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「そこかい、青年は」
唐突な呼びかけに、扉のノブを握ろうとした男たちの手が止まる。
彼らがその前に立つ鉄格子付きの見るからにきな臭い扉に、レイヴンの眉が不快気に寄った。
ユーリがどんな扱いを受けているかを考えると、憤りと苛立ちとが理性の箍を砕かんばかりに暴れまわろうとする。それを必死で制御しながら、レイヴンは元凶の二人――カジノの元オーナーと護衛の青年を睨み付ける。
「レイヴン、この騒ぎの元はあなたですか」
悔しげに顔を歪めたオーナーに対して、護衛のカーズはいつもと変わらぬ様子でレイヴンに視線を投げて……
(いや、いつもと違う……?)
怒りに冷えた思考が乏しい記憶を素早く引きずり出そうとした時、掠れた声が緊張を孕んだ空間に一瞬の空虚をもたらした。
「……シュヴァーン」
ぽつりと落ちた声は、水面に一滴の水が落ちるかのようであり、その落ちた先から溢れたものは許容量一杯のカップから零れる狂気に似た何かだった。
目をきつく瞠った男は、隣に立つ護衛の腕を掴む。
「シュヴァーン? シュヴァーンだって?!
まさか、弟ではなく本人だとでも……?!」
「別人よ、別人」
わずらわしげに腕を振り解かれフラリと男の手が落ちる。レイヴン本人の声は耳に届かないのだろう、そちらは見向きもしないまま自らの掌に視線を落とし……やがて肩が小刻みに揺れ始めた。
「は、はは……ははははは!! これは傑作だ!
私は、まんまとしてやられていたわけですか!」
「だから違うって言ってんのに…ホンット、人の話を聞かないねぇ」
苦々しげにぼやくレイヴンだが、足元のラピード共々警戒の手は緩めない。護衛の――カーズの視線がまだこちらに向いたままであればなおさらだ。
「ったく……いつまで笑ってんのか知らないけど、とっととそこ、どいてくんないかね」
斬りつける様に鋭く強い声音を投げれば、ようやく笑いが止む。
「……さあ、どうしましょうか。
わたしも、せっかくここまで囲ったものを、今更手放す気にもなれませんし」
「へえ……囲った、ね。……手に入れてはないんだ?」
たっぷりの皮肉を込めてせせら笑えば、オーナーの唇が歪んだ。
「確かにまだ、完全には……ですがもう間もなくでしょう。
本当に手間がかかりますが、それだけの価値はある」
自らの発言に気を取り直したか、問われてもいない様々がオーナーの口から溢れる。
「彼については……名前だけは以前から知っていましてね、興味はあったのですが、実際目にするまであれほどまでの美しさだとは思いませんでした。
軽やかで躍動感溢れる戦いぶりと、目を思わず奪われるあの艶めいた所作、誇り高く美しく強く……ああいう存在が壊れゆく折の絶望もまたどれだけ美しかろう、と」
目を細めおそらくユーリの姿に思いを馳せる横顔に、レイヴンは不快感を抑えられない。
自己陶酔もほどほどにして欲しいものだ。何事もなくとも煩わしいものを、まして、今この一分一秒を争う時に。
(ま、少なくとも……生きてるのは確かみたいね。問題は……)
今ユーリがどうなっているか、だ。
「そう思って手の中に堕として傍で飼おうと思ったのですが、……話に聞く以上の強情さでした。
あそこまで行って壊れないというのも見上げたものです。ますます欲しくなりまし――」
「ユーリに、なにをした」
調子よくペラペラと垂れ流されていた雑音をさえぎり、他を圧倒する低く硬い声音が地を這う。
首の裏がチリチリとそそけ立つような気迫に、戦闘については素人のオーナーですら気付かずには済まされなかった。
カチと瞬間鳴った奥歯を悔しさにかぐっと噛み、ゆっくりカーズの後ろへと下がる。虚勢を張りはするが、浮いた顎といい不自然にかいた汗といい……それが怖れに由来するものであることははっきり見て取れる。
一歩引いたオーナーに対して、レイヴンは二歩三歩とゆっくり詰め寄る。
半開きの扉がレイヴンの動きに合せてゆっくり閉まり、足元からは威嚇の唸り声が続いていた。
「何を、かは、自分の目で確かめられると良いでしょう。確かめられるものならば、ね」
浮き足立った響きを撒き散らしながら、男は護衛のほぼ真後ろへと下がりつつ合図を送る。
合図に従ってカーズがゆっくり鞘から剣を抜くのを眺めながら、そこで多少の余裕を取り戻した笑みを浮かべ――
「―――?!」
「………な、にを……」
身構えたレイヴンの眼前でこふりと咳き込んだ男の唇から溢れたのは、泡混じりの赤いものだった。
視線はレイヴンに据えたまま、カーズが抜いた剣の先は後ろ様に自身の腹の横を通り――真っ直ぐオーナーの腹へと深々突き通っている。
捻りながら刀身を引けば、更に開いた傷口から朱を吹き出しながらもうあとは崩れ落ちるままで。
目の前の裾を掴もうとした手からも力は抜け、自らに起こった出来事の理由もわからず疑問を蒼顔に塗りこめたままオーナーから生の気配が消えた。
「……一体、どうして」
油断は見せないながら半ば呆然としたレイヴンの呟きをかき消すように、護衛の口から低く哂い声が漏れた。
「ふ、ふふ………くく、はははは……はは、あははははは……!!」
「………?!」
レイヴンにしてもここにきて初めて見る、この青年の爆発的なまでの感情の発露だった。
一体何事かと、そして背後の扉への隙は常に窺いながら、レイヴンはカーズと呼ばれる青年の様子を慎重に観察し続けた。
低く始まった声は、やがて声量を増し甲高く狂ったように続く。
手の中の血に染まった剣を見てはまた肩を震わせ、ひとしきり哂い、咽び笑い続けた後にぴたりと声が途絶えた。
「ヤツも、壊れてしまえばよかったのに……」
この言葉が誰を指すかは、何の示唆がなくとも明白だろう。
レイヴンはギリと奥歯を噛み、短く息を吐く。
「ユーリのことかい。
あのあんちゃんは、そんなにヤワじゃないよ。見くびらないでもらいたいね」
「ヤツが何をされたか、わかっていてもそんなことを言えるか?」
「なに、ねぇ……。まあ、だーいたいの見当は付くけどぉ?」
お決まりの、薬と無理やりのエロっちいことでしょ?
吐き捨てるように言い放てば、昨日の天気を思い出すような淡々とした声音が返る。
「毎日、決まった時間にな。他のヤツでも出来る薬はともかく、色事については一人で付き合わされるこっちが迷惑だった。
とはいえ、悪い味ではなかった……いやむしろ、楽しんだと言えばそうだがな?」
揶揄する響きに喉の奥が詰まる。弓を握る手が白くなるほどに力が加わる。
何に対してより、ユーリへの侮辱とも取れる響きが許せない。
剣呑に目を眇めたレイヴンに構わぬ様子で、カーズは顎を上げて哂った。
「あれだけのことが続いて理性が残っているか、知れたものじゃない。
それでも、未だ――ああして抗えるというのも、相当なものだと思うが」
レイヴンへ向いていた視線が、その一瞬だけ背後へと向かう。隙といえるほどのものではないが、瞬間意識を向けざるを得ないだけの何かをユーリが示しているということか。
その点にレイヴンの希望が強まる。ユーリはまだ壊れてもいないし、ユーリであることを諦めてはいないのだ。
それにしても……到底、許せることではない。
「……聞いてるだけで反吐が出る話だな」
押し殺した搾り出すような声は、怒りに染まっていた。
しかし、もうひとつだけ確認することがある。
対峙する相手の動きに合わせ、ゆっくり弓を構えながらレイヴンは最後の台詞を吐く。
「一人でって話だったけど、オーナーは手を出してないの」
「ヤツは、ぶっ壊れたのをヤるのが好きという正真正銘の狂人さ。
――おれにしたようにな」
鼻を鳴らした青年の言葉から、レイヴンには見えるものがあった。
(なるほど、そういうこと……)
だからといってそれがレイヴンの心を動かすことはない。憐憫ではなく、ただ蔑みの笑みが滲むだけだ。
そして――自分が消すべき相手は、この男を残すのみであるとも把握する。
ユーリが具体的にどんな屈辱を受けたか知る人間など、この世に存在するべきではない。
「自分がそうなったから、ユーリもそうなればよかったって?
はっ……! 生憎だが、さっきも言ったようにあの青年はそんなにヤワじゃないんだ。
そんな話はどうでもいい、さっさとそこを開けろ。
ユーリを――返してもらう」
刃より鋭く言い捨てて、レイヴンは矢を放つ。
予測していただろうそれに、カーズは身を翻して避けると、これみよがしに胸元を開き小さな鍵を晒して見せた。
「鍵はここだ。
おれを殺せば、手に入るぞ。ほら……!」
狂気にも似た笑みを浮かべながら、既に濡れた細身の刃を翻して全身で突っ込んでくる。
その瞬間、閉鎖された空間での死闘が幕を開けた――