その日、夕暮れ近い帝都の上空を大きな影がゆっくり横切った。
 手持ち無沙汰になんとなく見送る哨戒兵の視線の先、マイオキア平原を南へ少し行き過ぎて影の高度が低くなる。
 一度は地平に消えた影はまた浮上して、低く声を上げ…やがて悠然と姿を消した。

「……アレ、一度は乗ってみたいもんだよな」
「どこかのギルドの専有なんだろ? 依頼出したら、乗せてくれるんじゃないか?」
「さあ、どうだろうな」

 結界魔導器がなくなった後、魔物に対抗するための哨戒は騎士団の欠かせない勤めとなっている。
 が、見張っているだけというのはやはり暇をもてあますのだろう、門の内から油断なく視線を配りながら騎士達はのんびりと噂を織り交ぜた世間話を続けていた。

「いずれにしても、そんな暇はないんじゃないか?
 例の評議員の不審死、調査中で人手が足りないって聞いたぞ。そのうちアチコチから駆り出されるって噂だぜ」
「ああ…あれな。踏み込んだけど空だったってアレだろ。
 こんなに後手に回ってたら、マズくないか。噂じゃヤバイ薬も出回ってるそうじゃないか、大丈夫なのか?」
「閣下なら、なんとかなさるんじゃないか?
 なんといっても、あのフレン閣下だからなっ」
「これだから、団長シンパは…」

 仲間に呆れる騎士の一人が、横を通り過ぎようとした影にふと目をやった。釣られるように同僚達もそちらに視線を向ける。
 視線の先には、下町から上ってきた艶麗な肢体のクリティア美女。
 明るい紫の瞳を細め、騎士たちにちらりと流し目を送ると腰が砕けるような微笑みを浮かべて去っていく。
 どこか呆然とそれを見送った騎士たちは、我に帰ると慌てて警護と哨戒の任務に戻っていった。

「――閣下なら、なんとか…ですって。
 本当になんとかしてくれると、いいのだけど……」

 彼女がつややかな唇に乗せた呟きは、雑踏に紛れて誰の耳にも届かない。
 城に付随する高層地の貴族街を剣呑に目を細めて眺めやると、彼女は赤い唇を小さく引き絞った。
「………無事に戻ったら、覚悟してらっしゃい。ただでは済まさないわ」
 物騒な内容に比して、その響きはどこか痛ましげであり祈りのような切なさすら含んで――ひとつ息を吐くと、彼女は真っ直ぐと歩を進めた。
 眼前にそびえる、帝城へと向かって――。



  ****



 副官や部下達に指示を出して人払いをした後、何食わぬ顔をして執務室を出たフレンは急ぎ足で内密の打ち合わせへと向かっていた。
 ユーリが消息を絶ってもう四日になる。
 身を案じる気持ちと、自分がユーリに助けを求めなければこんなことにならなかったのだろうか…という後悔から、遅々として進まぬ捜索に焦りを感じてどうしようもなくなる。
 もちろん、焦りだけで事態は進展しない。
 こんな時こそ冷静に…と何度も言い聞かせはするが、繰り返す徒労と落胆からくるダメージは、確実に心身を蝕んでいた。
 廊下に響く靴音は重く低く、纏った鎧は打ち捨てたくなるほど肩にずしりと圧し掛かっていく。
 こんなことではいけないと思いながら、どうすることもできない現実がやりきれなく口惜しくてたまらなかった。

 フレンは人目を避け、迷路のように入り組んだ通路を一人歩く。
 巡回警備の合間を縫って進むため、誰の目に留まることもない。タイミングさえわかっていれば、まるで姿を消したように容易く城内を進むことが出来る。
 騎士団に長く在籍していた「彼」から教えられなければ、気付きもしなかった時間差の死角だ。
 こんなことだけでも、知識として知ってることと実際に活用するための知恵とは大きな隔たりがあるのだと痛感させられる。
 人魔戦争で激減してしまった人材は、先の混乱でさらに質が落ちている。
 騎士団が失ったのは人材だけではなく、それに伴う経験や知恵もだ。先達から受け継げるはずだった多くのものは、引き継ぐ間もなく失われて久しい。
 人材はこれから育てることもできるだろうが、二度に渡って失った無形の財産を取り戻すことはできない。
(あの人が戻ってくれれば、どれほど心強いことだろう……)
 正確には今も「彼」の籍はある。出来れば戻って欲しいと懇願してみたが、死人に戻るも何もないだろうと笑顔で言い捨てられて終わりだ。
 あの少々脱力したような笑顔と飄々とした物言いに誤魔化されそうになるが、話題の追求を許す隙など微塵もなかった。全くその気はないということだ。
 むしろ、あの姿としてでも手助けを得られるというのは、まだ幸運なのかもしれない。それもこれも、ユーリの存在があればこそだろうが。
(……ユーリ、どうか無事で…)
 祈るような切望と共に、俯き唇を噛み締める。
 と、唐突な人の気配にはっと顔を上げた。

 薄闇の中、静かに扉を閉めこちらへ向いたシルエットには見覚えがある。
 均整の取れた滑らかな肢体と、それを包む軽鎧。クリティア族の特徴である触角と結い上げた髪の均衡が印象的な姿は、今日の夕方、副帝閣下へ個人的面会の許しを求めたその人に間違いない。
 こんなところで遭遇するとは……いや、もしかすると本命はこちらだったのか。
 首を傾げて此方を眺めた彼女は、ほの淡く微笑んだだけで通り過ぎようとして――

「おじさまをお願い」

 真横で足を止め囁くように落とされた声に、フレンは瞬いて困惑の色を瞳に乗せた。
「それはどういう……」
「とても危ういの。彼を助ける前にあの人がどうかなってしまったら――」
 そこまで呟いて、クリティア女性はそっと息を吐いた。
 それはまるで、飲み込んだ言葉の代わりのように…。

「……気を付けよう」

 フレンには、そう答えるしかない。
 ユーリについてならまだしも「彼」の、しかも「彼ら」にしか気付けない程度の徴候を自分が感じられる自信などない。だが、今の彼に何かあるのは致命的だ。
 彼女もフレンの答えに安心したわけでもなかろう。
 それでも、頷き小さく微笑むと、振り向きもせず自分が今来た道へ姿を消していく。
 迷いを見せない後ろ姿に信頼と決意のようなものを感じ、ユーリは良い仲間を得たと彼らの存在に改めて感謝を覚えた。と同時に、迷いと焦りだらけの我が身を省みて息を吐き出す。
 顎を引くと小さく扉をノックして、返事を待たずに部屋へ滑り込む。
 遠い灯りがかろうじて照らしていた廊下より深い闇にためらい、目をこらして気配を探る。
「よっ、忙しいのに悪いね」
 飄々と人を食った響きは変わらず、ただ…部屋の奥、聞こえる声の位置にフレンは戸惑った。物理的に妙に低い。
「いえ、こちらこそ…。
 すっかり暗くなっていますよ。ランプはどこに」
「あー、そういや用意するのすっかり忘れてたねぇ。この部屋にないのよ、悪いわね」
「…カーテンを開けても?」
「どーぞ?」

 細く漏れる月明かりを頼りにカーテンを探り当て、静かに引き開ける。
 暗闇に慣れた目は少しの明かりにも眩み、フレンは片手で軽く目を覆った。
 明るさに慣れた頃、振り返ろうとして思わぬ至近距離でうずくまる影にギクリと動きを止める。
 壁際…隣の窓下で胡坐をかき、目の前の椅子を無視するように背を丸くして座り込んだ紫の羽織――。
「すっかり日が暮れちまってたんだねぇ。
 カーテン閉めっぱなしだったから、全然気付かなかったわ」
「…そうですね」
 のんびりした響きに違和感を覚えるほど頑なな空気を漂わせる背中に、どう声をかけたものかとためらっていると、ぼさぼさの髪が壁を撫でて小さくカサリと音を立てた。

「さて――そっちは新しい情報、ある?」

 俯いた顔を上げ、壁に頭を凭れさせたレイヴンが目を閉じたままで切り出す。
 会合を持ったのは二日前…だというのに、目新しい情報は特にない。
「ま、しょーがないわよねぇ。
 生き残ってたっていう、護衛だっけ。あっちからは?」
「ユーリと刃を交えた事実の確認と、カジノオーナーが首謀者である以外の確証は取れませんでした」
「予想通り、小物だったってことね」
 大して期待はしていなかったけど、とレイヴンはあっさり言い捨てる。

 ユーリの鞘を発見した死体の山の中、ただ一人生き残っていた男がいた。
 どうもユーリの当身で完全に気を失っていたとかで、その場で尋問を開始しようとしたところ周囲の死体を目の当たりにして軽い錯乱に陥りかけたくらい状況をまるで把握しておらず、どうして仲間たちが死んでいたのかすら知らない有様だった。
「カジノに残ってたのは、全員シロだし……愛人の尋問はどーなの?」
「深くまでは知らされていない…と。
 むしろ、自分は本当の愛人ではなくカモフラージュだと言い出して――」
「もしかして、ずっと傍にいた護衛がオーナーの本命?」
 言いよどんだ一瞬に続く言葉をレイヴンに攫われ、フレンは軽く目を開いた。
「どうしてそれを…」
「もしかしてって思っただけよ。でもやっぱりそうなの、ね」
 瞳を一度も開くことなく再び俯いたレイヴンが、深く息を吐く。
 がりがりと耳の後ろを掻いて、鋭く舌を打った。
「…まいったわねぇ……、そういうこと」

 いつよりも低い声は苦く重く、この男がフレンが考えていたよりもずっと、今の状況に責任を感じているのだと悟らされる。
「こっちの状況も、相変わらずってトコ。
 ただ、中和剤のほうはなんとかなりそうかも」
「本当ですか…!」
「まあ、そんなものでイッちゃった連中が正気に戻るわけはないんだけどね」
 それでも、ただひとつでも進展が見られただけ今までよりはずっとマシだ。
「ありがとうございます」
「俺様に礼を言うのは筋違い。礼なら……青年に言ってやってよ。あの花びらで、原料特定できたんだからさ」

 ユーリの鞘に残されていた証拠品のひとつ――干からびた花びらを植物学の専門家に見せたところ、それがビリバリハの、しかも花が開ききってしまう前の若い花びらだと知れた。
 件の植物の麻痺効果は主にその花粉にある。となれば花の蕾から花粉を採取して加工しているのではないかと容易に推察も出来る。
 ある程度原料の絞込みができて薬の現物があるなら、そこから中和剤を作り出すのは随分楽な作業になる。時間さえあればいい。
 数日中には完成品が仕上がるだろうと連絡が届いたのは、昼のことらしい。
 気の付かない人間なら見過ごしていただろうそれを、きちんと回収していたユーリの勘の良さは相変わらずだが、そんなことより本人の身の上に降りかかる災厄に対しての勘働きが欲しかったと思うのは……ただの我が侭と甲斐もない愚痴だ。

「今はそっちにかかりっきりになってる余裕ないから人に任せたけど、イイでしょ?」
「ええ。…彼女ですか」
「まあね。信頼できるから大丈夫よ」
「その心配はしていません。彼女も――あなたと同じユーリの仲間ですから」
「…………」
 同じ、ね――
 レイヴンが漏らしたその呟きは、フレンの耳には届かなかった。
 ただ……、

「明日からちょいと違う方面を突付いてみるけど、後日の報告で構わんね」
「お任せします。いえ…どうか、よろしくお願いします」
「はいはい。お任せされますよ〜」

 立ち上がろうと膝を突いたレイヴンへ、フレンは反射的に片手を差し出した。
 あらー悪いわね〜、と軽い口調でその手を握り身を起こした男の瞳を覗き込んで――フレンは短く息を呑む。
「んじゃ、コッチはよろしくね〜」
 へらっと笑い足音もなく部屋を出て行く背中が視界から消えて、フレンはようやく肩から力を抜く。
 声の響きにすっかりだまされていた。
 月明かりに照らされた笑顔は前と同じようでいて、本質がまるで違う。

 凍り付いたような、あの瞳――

 昏い深遠を覗き込んだように、底のない翡翠にぞくりと寒気を覚える。
「…あれは、もしかして……」
 ユーリから僅かに漏れ聞いた『道具』のシュヴァーンの気配だったのか?
 べっとりと掌に滲んだ汗を見つめ、フレンは誰もいない部屋の中でゆっくり首を振った。
「ユーリ…、ユーリ、どうか無事で………」

 きみがいないと――色々なものが壊れていきそうで、それがこんなにも恐ろしいなんて……。





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