ユーリの視線が捕らえたのは、穏やかな微笑をたたえた中肉中背のどこにでも居そうな温和な男の姿だった。
雰囲気としては、中堅宿屋の主といったところか。
身に着けたものもさして仰々しくなく気取りもなく、一見ありふれたスタイルの衣装だが…おそらく使用してある材料はどれも高級なものなのだろう。
幾人かの取巻きを連れた姿を確認した客が、カジノの主に次々と挨拶を寄越す。
その全てに微笑みながら律儀に応える横顔も、話に聞いた姿とは印象を異にしていた。
これを見ただけでは、ギルドの首領を毒殺しようとしているだの、評議会員の暗殺に噛んでいるだのとは信じがたいかもしれない。
だが――。
歩み寄った部下からの報告を受けたか、テーブルの一つに投げた視線に伴う気配がユーリの神経をチリチリと焼いた。
視線の先には、先ほどユーリが気にしていた男が居て…。
頷いた上司の意を汲んでか、オーナーに耳打ちした従業員がゆっくりテーブルに近づき、男の肩を叩くとその腕を取った。
目立たぬように配置された扉の奥へと消えていくその影。
ああ…と瞑目したくなるのを堪え、オーナーに目を凝らしていたユーリは――確かにそれを見た。
(…ほんの一瞬だけど、哂ってやがった)
よほど目ざとい人間でなければ気付かぬほどの、視線の動き。感情の流れ。
たった、それだけ。
それだけだが、ユーリの心象を決定付けるには事足りるものだった。
「………っ」
「――抑えろ」
強張ったユーリの肩が揺れる。
耳元に低く落とされた硬い声音は、ほんの一言。
だが、声ににじんだ刺し通すような冷徹さが、激しかけた感情を一瞬にして鎮めた。
「…悪ぃ」
「気持ちはわかるけど〜、今は、ね」
「ああ」
溜息交じりの謝罪に変わらぬ暢気さで返る声は、省みて自身の未熟を感じさせられユーリの苦笑を誘う。
が、先の言葉にレイヴンも同じものを見て感じたのだという安堵に似た気持ちも覚えて、ユーリはそっと息を吸い込んだ。
単独行だったなら、いつ暴れ始めているかわからない。
「ったく……オレ一人で飛び込んでたら、今頃どうなってたかわかんねぇな」
空のグラスを齧る勢いで口元を覆いボヤキを口にすれば、隣の男がひっそりと吐息だけで微笑む。
「健全でいいわねぇ…」
「何が」
「青年と話してると、心がわらわれるわぁ〜」
「そりゃ洗われる、だ。笑ってんじゃねぇよ」
「あらま、そりゃ失礼」
とぼけた口調に呆れた後、ユーリは小さく噴出す。
べたべたのジョークではあるが、こんな場面ではそのベタさ加減がちょうどいいのか。
必ず決着(ケリ)を付けるという意志は変わらないが、強張った心から余計な力みが消える。
いつもと違うシチュエーションとはいえ、余裕を失いかけた自分が少しばかり情けない。
油断の出来ない状況では、ユーモアのひとつも口にするゆとりがなければ臨機応変さが欠けるものだと…普段の戦闘でなら自分も実践していることなのだが。
そういえば、いつぞやフレンが黙っていないと戦闘に集中できないと言っていたが、あいつも多少はゆとりの一つも持ったほうがいいのではないか…と見当違いの思考に走りかけ、瞬きと共に慌ててそれを止めた。
そうこうしているうちにオーナーに例の愛人が歩み寄り、視線がこちらを向く。それを機に、レイヴンが壁から身を起こした。
「さて…と。
じゃあ、ちょっくら行ってくるかねぃ」
「無理はすんなよ」
「はいはーい」
ユーリが見守る中、遠くからの微笑みに手を挙げ挨拶を返すレイヴンは、ふらふらと惚けた足取りで標的に近寄った。
さすがにこれだけ距離があると、何を話しているのかさっぱりわからない。
ただ、話している様子や表情の動き、仕草から流れを推測するしかないのだが…。
最初は通り一遍の挨拶から始まっただろうやりとりの途中で、オーナーが愛人に何事かをささやき、短い会話の後肩を竦めた女がその場を離れていく。
(始まった…かな)
通りすがりの黒服にグラスを押し付けてしまえば、そちらを凝視するわけにもいかず、目を閉じたふりでちらちらと視線を向けて観察するしかないが…。
影に佇む護衛らしき人間一人を傍に残し、オーナーはレイヴンとともに使っていない隅のテーブルへと移動した。
耳を傾ける様子からすると、どうやら順調に話は進んでいるようだ。
そして。
レイヴンが浮かべた悪戯っぽい笑みと、沈思するオーナーの姿。
ややあって、オーナーはゆっくりと笑みを浮かべ頷いた。
(…食いついた、か?)
その後、いくばくかのやりとりがあり……レイヴンとオーナーの視線が完全にこちらを向くのに気付いて、ユーリは面食らった。
「…なんだ?」
やや離れた場所から手招きするレイヴンにひとつ瞬き、ユーリは壁から離れる。
猥雑な喧騒に満ちたフロアを横切る気にはなれず剣を下げたまま壁伝いに移動を始めたところ、先方の一団もユーリに近づいてきた。
「はぁ〜い、青年」
「はーい、じゃねぇよ。どうしたんだ」
「ちょっと別の部屋に移動するからさ。
青年にはぁ、保護者がいないとやっぱダメでしょ?」
「だからおっさん、オレをいくつだと思ってやがる…」
「え、むしろ青年がおっさんの保護者?」
「それなら納得だな」
「…自分で言ったことだけど、青年の即答っぷりにおっさんちょっと傷付いたわ…」
馬鹿馬鹿しいまでに他愛のないやりとりだが、二人とも慎重に固有名詞だけは口にしない。
互いに名を呼ばないのは、事前の取り決めのひとつだった。
レイヴンについては仕方がないが、ユーリの名前は出来る限り伏せておきたいというレイヴンの意向だ。
ユーリ自身は知られたところでどうということもないと思いはしたが、何が起きるかわからないということもあり、別段反対する理由も見当たらず…レイヴンの強い希望もあり承諾した事項である。
ふと、至近距離でクスクス笑う声に気付き、二人は揃ってそちらを眺めた。
「いやはや、面白いお二人だ」
心底愉快そうに肩を揺する男は、笑いを収めるとユーリに微笑みかけてくる。
「初めてお目にかかりますな。こちらのオーナーでございますよ」
「…ご丁寧にどーも」
「楽しんでいただけてますか?」
「ああ、他じゃなかなか見られないものが目白押しだな」
「そうですか」
ユーリの婉曲な答えにも、毛ほども動じずオーナーは微笑んだままで頷いた。
「何が対象であれ楽しさを見出していただけるなら、施設を任された者として喜ばしい限りです。楽しみの基準は人それぞれですからな」
娯楽設備の運営者としては、なかなかの模範解答だ。
あんたの楽しみってのを訊きたいもんだな、とユーリは内心毒づきながらも、表立っては肩を竦めるに止めた。
「さて。では準備をさせますので部屋を移りましょうか」
「…何が起こるんだ?」
護衛を先行させつつオーナーは背を向ける。
状況を説明しろ、と言外に促すユーリに、オーナーとある程度の距離を保ち歩き始めながらレイヴンは軽く顎をなでた。
「ん〜。おっさん、ちょいと欲しいものがあってオーナーに昔の誼でおねだりしたのよ。
でまあ…ここカジノでしょ」
「…ああ、それで?」
「欲しいものがあるなら、勝負で手に入れるって…カジノのルールとしては納得じゃない?」
「………」
「けど、あそこでそんなことおっぱじめて騒がれるのもヤだから、場所移動できないか…ってね。ま、そういうこと」
「ふぅん…」
さして興味もなさそうに呟き、ユーリは鏡張りの周囲を眺めつつレイヴンの後を歩く。
何も『事情を知らない』はずの立場としては、それ以上をどう言ったものか。
だが、とりあえず事情は飲み込めた。
確かに、おおっぴらになって困るのはこっちも同じことか。
(だからって、簡単に勝負を飲むのもどうなんだ…)
あっさり負けて目的のブツを手に入れられなかったらどうする気だ、と。
そのあたりは…よほどの自信があるのか、はたまた、何か仕掛けをしているのか。レイヴンは飄々とした空気を崩さない。
自分が口を挟めない以上は、この男に任せているしかないのだが…。
大事なところでうっかりコケそうな気がするのは自分の気のせいだろうか、とつい不安がよぎる。
いや、これでいて存外頼りになる男ではあるのだが…。
少しばかり思考に沈んでいたところで、うっかりとレイヴンの背中に衝突しそうになる。寸でのところで歩みを止め、廊下から示された部屋へと足を踏み入れた。
室内にはテーブルがひとつ。
卓上には既に、ダイスと新品のカードが揃えておいてあった。
オーナーは品物を用意してくる、と少し場を外している。部屋には今のところ二人だが、どこで誰が見ているかわからないと油断は欠かさない。
そう広くはない部屋を見渡すが、設えられているのはゲーム用のテーブルとセットの椅子があるきり。
「で。オレ、どこにいろって?」
「あー…、おっさんの後ろで見てる?」
「手札覗いたオレの反応で、色々バレても知らねぇぞ」
「やーねぇ、そういうトコも青年のこと信じてるってば〜」
「……あっそ」
視線を逸らし素っ気なく返すも、レイヴンがやたら笑顔なのが気に障って仕方がない。
いい加減にしろ、の意図で軽く睨みを入れると、レイヴンはそ知らぬ顔でさっさとプレイヤー席に腰を下ろしてしまった。
もう一言二言、何かを付け加えるべきかと考えているところへ、オーナーがディーラーと護衛を連れて戻ってきてしまう。
「お待たせして申し訳ない」
「いや、全〜然」
仕方なくユーリは、護衛ならここに立つだろうという立ち位置に居場所を定め、レイヴンの斜め後ろへと陣取った。
右の…レイヴンから見て死角になる位置へと。
その対角線上へ相手の護衛が立ち、オーナーがレイヴンの向かい、胴元(バンカー)側へと腰を据える。
「さて…レイヴン殿ご希望の品はこちらです」
オーナーが持参した小箱を指し示してみせた。レイヴンがあっさりと頷く。
「内容物については…これは私を信じていただくしかないが、お渡しする相手が相手です。まがい物ではないと保障いたします。
まさか、あなたの希望に添わぬものを用意は致しませんよ」
「そのあたりは、おたくのことを信じてるって」
レイヴンの回答に安心したような笑みを浮かべ、オーナーは発言を続ける。
「ここでひとつ問題があるのですよ。
こちらはあなたが希望するものを、賭けの対象として場に出すことができる…が。そちらとしてはどうか、とね」
「そうねぇ…」
指摘されてもおかしくはない問題ではあった。
どうする気だとユーリは高みの見物を決め込む。自分の出番があるとしても、もっとずっと先のはずだ、と。
ユーリの視線の先で、レイヴンは顎を撫で短く唸った。
「――と言っても、だ。
おたくが欲しいものなんて、俺様が持ってるかねぇ?」
「……、差し支えなければですが」
首を捻ったレイヴンの目前を、オーナーの指がすいと上がり――ある一点を指した。
それは、レイヴンの右後方。
「そちらの青年は、どうかと」
「へっ、オレ?!!」