レイヴンは襟首を掴まれたままで、相手方が出て行くのを見送る。
 扉が閉まり、自分達に向けられた視線がなくなったことを確認し…レイヴンはわずかに肩の力を抜いた。
 襟から手が離れて、至近距離のユーリが少し身を離す。
 視線に代わり聞き耳を立てられていることは知っていたから、ユーリがぱきぱき指を鳴らしたことにも、レイヴンはあまり不思議には思わず――。
「せいね……っどわぁ?!」
 振り返ろうとして顔面を狙う拳に気付き、すんでのところで仰け反ってかわす。
 間をおかず聞こえた鋭い音に、レイヴンは引きつった笑みを漏らした。
「舌打ちって…ち、ちょっと青年マジ?!」
「冗談なんか言った覚えはねぇんだが」
 唇だけでにっこりと笑うユーリは、剣と外した首周りの布をテーブルの上に置き本格的に殴りの体勢だ。
「オレも、随分安く売られたもんだよな。おっさん、覚悟は出来てんだろうな」
「ま…ちょっと待った!」
「待てるか!」

 応答とともに再び繰り出された右の拳を、レイヴンは巻き込むようにして両腕で抱え込んだ。
(マジなの?!)
(大マジだ)
 囁きに返ったのは、悪戯っぽい響きのしかし容赦のない断定で、芝居の一部だと信じていたらしいレイヴンは「嘘でしょ」軽く驚きの声を漏らす。
 封じられた右手はそのままで鳩尾を狙い飛んできた膝から、ユーリを突き離すようにして距離をとる。
 飾り布を翻しながらその勢いを利用して放たれた回し蹴りを腕でブロックすると、響かぬ声がレイヴンの耳朶を打った。
(すぐに殴られろとは言わねぇ。説明くらいしろ)
(あ、そういうこと)
「じっとしてろよ!」
「無茶っ、避けるに決まってんでしょ〜!」
 拳も蹴りも、レイヴンの目には全てが八割の本気と見て取れた。
 全身全霊で襲い掛かられたら、多分双方ともに無傷では済まないだろうからそれはいいとして、これだけ気合の入った殴り合いなら聞き耳を立てている連中もこれが芝居だとは思うまい。
 まあ実際、芝居でもないわけだが。
 ユーリはユーリで殴ってやろうとは本気で思っているし、レイヴンもいくら八割でもユーリの拳は嬉しくない。
 傍目にもかなり熱の入った攻防戦を繰り広げている――その合間に端的に打ち合わせを進める。このあたりのツーカーっぷりはやはりありがたい、とレイヴンは思う。思うのだがここまで本気でやり合わなくともいいではないか。
(内と外)
(探って引っ掻き回せって?)
(青年におまかせ)
(へいへい)
「っと!」
「ぎゃー!」
 うっかり気を抜くと正面からまともに食らいそうになり、レイヴンは本気で悲鳴を上げた。
 悲鳴を上げつつちゃっかり反撃に入ったらしいレイヴンの裏拳を掌で受け、ユーリは目を細める。
(あれ、わざとか)
(イカサマに勝ったら怪しいしぃ)
 負けの理由を問うたところで、予想外の回答につい手元がおろそかになった。
 手の中でくるりと反転した掌に手首を極められそうになるが、際どいところで技をかわしユーリはまた本気で舌を打つ。
「くそっ!おっさんのくせに生意気な」
「なにそれ!なんで?!」
 なぜと訊きたいのはユーリのほうだ。
(なんでイカサマ)
(さあて、薬が惜しかったかそれとも…)
 別の理由があったか…との呟きは口にせず、レイヴンはユーリの横顔にちらっと視線を投げる。
 ……正直、今はそれで精一杯だ。余裕なんかあるわけもない。
(青年、本気すぎ!)
(…ったり前だっつの)
 低いやり取りの直後、
「あ」
 ユーリの視線が至近距離でふと逸れる。
 不意をつかれ、――視線に釣られた。

「ごっふぉお?!」
 鋭い膝蹴りを腹部にまともに食らい丸くなって床の上へ転がったレイヴンを、ユーリは手をはたきつつ満足げな笑顔とともに見下ろした。
「一丁あがりっと」


  ****


 機嫌を直したユーリと腹を撫でつつ顔をしかめたレイヴンが廊下に出ると、近くで待機していた先の護衛が、背にしていた扉を開ける。
「ご用はお済みのようですな」
「ああ、待たせたみたいで悪かった」
 ユーリはあっさり頷きを返し、下げた紐を持ち直す。
「じゃあ、オレは明日また。詳しい話はその時だったよな。
 ただ、ウチの首領に話通すのは時間かかると思ってくれ。仕事で飛び回ってるもんでな」
「承知いたしました」
 頷いて了解の意を示したオーナーは、次いでレイヴンに呼びかける。
「なに?」
「こちらをお持ちください」
 差し出された濃紙の小袋を受け取り、中を確かめたレイヴンの片眉が上がった。
「ひとつきり、ですが…ご遠慮なさらず」
「いいのかい? 勝負には負けちゃったけど?」
「ええ。ですが、お聞きした内容がどうにも捨て置けないものでしたので。今後私どもにも深く関わりそうですし」
 意味ありげな微笑みに、レイヴンもニヤと一瞬笑って返す。
「んじゃ、ありがたくいただいちゃいましょ」
 あくびをかみ殺し、いかにも興味なさそうに余所見をしていたユーリだったが、その目は鏡に映った二人のやり取りを見逃してはいない。
 そこには、受け取った紙袋を無造作に懐へ突っ込むレイヴンの動きに、にこりと微笑んだオーナーがいた。
 表向きは好人物を完璧に演じてはいる――が、時折瞳の奥に見え隠れする隙を窺う気配がユーリの癇に障る。
(…そりゃあ、打ち合わせの通りにおっさんが話してたとしたら、表面的にでも食いつかないわけねぇよな。さてと、…)

「それになにより――」
 明日からの段取りを軽く頭の中で練っていたユーリは、思わせぶりなオーナーの言葉とともに視線を感じてそちらに目を向けた。
「勝負の結果とはいえ、私側の勝利品の価値と比べればその程度の融通は付けさせていただかねば、と思いましてな」
「およ、青年ったらすんごい気に入られちゃったわねー」
「…オレにそこまでの価値はねぇよ」
 なんか、期待されっぷりがおっかねぇな。
 苦笑しながら首をすくめるユーリは、内心の薄気味悪さを軽口でごまかし背を向ける。
「さてと。オレはもう帰るぜ。あとはマタアシタ、だ」
「じゃ、俺様も帰るかね」
 軽く手を振ったユーリに続こうと、大きく伸びをしたレイヴンもオーナーに片手を挙げた。
「結果はまた連絡するわ」
「是非とも。その結果次第では…私どももご一緒させていただけますかな?」
「んーそうねぇ、コレの入手は頼らにゃならんだろうし…。どうなるかは、わかんないけど、ね」
「楽しみにお待ち申し上げておりますよ」

 二人の背に慇懃なほど丁重に腰を折ったオーナーがこの時どういう顔をしていたのか、ユーリとレイヴンは知る由もない。
 ただ、後日になって言えたことは――関わった全ての人間にとってこの事件が計算外尽くめだった、ということだけであったろう。





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