだ。
(どんだけ顔が売れてんだよ、あのおっさん…)
 ユニオンの、また『天を射る矢』の幹部として過ごした月日は伊達じゃないということか。
 そういえば、ここへの入場一つをとってもそうだった。
 通常、こういう施設へ立ち入るには武装解除を求められるものだが、自分はレイヴンの連れということで愛剣に封紙を貼られたのみ、レイヴン当人に至ってはまさに顔パスの素通りである。
 古い馴染みだからってだけよ、とあの男は造作もない顔だったが、自分達の知らないところであの男はどれだけの信頼を得ているのだろう――。
 ユーリは、糸の切れた凧よろしくフロアをさまよい歩く男の背をつくづくと眺める。
 まあそれにしても…。
(すんげぇ違和感のなさ)
 以前から仲間達が寄ってたかって胡散臭さの指摘はしていたが、それが逆にこのような場では馴染んでしまう。
 もちろん、フロアには微行で来ているらしい貴族の姿も見受けられるが、酒と香水と煙草の匂いに紛れるとしたらあの姿以上にそぐうものもない。
 フロアを一周して戻ってきたレイヴンの顔を見て、ユーリは思わず小さく笑った。
「あー、めんどくさかった…。って青年なに笑ってんの?」
「いや、胡散臭いのもたまには役に立つのかってな」
「ひどっ…! おっさん傷ついちゃう!」
「……」
 両手にグラスを持ったままで身を捩らないで欲しい。
 だが、先ほどまで感じていた息苦しさが払われたのも事実で、ユーリはなんとも言えず複雑な微苦笑を浮かべた。

 小声で交わすやり取りは至って暢気なものだが、何があるかわからない場所で警戒を怠る二人ではない。
 隙があるように見せていたとしてそういうふりであり、もう一方がそれをフォローしているからだ。
 そのさりげないバランスは共に戦った中で培われた関係であり、仲間を除いた他の誰かでは真似の出来ないコンビネーションだろう。
 そんな頼もしい相手から、
「喉渇いたでしょ」
 とユーリはグラスのひとつを手渡された。受け取ったユーリに、レイヴンは片目を瞑って見せる。
「ちゃんと言いつけ、守ってくれたみたいね」
「おっさん、オレをなんだと思ってんだよ」

 いわく、自分以外から差し出されるグラスは受け取るな。
 しばらく一箇所にとどまった場合、そばを通った人間のトレイから物を取るな。

 これらは、事前の打ち合わせでいくつか取り決められた事項のひとつだ。
 薬物疑惑のある場所へ潜り込むとなれば、納得の内容である。
「それ、ちゃんと味見はしてあるから大丈夫よ。…甘かったけどっ」
 隣の壁にもたれ唇をへの字にした男の姿に、ユーリは小さく噴出した。
「そりゃどーも」
 クスクス笑いながらグラスに口を付けると、カクテルに使われた果実酒の甘い香りが喉を通る。
 甘いものがダメ、と言いながらユーリの好みをしっかり把握しているまめさはなかなか見上げたものだ、と気分が上向いた。
 グラスで口元を隠すようにして、ユーリが呟く。
「――それで、目当てのヤツは?」
「もうちょっと、かしらね」
 唇をほとんど動かさぬままに流れるレイブンの応えに、ユーリは細く息を吐く。
「とっととケリ、つけちまいたいもんだな」
「焦っちゃだめよ〜?」
「わーってるって…」
 読唇術対策に動きを隠すグラスから離れ、形の良い唇はこぼれた台詞と裏腹に僅かな苛立ちの吐息を漏らした。


  ****


「――そういや、証拠がないとか足のつかない薬とか言ってたけど、そんなに特殊なのか」
 隠れ家で資料を眺めるレイヴンに投げた問いは、回答に先んじて紙をめくる音と短い唸り声とに上書きされた。
「んー、目玉商品は、何かから特殊精製された麻痺系のマル秘薬物、みたいね」
「麻痺系って…需要あんのかよ」
「一般客向けには、それを媚薬だの睡眠薬だのとブレンドして、欲しい効果を付加させてンの。ブレンドの配合率も肝だけどね。
 最大の売りは、ソレ単一の場合使った痕跡がほとんど残らないのよ。
 うんと濃いものを使えば、心臓発作か呼吸器の疾患に見せかけられる。薄くして手足の自由奪えば、あとは目的の人間をどうとでも出来る…ってとこかしら」
「それが、病死と事故死の真相ってことか」
「多分、ね」
 3番目と4番目の事件を思い出したユーリが眉を顰めた。
 事件は重ねられるごとに隠蔽の意志が濃くなっている。そこまでして権力を欲しがる人間に碌な者はいない。そんな輩がつるんでザーフィアスを、ひいては帝国を牛耳ろうとしているのかと思うと、うんざりするような苛立ちを覚える。
 ユーリたちは、こんな奴らのために死力を尽くして星喰みを討ち果たしたわけではない…。
 ささくれる内心を宥めるように、レイヴンの声がのんびりと響いた。
「まあ、この資料を見たところでの推測に過ぎないんだけどねえ」
「…いずれにしても、ブツと連中と、セットで押さえなきゃ話にならねぇか」
 そういうこと、と頷いたレイヴンが資料をテーブルに放る。
「とりあえず、原料が何か知りたいところではあるわな。
 従来のパナシーアじゃおっつかないから中和剤作りたいってのもそうだし、精製方法も外部流出する前に抑えたいし…」
「いつ仕掛ける」
「そう焦んなさんなって。
 とりあえず、カジノにお目当ての大物が来るのが2日後って話があるから、その時に餌撒いてみようかな〜なんてね…」


  ****


 そして、今日がその当日。
 お目当ての大物、とやらがどんな相手か知らないが、カジノは盛況の様子だ。
 これだけ常連客がいるなら、ごく当たり前にカジノを続けていればよかったのではないかと思うが…人間の欲は際限がないということだろうか。
 幾度目かわからない溜息を漏らしたところで、隣の男の気配が僅かに変化する。
 油断なく男の視線を追ったユーリの瞳が、近づいて来る人影を捕らえた。





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