視線の先にいたのは、一人の女だった。
 褐色の髪を結い上げた女が、グラスを片手に微笑みながら歩み寄ってくる。
 そうと気付かれず素早く気配を変えたレイヴンが、よっと手を挙げて挨拶を寄越す。壁から身を起こし、その場から二、三歩離れた。
 立ち止まったのは意図してかのことかどうか、女の視線からユーリが死角に入る位置で…気を遣わなくてもいいのに、とユーリはグラスに隠れて苦笑を漏らす。
 肩をあらわにした意匠のドレスが多い中で、この女のドレスは比較的慎ましやかだ――と思った、が。
 一見、前からの露出はさほどではないが、身体にぴったりとした長い裾のドレスは腰の少し下からざっくりとスリットが入り、背中は腰のギリギリ近くまで肌を晒している。
 悠然と構えた気配と併せて、この女は明らかに普通の客ではなく通常の従業員でもないとユーリの目に映った。

「まあ。来ているのに声をかけてくれないなんて、意地悪ね」
「なに言ってんのよ。さっきまでゴリッパな誰かさんと忙しかったじゃない?」
「見ていたの?
 あれもお仕事よ。わかってるくせに」

 交わす会話の内容からしても、ユーリの予想に近いものがあるのだろう。
 親しいと馴れ馴れしいのきわどさで、女はレイヴンに寄り添った。
 レイヴンもひどく慣れた仕草で女の腰に手を回す。
 それを見て、苦笑するユーリだが…眉が僅かに寄ったことに本人は気付いていない。
「そちらの方は?」
「ああ、俺様の知り合い。来たことないって言うから、社会勉強しなさいよって連れてきてやったんだけどね」
 向けられた視線を受けユーリは首を傾げるように軽く挨拶を送り、女も嫣然と笑ってそれに応えた。
「もっと中にいらっしゃいな。じゃないと、楽しんでもらえないわ」
「不調法者でね。ここから見ている分だけでも楽しんでるよ」
「ふふ、つれない人」
 秋波に顔を赤らめるでもなく欲を見せるでもなく、肩を竦めただ余裕の笑みを返すユーリに興味を持ったらしい。
 左手をユーリに差し伸べつつレイヴンから身を離しかけたところで、
「ねぇ、ちょっといい?」
 耳元に低く囁かれて、女の動きが止まる。
 レイヴンに向けた視線が艶を増し、こぼれた溜息にわずかに熱が浮いた。
 向けられた熱に構わず、低いささやきが問いを落とす。
「オーナーはどこにいるか知ってるかい」
「もうすぐフロアに入ると思うけれど…なあに?」
「ちょいと話っていうか、頼みごとがあってねぇ」
「頼みごとなんて、妬けちゃうわね」
 会話を交わしつつ、レイヴンの手がゆったりと女の腰から背に上りまた降りた。
 クスクスと含み笑う女の声が、妙にユーリをいらつかせる。
 顔に出しはしないが、ユーリは視線をふいと逸らしてフロア内を眺めた。
 ――が、視界に入る景色は何一つ記憶に残らず、すぐ傍で続いているはずの二人の会話は、まったく耳に入ってこなかった。




 女が傍を離れたのに気付いたのは、レイヴンに肩を叩かれてのことだった。
「話、終わったわよ」
「あっそう」
 すっかり温くなったカクテルを飲み干し、口あたりの微妙さにユーリは顔を顰めた。その顰めっ面が温さに乗じての何かなのか、ユーリ自身にもわからない。
「新しいグラス、取ってこようか?」
「いや、いい」
「じゃあ、おっさんの分飲む?」
 差し出されたグラスを、無言で自分のものと取り替える。
 ほとんど口の付けられていないそれは、レイヴンのチョイスだけあって強い酒に苦めの柑橘果汁が程よく利いたものだった。
 喉を焼く刺激にユーリはほっと息をつき、…横目でレイヴンを眺めつつちらりと漏らす。

「オレ、いないほうが良かったかなっと」
「…青年ったら、妙に空気が怖いわあ」
 いやん、と首をすくめる男のどてっぱらに一発叩き込みたい衝動を抑え、また一口を煽る。
「気のせいだろ。
 あれもおっさんのオトモダチか?」
「まさか〜〜。おっさん、ヒトのものには手を出さない主義よ?」
 のほほんと帰ってきた応えに、ユーリはまじまじと男の横顔を眺める。
 眉を寄せたユーリの視線をどう解釈したかわからないが、レイヴンは再び壁にもたれ薄く笑みを浮かべた。
 動かない唇が呟きを流す。
「あれ、オーナーの愛人ってやつ。
 手は出さないけど、円滑な意思疎通にリップサービスは定石でしょ?」
「ふ…ん」
 将を射んと欲すれば…か。
 同じように呟くと、レイヴンは情けなさそうに眉を下げた。
「だから、手は出してないってば」
「あれで?」
「そう、あれで。ていうか、あれでって何っ?」
「………」
 レイヴンが言うならそうなのだろう。
 それにしては慣れた接触だったが――レイヴンの前歴を考えれば、あの仕草も当然なのかもしれない。
 第一、面倒そうな立場の相手に手を出すような真似もしないか。
「納得した?」
「まぁな」
「そ、よかった」
 心底安心した響きに、ユーリは思わず苦笑する。
 口に含んだ液体がするりと喉を滑って胃に落ちる。酒精とライムの香りが吐息に紛れて消えた。

「趣味悪ぃと思ったけど、そういうわけでもなかったんだな」
「ん?なになに?」
「……、なんでもねぇよ」
 小さく首を振ったユーリに、レイヴンは追求もせずに首を傾げたにとどまる。
 が、落とすつもりのなかった呟きはユーリ自身に戸惑いを与えた。

 女の趣味について、今までにレイヴンの行動をとやかく言った覚えはない。
 この男とダングレストを歩けば、幾たびも遭遇した出来事だ。
 それこそ、色々なタイプの女性と意味ありげな会話を交わすこともしばしば。その中には今日のような相手もいたかもしれない。
 化粧と香水の匂い。
 媚と退廃、快楽に慣れた気配。
 確かにこういう場には似合いの女だろう――が。
 なぜだろう、ユーリはあんな女はレイヴンには不似合いだと思ってしまうのだ。
 胡散臭さでこの場に溶け込んではいるが、この男はもっと……違うのだ。こういう世界で『生きられる』男ではない。
 この男の隣に立つなら…揺るぎなく前を見据える目と、自分で道を切り開く意志とそれから…。

「…ん。青年、聞いてる?」
「あ、ああ悪い。ちょいボーッとしてた」
 レイヴンの呼びかけにハッと我に返り、ユーリは自嘲に唇を歪めた。
 まだ接触はしていないとはいえ、敵陣のど真ん中で考え事なんてらしくもない。
 しかも考えていたのは、途方もなく緊張感の欠片もない内容で…間違ってもレイヴンに聞かせられるようなものではなかった。
 そうして沈黙したユーリを、レイヴンは気遣わしげに覗き込む。
「大丈夫?
 煙に酔ったとか…ないわよね」
「なんだよそれ」
「あーんまりイイ空気とは言いがたいからね。それこそ、妙な煙草(モク)をやっちゃってる手合いも、いなくはないし…」
 最後の呟きは、再び響きを殺したもので。
 天井近くを流れる靄にちらりと視線を投げ、
「そういうのじゃねぇから」
 大丈夫との意思表示を見せたユーリに、レイヴンは寄せた眉を解いた。
 小さく微笑み何気なくフロアに視線を向けた男の肩が――僅かに警戒したのを、ユーリは見逃さない。
「お出ましか?」
「ああ」
 顎を引いた短い答えにユーリは口元を引き締め、グラスの中身を飲み干す。
 唇を舐めると、
(…戦闘開始ってか?)
 逸る気持ちを抑えるように、ユーリは空になった冷たいグラスを唇にあて…うっそりと小さく微笑んだ。





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