貴族街の中にも、寂れた場所や人通りの絶えた路地はいくらでもある。
 特に、星喰みの一件で貴族の中でも様々な形の淘汰がなされた。流れに乗じて勢力を伸ばした家もあれば、没落した家もあり、それはそれぞれの屋敷を眺めればある程度の推測も可能だ。
 が、今はそのようなことをしている場合ではない。
「たしか……このあたり、っと」
 気配を断ちながら裏道獣道を進み、目的の屋敷傍で物陰に隠れた。
 視線の先……路地の奥の屋敷は、さる評議会員の別宅だという。元々この一帯はそれなりに人の住まう地域だったらしいのだが、先の騒動の際、資産の処分や住み替えなどで空き家になった屋敷がたまたま固まっており、空白地帯の様相を呈している。
 これでは、怪しい人間の出入りがあったり多少の騒ぎがあったところで周囲に知られるはずもない。

「こういうトコ見つけるのって、独特の嗅覚よねぇ……。
 ま、あーんまり人のこと言えないって自覚あるけどぉ?」
 ぼそぼそ呟く真下でまた鋭く鼻を鳴らされ、レイヴンは慌てて口を手で塞いだ。
「おっとと。はいはいっ、無駄話はいらないってね。
 騎士団の方もそろそろかね……じゃあ、打ち合わせ通りに。頼んだわよ〜」
 ぽん、と背を叩けば、ラピードは小さな唸り声を漏らし滑るように潜んでいる影を抜けた。
 同時に、レイヴンも今の場所からするすると位置を移動する。

 尾を立て悠然とした歩みで近寄る影に気付いたのは、裏口を見張るうちの一人だった。
「ん? 犬……?」
 視線が堂々とした姿に釘付けになった瞬間、男の動きが止まる。
「おい、どうした」
 よろめいた相棒の肩を掴んだもう一人の護衛が、力なく後ろに倒れ込む顔を覗き込んで目を剥いた。
「な………?!」
 額に突き立った矢に、驚きの声をあげようと口を開き――声をあげるより先、前のめりにその場へ倒れ伏す。

 静まり返った一瞬の後、近くの茂みから滲むように姿を見せたレイヴンは、倒れた男たちそれぞれから額と首の後ろに刺さった矢を抜き取ると、ラピードへ頷き無言のまま裏口の扉を開いた。
 ラピードも待ちかねたように開ききる前の隙間から音もなく飛び込み、しなやかな四肢にピンと緊張を漲らせる。
 軽く跳ねるようにして器用に鞘から短剣を浮かせ、鋭い歯でがっちり噛み込む。隻眼を細めると、気配を探るように鼻をひくつかせ――地を蹴った。
 乾いた軽やかな足音が通路を駆け抜け、気配を殺した影がその少し後を追う。
 先陣を行く百戦錬磨の切り込み隊長は、背後からの低い声に従い右へ折れ、左へ飛び込みと見事な暴れっぷりだ。
 侵入者と出会い頭に遭遇する護衛たちも、低い位置からの自在な斬り上げと死角から射掛けられる矢の連携に翻弄され放題だった。
 声をあげる前に片端から倒されては、警告を知らせる隙もない。
 情報不足から混乱に陥りつつある屋敷を駆けていたレイヴンの足が、ふ、と止まる。
「……ええと、確かこの辺って聞いたけど、ね、っと」
 素早く扉を数えひとつに張り付く。気配を探り、開けるなり室内に滑り込んだ。
 薄暗いその中には、どこかで見た覚えのある木箱が積まれており、レイヴンは蓋をひとつこじ開ける。
「……あったりぃ〜」
 低い口笛と抑揚の乏しい声が、薄闇の中で霞のように散った。
 この時、レイヴンの脳裏を占めたのはある懸念だ。それは明確な根拠のあるものではなかったが、経験則から言って……そして尋問した男の口ぶりからして、まず間違いはないだろう予感だった。
(コレ、すぐに使うことになりそう……ね)
 手を伸ばし包みをひとつ取り出す。厳しい顔で懐にしまい込むと、ほんの一瞬、痛みを堪える面持ちで唇を噛み――視線を上げた。
「よし。わんこ、合図よろしく!」
 廊下で警戒姿勢を取っていたラピードは、首を返すようにして短剣を鞘に収めると鼻先をつい、と空へ向ける。
 駆け寄りそばの窓を開けたレイヴンが入れ替わるように警戒態勢に入るや、ラピードの前脚にくっと力が籠る。毅然と頭をもたげ、しなやかな背が弓弦のようにピンと張り伸ばされた。


 ――ウォウーーー、ウォンウォン…!
   ウォウオゥーーーー……!!


 鋭く長く、尾を引くような遠吠えが周囲を圧倒した。
 ただの犬の遠吠えではない。
 ザーフィアスに居る同胞たちの頂点に立つ存在からの呼びかけを、無視できるものなどいなかった。
 まるで呼応するように、ここを中心にして野良、飼い犬問わずの遠吠えが遠く近く生まれては伝播していく。
 ラピードの声に反応してこちらへ向かいかけていた多数の気配も、屋敷を取り巻く複数の遠吠えにかく乱されたか、足並みが乱れた様子だ。
 そして……


「我々は帝国騎士団だ!
 この屋敷は完全に包囲した!
 中に居るものは無駄な抵抗をやめ、速やかに投降するように……!」


 ついに待ちかねていた声が、屋敷を完全に混乱に陥れた。
 凛とした響きが一瞬の静寂を生み、その直後には悲鳴と怒号、無数の剣戟の音が敷地全体に拡大していく。
 いたるところで展開される乱戦の気配に、レイヴンはようやく僅かながら肩の力を緩めた。

「特に言わなかったけど、合図を間違えなかったみたいね。
 さっすが、わんこと付き合い長いだけあるわ」
 碧の隻眼と視線が合えば、また鼻を鳴らされる。
「言うまでもないことをって?
 はいはい、おっさんが悪うございます……っと!」
 角を曲がって現れたチンピラの口が、叫びの形で固まり事切れる。
 矢を放ったままのレイヴンの足元から稲妻のようにラピードが飛び出し、後続の胸元へ飛び掛る。いつの間にか、既に銜え直していた短剣が翻ると、利き腕の腱を切られた男が一人悶絶して倒れこんだ。
「ぎゃあ……!」
「誰だ! おい、こっちにもいるぞ!」
「……ありゃ、気付かれちゃったわよ」
 声と共に、通路の向こうからいくつもの足音が迫る。
 一瞬ラピードが角の向こうを睨むが、何を思ったかふいとこちらへ頭をめぐらした。そのまま、しっかりした足取りでレイヴンの横を通り過ぎ、足を止めるなり此方を見上げてゆらゆら尻尾の先を揺らしてみせる。
 その仕草が今ここに居ない青年の姿をダブらせて、レイヴンは思わず苦笑した。
「なによう、……おっさんがなんとかしろって?」
 返答はあくびがひとつ。
 本当に全く、男前にもほどがある。
 そうこうしている間にも、足音はどんどん迫っていた。もうすぐ現れるだろう地点に視線を向け、レイヴンはラピードに軽く手を振った。
「わんこ、先行ってて」
 声をかけつつ、懐から黒い袋を取り出す。
 まるでタイミングを合せるように現れた護衛たちにそれを投げつけながら、素早く矢を射掛けた。
 ぷつ、と袋が破れ、走り寄ろうとした男たちの上へ中身がまともに降り注けば、途端に一団の足が止まる。
 激しく咳き込むものもいれば、悲鳴を上げて目を覆う男もいた。いずれにしても戦闘どころではない。
「唐辛子と胡椒のブレンド、たーんと召し上がれってね」
 もがく集団へからかう声を投げつつ、レイヴンはまた奥を目指す。
 外からの強襲に合せ、用意した目潰しや爆竹で内部からのかく乱も続けながら、奥へ……そして奥へ。

 開きっ放しの隠し通路へ飛び込み、廊下の突き当たりに重い扉を見つけたのは、騎士団の突入からほどなくしてだった。





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