そこで目にしたのは、信じたくない光景だった。
暗色のいつもの服ではなく、薄汚れた白いシャツ一枚を羽織らされただけの痩せ細った身体。
足は鎖に繋がれ、手は天井から下がった手枷に拘束されたユーリ……誰よりもしなやかに地を蹴り、疾走り剣を振るう、その彼がなんということか。
目を凝らせば、手足の枷は共に直接肌に触れぬよう、保護材をかませてなるべく目立つ傷を残さぬように気を付けられてはいる。
だが、その理由も大層利己的なところからのものだろうことは、考えずとも見当が付く。
地上最強の黒獅子、とまで呼ばれたユーリがこのような仕打ちを……どれだけ不本意なことだろう。
(……もっと、思い切りぶった斬っておくのだったな)
やりきれなく短く息を吐けば、人の気配を感じたか…ユーリの肩がびくりと震える。
ユーリの意識を確認してレイヴンの顔色がほんのり生気を帯び、
「……っ、ユ……、青年? おっさんがわか、―――?!」
駆け寄ろうとしたレイヴンの足が思わず止まった。
――ウ……、ウウゥゥ……
聞こえたのは、低い威嚇の唸り声。
一瞬、ラピードかと疑って…しかし、本当はわかっているのだ。
その声が、ユーリの荒れた唇から出ていることは。
「青年……」
自分を見分けることもなく、全身で拒絶と敵愾心をむき出しにして唸り続けるユーリ。
顔を覆うように下りた髪の隙間から覗く尖るようなその目は、その姿は、まるで手負いの獣のようだった。
なるほど、これでは誰も手に入れたとはいえないだろう。
内心苦笑して、その苦笑も苦い痛みへと変わる。
こうなってまで、まだなお自らの意思を折ろうとするモノと戦い抗い続ける姿は、胸の奥の何かをかきむしるような痛みを覚えさせる。
近づけば近づくほど、ユーリの全身から溢れる気配に警戒の色が濃くなり、殺気にさえ似たものへと変貌していく。
先の戦いで血に塗れたこの身体では、その匂いも本能的な何かを刺激するのかもしれない。
それでも。
レイヴンの足は止まらない。差し伸べた手を下ろすこともない。
「青年……、ユーリ、ユーリ」
名を呼びながら近寄り、抱きしめずにはいられなかった。
どんなユーリでも触れたかった。
たとえ腕を噛み砕かれようとも、生きていることをこの手で直接確かめたかった。
艶を失いかけた髪に触れ、強張った体を……頭を抱き寄せれば、その瞬間焼け付く痛みが首筋を襲う。
「………っつ!!」
文字通りの獣のように、ユーリは食い千切らんばかりの勢いで目の前の首筋に歯を立て、なおかつ威嚇の声を強める。
そのユーリを、レイヴンは噛み付かせたままで抱きしめ続けた。
首から胸へ伝い始めた血には気にも留めず、自由になるほうの手でユーリの頭を抱きこみ名を呼びながらゆっくりと撫でた。
ゆっくり、ゆっくりと――
やがて、ユーリの顎が震えてこわばりが解けるようにじわりと力が抜けていく。
今なら多少は声も届くかと……眠りを誘うようにゆるやかなリズムでレイヴンは呼びかけ始める。
「……遅くなって悪かったね。
おっさんが迎えに来たからさ、皆のところへ帰ろうや」
低く、そうユーリが「嫌いじゃない」と言ってくれたあの声で。
穏やかに、夜の枕元で読み聞かせをするように、噛んで含めるように優しく言い聞かせて……
「……………、う」
「ユーリ?」
「……ぉ……、あ……」
獣の声ではなく、かすかに意志らしきものが感じられる呻きが漏れた後、ユーリの顎がレイヴンの首筋から離れる。
はっとユーリの顔を覗き込み頬に手を添えると、掌の温度にか目を細め……細い身体からかくりと力が抜け落ちたのは、その後間もなくだった。
厭わしい戒めからユーリを開放すると手近にあった清潔なシーツに包み、レイヴンは溢れる血の流れからユーリを庇うように抱き上げる。
負傷やその他でユーリの肩を支えたり担いだりしたことは何度もある。姿を見たときから予想はしていたが、それでもその記憶から比べての実感に胸の奥がまた軋みを上げる。
(……軽く、なっちゃったわね)
しかし、またすぐ元に戻る。元来健康な青年なのだ、そう……すぐにいつもの、真っ直ぐに伸びた背中越しに、なにやってんだよ、と皮肉げな笑みを見せてくれるはず。
一刻も早くと、願うように抱き上げる腕に力を込めながら扉をくぐれば、
「ユーリ……っ!」
待ちかねていたフレンが飛びつくようにしてユーリの身体に縋った。
「ユーリ無事なのか、しっかりしろユーリ!
……っ、レイヴン殿ユーリは?!」
「緊張の糸が切れたのかね。気を失ったとこ。
ちゃーんと生きてるからそれは安心してもいいと思うわよ。
……今のところはね」
その報告にひとまず安堵して肩で大きく息をつきつつも、フレンはレイヴンの一言に顔を歪めた。
「――今のところ、ですか」
フレンの呟きに返る言葉はなく、ユーリを抱きかかえたままのほろ苦い笑みだけが答えだった。
青年の自我は失われたわけではない様子。
しかし、完全に戻るまでどのくらいかかるかはわからない……だから、安心も現時点での話だ。
それでも、命があることにひとまずの納得をしたか、フレンがつと身を離した。
が、何気なく目を上げて、思いがけない場所に開いたレイヴンの傷と傷跡の形に声を失う。
「その傷……?!」
明らかな噛み傷。それも、相当大きな身体の何かに噛まれたような、大きく深い……
先の戦いに決着が付いたときにはなかったものが誰から負わされたかといえば、答えは一つしかない。
レイヴンは立ち尽くすフレンの横を通り過ぎ、立ち止まった。
「……青年ね、色々見ての通りよ。どうも薬でズタボロ、みたいなんだわ。
だから――」
ちょっと薬抜きに姿消すけど、いいわよね。
返答も待たず言い置いて一歩踏み出そうとする背中に、呆然としたフレンが我に返る。
「なぜです?! すぐ城の医者に――」
なぜレイヴンが連れて行かなくてはならないのだ。
ギルドの医師に見せるというのか、それなら城に詰めている帝国でも屈指の名医に預け、最高の環境で最高の治療をして、そして……
「城に連れ帰ってさ、真っ先に飛び出してくるのは誰だと思う?」
「それ……、は」
冷静な問いかけに、フレンは言葉に詰まった。
話を聞きつけたエステルは、どんな制止も振り切って駆けつけるだろう。
ユーリの姿を見て、それから……?
「こんなボロボロなところ、嬢ちゃんに見せられる?
少年少女がこの姿を見て、ダメージ受けないと思う?
……見せて、青年が気に病まないと思う?」
「………っ!」
畳み掛けるような問いに、フレンは返す言葉もない。
「……すまんね。
気が変になりそうなくらい心配だろうとは思うけど、聞き入れてちょうだいよ」
――青年のためにも……さ。
卑怯とわかっていながら口に乗せたセリフの効果は絶大だった。
ユーリのために。
その一言は今の段階で何よりも大きな効果を生む。それが、文字通りユーリを慮ってと捉えることができるのであればなおさらだ。
その影に、ひっそりと別の意図が潜んでいたとしても今のフレンでは気付けないだろう。
俯き唇を噛むフレンからの反論がないことを確信しながら、他の騎士が殺到する前にとレイヴンは行き先を告げることなく手当ても振り切り、ユーリを抱えたままその場から姿を消した――