ひたすら薄暗い系?です。
あまりよろしくない描写が含まれますので、読まれる方はご注意。































 ユーリがそこで目にしたのは、あらゆる常識や美徳、高潔さを嘲笑うかのような、浅ましい快楽の数々であり限りない人間の欲望であり――醜悪さだった。
 悲鳴なのか嬌声なのかわからないすすり泣きに似た甲高い声、箍が外れたようなけたたましい笑い声、地を這うような悲痛な呻き声。哀願と絶望と狂気。そんなものがどろどろに溶け混じりながら、絶え間なく壁に叩きつけられている。
 分厚い石壁は空間を封鎖し、悲鳴を吸い上げ、外へその気配を漏らさない。
 細かく折れ曲がった通路は覗き窓の付いた鉄の扉が点在し、それぞれその奥には仕切られた小部屋があるようだ。
 細く灯りの漏れる窓のひとつを影からそっと覗くと、外にまで漂う変に甘ったるい薄煙の中、成熟しきっていない裸体を組み敷いて好き放題に嬲っている男の背が見えた。律動のたびに見え隠れするのは、赤く腫れ上がった薄い胸をなおいじられ快楽に歪んだまだ幼さの残る顔で……。

 ユーリは嫌悪に息を詰め、顔を背けるようにしてその場を離れる。
「最悪だ…」
 こんなもの、話に聞く老首領が欠片でも認めるわけがない。自分の手で、自分の半生を注いだギルドを潰そうとまでした男が。
 そんなに首領が邪魔だったか。そこまでして追い求めたいものがコレか。
 今見た光景を追いやるように頭を振ると、本気で吐き気のこみ上げる胸を小さくさすった。
(こんな場所、何が何でも叩き潰してやる)
 唇を噛み、下げた剣の紐を握り締める。
 人気を避け、壁に身体を押し付けるように進んでいるうちに、ユーリは僅かに気配の異なる通路に気付く。
 ためらったのはほんの一瞬で――少しでも音のない空間を求める気持ちは否めないまま、ユーリは滑り込むようにそちらへと足を運んだ。

 通路に入ると僅かながら声の気配が遠くなり、並ぶ扉の種類が少し変わってきた。鉄の扉に変わりはないが、先ほどのものより古く覗き窓に蓋もないなど細かく作りが違う。
 ひとつを選びノブに手をかけ慎重に捻ると、重い音を立ててゆっくり扉が開いた。
 わずかに黴た埃の匂いは、そこが何がしかの保管庫であることを悟らせる。
(もしかして、証拠のブツもここに?)
 扉を閉め切らぬようにして足を踏み入れ、積み上がった木箱の一番手前を覗くと、小分けされ厳重に巻き締められた紙の包みが詰められていた。
 ひとつを手に取り重さと手触りを確かめる。取り除けた下にばらけていた小袋を見つけ、素早く手の中に隠しこんだ。
(大当たり、ってな)
 包みを戻そうとして、箱の内側へ張り付いたものに気付いた。
 カラカラに乾ききっているが、全体が黒ずんだ赤茶色で縁と端の一部が茶けた白…元は薄黄色だったかも知れない……。
(……花びら、か?)
 いつだったか宿屋のおかみさんが、ご亭主から誕生日にもらったという小さな花束を壁にかけていた。随分日が経ってすっかり乾燥してしまったそれを思い出す。
 あまり意識せぬまま崩れないようにそっと剥がして、ユーリはそれを薬包と一緒に鞘の隠しへと忍ばせた。
(そろそろ引き返さねぇと、ヤバイな…)
 包みを元に戻し保管庫を後にしたユーリは、再び人気を避けつつ慎重に、しかし足早に地上を目指す。
 換気は十分にされているはずの場所だが、息苦しくてたまらない。
(当分夢でうなされそうな音響だな、っと…)
 と、近付く人の気配に、ユーリは物陰に身を潜める。
「頼む、助けて…早く、頼む…」
 すがるような声で哀願する男を、屈強な男が無情に引き連れていく。
 何気なくその顔を見て、ユーリは唇を噛んだ。
 迷ったのは数秒。
 今はそうすべきでないともわかっている。
 しかし――ユーリがユーリである以上、それを見過ごすことは出来なかった。

 男の背へ大股に三歩で駆け寄ると、無言でその後頭部を殴りつける。
「……ぐっ?!」
 短い呻きとともに、大柄な男が地に沈む。
 連れられていた若い男が、同時に地べたへ座り込んだ。
 何が起きているのかわからない様子で、半ば俯いたまま呆然としている。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ」
 低めた声で呼びかけると、ゆるゆる顔を上げ濁った瞳を向けてくる。それは、カジノのフロアからユーリの目の前で連れて行かれた男だった。
「すぐ、外へ連れて行ってやる。少し静かにしていてくれ」
 呼びかけ、へたり込んだ身体に肩を貸そうとしたユーリの腕を、男が掴む。
 その掴まれ方では支えにくい、と思い――、

「…誰か!
 おおい、誰か!」

 突然男が喚きだしたのを、ユーリはぎょっとして見つめる。
「おい、静かに…!」
「誰か来てくれ!」
 焦点の合わない濁った瞳は、ユーリなど見ていなかった。
(まさか…っ)
 しまった、と心底舌打ちして、絡む腕を振り解き立ち上がる。
 走り去ろうとした足を掴まれ、つまづきかけた。瞬間動きの止まったユーリを縋り登るように腕が上がってくるのを、信じられないものを見るように瞳を見開く。
 駆け寄る複数の足音に、今後こそ男の腕を剥ぎ――間に合わないと悟って下げた剣を掴みなおす。
 飛ばした鞘が床を跳ねカシャンと音を立てたところで、取り囲まれた。
 狭い通路の前後を挟まれて万事休すだ。

「仕事熱心は大いに結構ですが、見回るにしてもちと範囲が広うございますな」

 聞き知った声にそちらを向けば――いつもの穏やかな笑みを湛えた男がいた。
 じわじわ輪を狭めようとする護衛たちを、ひと薙ぎした視線で威圧しておいてから、目を眇め男に向けて剣先を突きつける。
 ユーリは皮肉たっぷりの笑みを浮かべて唇を開いた。

「残業代は請求しねぇから安心しな。
 そっちこそ、こんなところで営業活動か? 運営熱心なこった」
「お褒めに預かり恐縮ですな」
「ここもあんたの言う娯楽施設かよ? まったく…反吐が出るぜ」

 殺気立つ護衛たちの後ろで変わらぬ笑みを貼り付けた男は、ユーリの声にふと不思議そうに瞬いて首を傾げた。
「ここは、私のための施設ですから。いい趣味でしょう?」
「な、ん…だと…」
「おや? 同意していただけないのですか」
「誰がこんなもの…!
 いい趣味だと? 常識外れにもほどがあるってんだ!!」
 吐くように言い捨てたユーリに、男は困ったように瞬く。その仕草に、ユーリの背中を得体の知れない寒気が走る。
「…おかしいですね。時折、道徳だの常識だのをがなりたてて私の邪魔をしようとする人間がいますが、それらに一体何の意味があるのか、私にはちっともわからない」
 戸惑うように首を振りまた穏やかに微笑む男にユーリは吐き気を覚えるとともに、気味悪いほどの違和感を感じた。
 それを感じていたのは以前からではあったが…。

「私こそ世界の道義ですよ。私が作りたいものを作り壊したいものを壊して、何がいけないのですか?
 首領の言うこともそうでしたが…私には理解できません」
「てめぇ…」

 今やっとわかった。
 この男には、人間としてあるべきものが完全に欠落している。歪んでいるのではなく、根本から狂っているのだ。
 正真正銘の狂人ほど、世間に紛れて生き延び誰も気付かないという話は聞いたことがあるが……この男もその類か。
 きり、と唇を噛むユーリに微笑み、オーナーは片手を揚げ短く振った。
 合図に反応し、護衛たちが一気に押しかかってくる。
 地の利と数で上回っている……はずだが、地の利はユーリにとってもだ。どれだけの数を揃えたところで、狭い通路ではそれを生かせはしない。
 前後から迫る剣をかいくぐり剣平を蹴り飛ばし、一人二人と斬り伏せていく。
 腕を薙ぎ腿を裂き、もしくは鳩尾に蹴りを叩き込み悶絶させ…確実に戦闘力を削いで、あっという間にユーリを取り囲んだ護衛のほぼが地に伏せていた。
 あと少しで終わり、というところで、
「……っ?!」
 ユーリの視界を銀色の何かが掠めて、とっさにそれを剣で弾く。
 小さく鋭い金属音が響いて――立て続けにまた飛んでくるそれを、続けざまに叩き落す。が。
「しま……っ!」
 同時に飛んできた数本を避けきれず、そのうちの一本がユーリの肩に突き立った――。

「…く、……そっ!」

 すぐさま針を抜き捨てたが間に合わず、見る間に薬が全身へ回る。
 急速に訪れる四肢の痺れに無駄とわかっていながら抗うユーリだったが、間もなく剣を取り落とし膝から落ち…突っ伏すように地に這いつくばってしまった。
(痺れ薬は、お家芸…ってか…、ちっ…!)
 残った数少ない護衛が、慌ててユーリの肩を押さえつける。
 振り解こうとしてもがくものの、大した抵抗も出来ず剣も遠ざけられてしまう。
 剣戟の音が止み後に残ったのは、混在する変わらぬ悲鳴と周囲で新たに生まれた呻き声だけとなった。
「……やれやれ」
 楽しそうにユーリの戦いを眺めていたオーナーは、嘆くように首を振り自分の背後へと視線を投げた。
「せっかくの美しい戦いを…無粋だな。最後まで楽しませてくれないかね」
 オーナーの背後に控えていた男――カーズは、些か機嫌を損ねた声に顔を上げたものの、変わらぬ無表情で構えていた右手をだらりと下げる。
 と、ユーリの周囲で呻く護衛たちをふと眺め見た男は、軽く顔を顰めることで更に機嫌を損ねたことを露にした。
「無粋といえば、この声もそうだな。
 カーズ、静まらせておくれ」
「………」
 主の求めに一歩踏み出し、男は人形のように下げた腕を振り手首を返す。ひとつ、そしてまたひとつ。
 その都度、ちかりと手元で小さく光が反射する。
(何の針を…、まさか………!)
「…があっ、ああああ…!!」
 目を見開くユーリの目の前で、倒れ呻いていた護衛たちに擲たれた凶器が突き立つとほぼ同時に、針を受けた全員が例外なく引き攣れた絶叫と激しい痙攣をみせ――やがて不自然な姿勢のままガクリと動きを止めた。
「……て、…めぇ…」
(全員、殺しやがったのか…!)
 まるで成果を確認するように周囲を見渡したオーナーは、ふと通路の影でうずくまっていた男に気付いた。あの、ユーリが助けようとした男――。
 目の前で展開した光景は半ば正気を失っていた精神にも衝撃だった様子で、うずくまったままきょときょとと視線が落ち着きない。
「ああ、あなたでしたか。今回はご苦労様でしたね。
 よく私たちを呼びました。お手柄と申し上げましょう」
「う…ああ、ああ、助けて…早く……早く『薬』を…」
 オーナーに這い進みすがるようにして、うわごとのように夢中で薬、と呟き続ける男を目の当たりにしてユーリは絶望に瞑目した。
(そういうことだったのか…)
 求めていた助けは「そういう意味」だったのか…と。
「よろしいですとも。今日の働きに免じて、特製薬をあなたに差し上げましょう。これはよく効く薬ですからね…。
 いいですか、くれぐれも気をつけてお使いなさい」
 にこやかに微笑みつつ、懐から取り出した薬包を男の手に握らせる。それと同時に、残ったうちの一人に頷きを送り濁った瞳を輝かせた男を引き摺って行かせた。
言い聞かせた言葉が、あの男に何の効果もないことなどいうまでもない。おそらくもう、彼が正気で地上を歩くことは出来まい…。
「さて、これですっかり雑音はなくなりましたね」
 満足げに辺りを見渡した男に斬り付けるような視線を浴びせながら、ユーリは悔しさに歯軋りする。
(なんてドジ踏んじまったんだか…ざまぁねぇな)

「無粋ついでに警告する」
 と、乾ききった声がユーリの耳朶を打ったのはその時だった。
 誰の声か一瞬わからず、身動きできないままでユーリは耳を澄ました。
 コツ、と音を立て近付く靴が軽くユーリの顎を持ち上げる。見下ろす、暗く沈んだ…無機的な視線。
 初めて聞く声なのも道理だ。
 オーナー付きの護衛――カーズはユーリを見下ろしながら淡々と唇を開く。
「この男、騎士団との繋がりがあるはずだ」
「それは承知の上だよ。ユーリと団長代行とは幼馴染だろう?
 しかし、あの団長代行では私たちの痕跡は追えないと知っているじゃないか。そのうえ、ユーリ自身は騎士団と相容れない……追われるユーリをお前も見たのだろう?」
「繋がりはそれだけだと思うか」
 ユーリから視線を外し、オーナーへと向ける。その色はユーリに向けたのと同じく乾いて無機的なものだった。
 だが、続く声には微かな皮肉が滲んでいる。
 声だけではなく、この男の感情らしきものを感じられる瞬間というのは初対面時の一瞬を除いて初めてで、ユーリは浅い呼吸を繰り返しながら成り行きを見守る。その内容も、聞き逃すことの出来ぬものであったから。
「レイヴンのファミリーネームを知らないはずはなかろう」
「……日が浅いとはいえ、知らないわけではないよ。
 だが、私ももう随分長く彼のことは見ている。彼は噂の隊長首席とは別だと確信がある。でなければ、いくら彼が相手でも薬を渡すはずもない。
 それとも…別の繋がりがあるとでもいいたいのかね」
「この男と隊長首席の間はどうだ。この男が絡むことで、レイヴンの動きが変わる可能性だとかな」
 言葉遣いも態度も、雇い主に対するものではない。
 ユーリも人のことは言えないのだが、それでも常日頃見かけている護衛としての一歩引いた立ち方からすると、ひどい落差だ。むしろ、こちらの方がこの二人の本質的な立場を表しているのかもしれない。
 しばらく睨みあうように視線を合わせていた二人だったが、折れたのはオーナーが先だった。
「………その話は、本当なんだろうね」
「さあ、どうだろうな。ただの噂だ」
 頭上で肩を竦める気配がする。
 が、それを聞いたオーナーが黙って腕を組んだ。
(オレと『隊長』の間…? 一体どんな噂が流れてるってんだ…)
 目を閉じ考えに沈んでいたのは僅かな時間で、オーナーは溜息とともに組んでいた腕を解く。
「警戒するに越したことはなさそうだね」
 施設の主はさも残念そうに仕方ないと呟くものの、決断したとなれば行動は早かった。
「ここは放棄するしかないでしょう。
 必要なものだけを急いで水路へ運びなさい。中級以下のものは捨て置いて構いません。むしろ不要なものは処分を」
 ユーリを確保していた最後の護衛に指示を与えて走らせる。
 残ったのがオーナーと直属のカーズのみとなったところで、オーナーはユーリに歩み寄ると、片膝をついて黒髪をひと房取り自分の頬に当てた。
 その仕草だけでも総毛立つが、続いた言葉にユーリはゆっくりと血の気が引くような感覚を味わった――。

「ユーリ、残念ですがここであなたと遊ぶことは出来ないようです。
場所を変えましょう…もっと落ち着ける場所へ」

(…くそっ、……おっさん、すまねぇ……)
 身動き一つままならない身体を呪いつつ、ユーリは血を吐くような思いでレイヴンへの謝罪と自責の呟きを繰り返していた。
 ――何気なく後に残された剣鞘に、一縷の望みを託しながら…。





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