ザーフィアス市民街の路地裏に、看板もなく間口も狭いカウンター席程度しかない小さな酒場がある。
騎士団に入って間もない頃、路地に迷い込んだレイヴンはふとしたことでここを知った。
無口なマスターと店の雰囲気に馴染んだ客しか通えないというところが気に入り、なんとなく誰にも教えず今まで来ている。
人魔戦争から帰還後は特に。
稀にしか通えないとはいえ、城に居たくもなく、さりとて人の気配を感じながらも誰にも邪魔されず飲むには一番良い場所だったからだ。
隠れ家以外でユーリと接触するのにどこがいいかと考えてこの酒場を選んだのは、マスターの知らない客がいない以上、カジノの手先が潜り込める場所ではないという理由だったが…本当は、ユーリだけにはここを教えたかったのかもしれないな、とレイヴンはショットグラスを手にぼんやり考えていた。
カジノ潜入前にユーリを連れて訪れた時、空気を読むことに長けたユーリはすぐ店に馴染んだ。ユーリ自身もこの店を気に入ったようで、内密の打ち合わせが終わった後に必ずもう一杯をゆっくりと飲み干してから帰るのが習慣になり始めている。
会うのは大体二日に一回。カジノの終業後、慎重に裏道を複雑に遠回りしてやってくるものだから、顔をあわせるのはずいぶん遅い時間になる。
その頃になれば大抵客は自分たち二人しかいないし、一回などは、マスターが黙って何かを放って寄越したかと思えばそれが店の鍵だったこともあった。先に帰るからあとは好きにしろ、と。
(おかげで、しっかり話もできたんだけど…)
至近距離のユーリと二人きりというのは、酒の入った理性にとって少々危なっかしい話だったのが問題だ。
レイヴンは何気なく隣の空席をじっと見詰めた。
随分長い時間、独りで働き、独りで時を過ごしてきたものだから…心の底から信頼できる相手と組んで仕事をしている現在に、くすぐったさを覚える。
勿論、単独で動かなければならない場面は数限りなく発生する。それでも、背中を預けた相手がいるというのはそれだけで心強い。
全てをほぼ独りでやり遂せなければならないとなれば、手段など選んでいられない。時間の流れすら忘れたあの頃、どれだけ手を汚してきたかわからない。
だが…もうそれが常であった日々は遠ざかった。ユーリにそれをさせるつもりもなかった。あんなことは自分一人で十分だ。
そう思い、餌も手段も自分が表に出るようにしていたのだが。
「なんともまあ、何事にも計算外というのはあるもんだわな。
…それとも、青年だからこそ予想してなきゃ拙かった、か…」
本当に、あの歩くフェロモン散布人間には敵わない。
ともかく先方からの予期せぬアプローチに、ユーリを敵陣に乗り込ませる形になってしまったのは少々誤算だったが、サポートは色々考えて実行に移してきたつもりだ。
ルブランたちに「いつもどおり」ユーリを追わせるよう仕向けることで、ユーリと騎士団との立ち位置を誤認…いや認識させる機会を作ったのもそう。
万が一に備えて、入手した貴重な証拠品を知り合いの研究員へ分析依頼に回したのもそう。
保険のために、カジノ潜入前からそっと流してきた噂を煽ったのもそう。
その噂は、どこまで行ってもゴシップ以外の何物でもないものだったが――レイヴン個人の視点からすればそれは途端に色を変えるものでもあった。
「…叶わぬ恋に苦悩するシュヴァーン・オルトレイン、ね…。はっ、よく言うわ」
自嘲の色濃い呟きは、低くわだかまってグラスの酒に溶ける。
その手の他愛のない噂話は昔から数多くあった。それこそ、隊長首席として名前が一人歩きし始めた頃からずっとだ。
しかしまさか、自らの手でそんな噂を広める日が来るとは思わず……そして、それが真実と薄紙一枚程度しか隔たりのないものとなるといっそ馬鹿馬鹿しいほどに滑稽だ。
自分の用意した餌に信憑性を高めるため、と思って行動を起こした。
それは実際その通りだったのだが、別の意味もあったのではないかと嘲笑う自分が確かにいる。
『死んだ人間』に何が恋の噂か。確かな効果があると本当に思っているわけではあるまい。そうすることで、封じたはずの自分の想いを何らかの形にしたかったのではないか、と…。
「…そんなことしても、なーんにもならないってのにね…」
カウンターに肘を突き、意味もなくグラスの酒を波立たせてレイヴンはまた溜息を漏らした。
それにしても――。
「遅いな……」
レイヴンはグラスの中身を空け、壁にかかった時計に目をやる。今日のカジノは早仕舞いのはずだ。
ふと、ユーリと交わした先日の会話を思い出す。
『これ以上の情報は…もうちょい踏み込んでみねぇとわかんねぇ、か』
『ん〜〜、踏み込むにも情報が足りないわよねぇ』
『面倒くさい悪循環だな。アプローチを変えてみるかな…って、んな顔すんなよ。慎重に、だろ』
耳にタコができるっつーの、と記憶の中で笑ったユーリに向かって、自分がなんと言ったかあまり覚えていない。
今はその笑顔が、レイヴンに不穏な胸騒ぎを呼び起こした。
(ユーリは、自分一人なら余程のことがなけりゃどうにでも切り抜けられるヤツだ。
でももし………個人に狙いを向けられて、青年がその意図に気付くのが遅れたら…?)
武醒魔導器を失った今でも…いや、だからこそか、ユーリの強さは相当に目立つ。
魔導器に頼り切って生きてきた人間は、概してその依存から抜け出せていない部分がまだ大きい。
が、ユーリは少し違う。
魔導器に馴染んだ戦い方をしていたのは他の人間と変わらないが、魔導器を失うと知れる前からいくつもの術技を身体にすっかり馴染むまで繰り返し修練していたことをレイヴンは知っていた。
その地道な努力が今に生きているのだろう。
術技の一部を今でも自在に使うユーリの強さは、いまや他の剣士と比較にならないほど突出していた。
ただ――その分、以前より気持ちに隙が出来てしまうのではないかとレイヴンは気が気でならない。無論、おいそれと隙を作るユーリではないし、そのような隙を自分に許す男ではない。
しかし、予期せぬ出来事に対して心持ち耐性が乏しいような気がしてならないのだ。
命の危険に対してはともかく、例えば…自分が現在進行形で性的対象として認識されている危険性だとか。
――どうも、嫌な予感がする。
レイヴンはガルドをカウンターに放ると、予め決めてあった合図をマスターへ送り急いで店の外へ飛び出した。
「…………早まらないでくれよ、大将」
裏路地をひた走り、息せき切ってカジノへと駆けつける。
煤色の扉に手をかけノブを捻ると簡単に開いた手ごたえのなさに、レイヴンの背を冷たいものが流れた。
「……っ、まさか?!」
あれほど口にしていた慎重さをかなぐり捨て、それでも足音を殺しながら階段を下りる。
見慣れたフロアに人影はない。
きぃ…と金具が軋む音にはっとして目をやれば、奥へと通じる扉が薄く開いていた。
直感的に誰もいないことを知りながらも、扉の前で気配を探ったのは習い性。
ひとつひとつ進むにつれ、胸の奥に渦を巻く黒い予感が一気に形になる。
頭に叩き込んだ見取り図に従い、腰の短剣に手をかけたまま廊下を駆け抜け――ユーリと共に指摘した、疑わしい箇所で足を止めた。
罠かと疑う余裕もなく、ぽっかりと開いたままの地下への隠し扉へと飛び込む。
下るにつれ濃くなる嫌な空気に、レイヴンは顔色を失っていく。
阿片の不自然な甘ったるさに紛れた、生臭いような錆びたような…いやに嗅ぎ慣れた昏い臭い。
「……こいつ、は…!」
階段を下り切ったレイヴンの目前――等間隔に設置されたランプが照らしていたのは、人の手によって意図的に生み出された地獄絵図だった。
通路のあちこちに転々と倒れ伏した遺体。
開いた扉の奥にいるのは、血溜りの中で事切れた裸体か明らかに正気を失った薬物中毒者のみ…。
「…ユーリ、ユーリどこだ!」
血臭立ち込める迷路のように折れ曲がった廊下を駆け回り、部屋の一つ一つを確認して回る時間のなんと遅々として進まぬことか。
心臓魔導器の無音の拍動が、いつも以上にやけに冷たく遠く感じられてならない。
幾つめかわからぬ角を曲がったところで何かに躓きかけ、舌打ちと共にふとそちらにやったレイヴンの視線が凍りついた。
不自然な姿勢の遺体の中で、埋もれるようにして転がるもの。
「あの、鞘は…!」
息を呑み駆け寄って拾い上げる。握り締め、強く瞼を閉じた。
一見ありふれたただの鞘だが見間違えるはずもない。鞘に巻かれた長い下げ紐もさることながら、この鞘に、自分が隠しの仕掛けを施したのだから。証拠品を手に入れた際、肌身につけておくよりこういう場所に隠しておいたほうが良かろうと話をして――。
だから、ユーリがこれを捨て置くはずがない。間違いなく何かあったのだ。
ガンガン鳴る頭を振り更に探索を続けるが、レイヴンが見つけた目新しいものといえば空になった木箱がいくつかと……最奥部に流れる地下水路。積もった埃を蹴り散らした無数の足跡。
そして――。
「く……っ!!」
水路傍で挑発するように突き立てられたユーリの剣を発見して、ユーリに何が起こったかをレイヴンは知った。
「まんまとやられた……、ユーリ……!!」
レイヴンは拳を石壁に叩きつけ、暗い水路の先を細めた氷の瞳で睨みつける。荒れ狂う激情を秘めた低い唸り声が、食いしばった歯の隙間から漏れた。
幾度かの呼吸の後、見るものを凍りつかせるほどの鬼気迫る背中が決然と真っ直ぐに伸びる。
ユーリの剣を抜き地を蹴るように踵を返したレイヴンの後ろで、底の見えない水面が嘲笑うかのように――ただ一度とぷりと揺れて闇の中で波紋を広げていった。