カプワ・トリムで一泊した夜。
 ダングレストほどではないが、同じ大陸のこの町にはレイヴンの知った店が多少はある。
「ちょいと顔出してくるわ」
 夕食が終わった頃、同室のカロルたちに一言断って出かける。
「多分遅くなるから、先に寝ちゃっててよ」
「ああ、わかった。
 女性陣が別部屋だからって、あんま酒の匂いさせて帰んなよ?」
「そうそう。この間、二日酔いで大変だったでしょ」
「はいはーい、気をつけますよっと」
 軽く手を上げ、ふらりと町へ出た。
 自分でも早く戻るつもりではあったが、知り合い、イコール、アルトスクの関係者という共通点が少なくない。
 レイヴンが、ドンの片腕であったことも、その信任を得ていたことも周知の事実で、ドンがああなってしまった後、未だにユニオン関係者から相談を持ちかけられることがあった。
 面倒だとは思っているが、顔をあわせてしまうとこれを完全には突き放してしまえないのが、レイヴンという男である。
「ちょいと飲みたいだけ、だったんだけどねえ…」
 ぼやきっぱなしで話を聞き、結局、店を転々としながら逃げ出せたのはかなり遅い時間になってしまった。


  ****


 もう寝ているだろうと部屋へ戻ると、子供の寝息とともに、ベッドサイドのランプがひとつ灯っていた。
 ベッドに座る影に瞬きし、ドアを閉める。
「寝てていいって言ったのに…って、ありゃ?」
 サイドボードに凭れるようにした影が、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
「こんな風にうたた寝してるなんて、珍しいねぇ〜」
 物音をさせぬよう近寄り、淡い灯りに照らされたユーリの顔をそっと覗き込む。
 先日、ノードポリカでの時に至近距離で観察する機会はあったものの、妙な衝動に駆られて一部以外あまり覚えてなかったのだが…。
「本当にまあ、べっぴんさんだこと」
 荒々しくなく真っ直ぐに通った鼻筋だの、鋭すぎないラインの滑らかな白い頬だの、伏せて初めて気付く長い睫毛だの。
 女々しくなりがちなパーツが絶妙のバランスで収まり、なおかつ強気な瞳の輝きと皮肉っぽい笑みが、ユーリの印象をただものではない青年に仕立て上げている。
 逆を言えば、こうして眠っている姿は…なんというか…。
「人畜無害? いや、ある意味有害、かね」
 なんなんだろう、この眠っていても醸し出されるフェロモンは。

 そうしてまじまじと見つめていると、かすかに身じろぐ気配がした。
 妙な疑いをかけられては困る、とレイヴンは慌ててユーリの肩に手を置く。
「青年、風邪引くよ。ちゃんとベッドで寝ないとさ」
「ん…」
 軽く揺すり起こされ、ユーリは眠たげに目をあげた。
「…ああ、悪ぃ。
 まだ寝るつもりはなかったんだけど…」
「何言ってんのよ。先に寝てろって言ったのに」
「いや、別に待ってたわけじゃねぇんだけどな…」
 眠っているカロルに気を遣い、小声でやりとりする。
 大きなあくびをかみ殺して、ひとつ伸びをしたユーリの膝から何かが落ちた。
 レイヴンは、バサリと硬い音を立てたものを手に取る。
「本?」
 相当古びた緑色の堅表紙。
 見覚えのない年季の入った書籍に、レイヴンは首を捻った。
「ユーリの荷物に本が入ってるなんて、知らなかったねえ」
「似合わねぇってか?」
「正直、驚きだわ。リタっちや嬢ちゃんの荷物から紛れてたとかなら、納得も出来るけど?」
「ははは…確かにな」
 悪びれもせず言ってのけたレイヴンだったが、本人も至って平然と笑ったものである。
 ふと笑いを引っ込めたユーリは、多少の逡巡を見せた後、ちらっとレイヴンを見上げた。
「それ、デュークが置いてった本な」

 思いもかけない名前を突然聞き、レイヴンは驚いた面持ちで再び書籍に目を落とす。
「デュークが?」
「ああ。
 ザウデで…あー、デュークに助けてもらった時、あいつそれを俺の部屋に置いてってたんだ。
 忘れていったのか、それともくれたのかはわかんねぇけどな」
「なるほどねえ…」
 何気なくページを開くと、いきなり満月の子についての記述が目に飛び込む。
 慌てて冒頭部に戻り数行に目を通したところ、星喰みと帝国成立についての書籍らしきことが読み取れた。
 ふ、とユーリの声が沈む。
「…昔はこういう本もあって、星喰みのことも、ちゃんと人間の記憶にも残ってたのかもな」
「そうね。もし、ちゃんとこんな記録が受け継がれてたら、ザウデのことや今みたいなことにも…そもそも……」
 人魔戦争だって、と呟きかけレイヴンは首を振った。
「いや。もしもなんて、過ぎたことをぐちぐち言ってもしょーがないわよね」
「そうだな。俺たちは、今の俺たちに出来ることをやるしかねぇ」
 しっかりした口調で頷いたユーリは、――またひとつ大きなあくびをした。
「で。青年は、なんでまたこんな本引っ張り出してんのよ」
「んー?
 それ、エステルも読むかと思ったんだけど、中身読んでエステルが悩み始めてもつまんねぇだろ。
 だから、先に全部目ぇ通しとこうかと思ったんだけど…忘れてた」
「忘れてたって、何を?」

「俺、本読むと寝るんだ」
 ユーリは三度あくびをかみ殺し、サイドボードに肘を付くと、眠たげに前髪をかきあげたままこめかみを押さえて手を止める。
 ついでのようにレイヴンの動きも止まった。

「…へ?」
「大体5ページ、読めて10ページ。それ越えると意識が飛んじまう。
 リタがよく読んでるような技術書は、瞬殺だな。もれなく頭痛もついて来やがる」
「天才魔導少女の本は、おっさんも同感だけど…」
 眉を寄せ、何かを思い出すように目を閉じていたレイヴンが、軽く挙手した。
「あーーー、青年、ちょっと質問」
「ん?」
「確か青年、騎士団にちょっと居たって」
「ほんのちょっと、だけだけどな」
「おっさんの記憶が間違ってないなら、入団には簡単な試験がなかった?
 あと入団後の研修も、確認の試験みたいなのがあったような…」
「あーー、あったな。
 読んでもちっとも頭に入らねぇし、そもそも読み進められねぇし、あればっかりはどうしたもんかと思ったけど」
「どうやってやり過ごしてたのよ」
 訝しげなレイヴンに、ユーリはあっさりと答える。
「フレンに手伝ってもらった」
「…………」
 あまりに当たり前のように答えるものだから、レイヴンの思考が一瞬固まった。
「って、…ええと、カンニングじゃないわよね」
「当たり前だっつの。
 俺、聞いて覚えたことは結構忘れないんだよな。んで、隣には口に出して暗記するやつがいる。
 だから、フレンが資料やらブツブツ読み上げてるのを、ずっと聞いてた」
「ええ?ずっと?」
「まあな。放っといてもぶつぶつ言ってるヤツがそばにいるんなら、俺が便乗しても悪かないだろ?」
「……あー、そうね…」
 思わず天井を見上げるレイヴン。
(それ、手伝ってもらったといっていいのかねえ…?)
「…なんだよ」
 なにを疑問に思われているのか、よくわからないといったユーリだが、…この場合、聞いただけで覚えるユーリに驚いたらいいのか、便乗されてしまったフレンにご苦労様というべきなのか。
 とりあえず、大人であるところのレイヴンは、当たり障りのない感想を述べるにとどめた。
「ちょっと意外だったわね〜〜」
「誰にだって、苦手なものくらいあるんだっての」
 明かりの届かない角度に顔を背け、
「これだから、あんま知られたくなかったのによ…」
 ぼやくユーリだが、言葉や態度の端々に拗ねた気配がする。
 いつもの頼もしい背を見せる青年とはまた違う、珍しく年相応の姿にレイヴンはつい笑みを誘われ、慌てて口元を引き締めた。
 笑われたと知れれば、今度はへそを曲げかねない。男前な青年がへそを曲げると…あまり考えたくないことになる。
 ふと手元の重みに、レイヴンは手にしたままの存在を思い出し、ユーリ、と名を呼ぶ。
「これ、内容確認しておきたい?」
「そりゃあ、出来ることならな」
「じゃあ、俺様が読み聞かせしてあげよっかね」
 本を手に取り片目を瞑るレイヴンを、ユーリは呆気にとられた様子でぽかんと見上げる。
 そんなこと思いもしなかった、といったところか。
「読み終わるまでは、エステル嬢ちゃんに読ませたくないかどうかの判断、まだつかないだろうから、少年少女が寝静まった後ってことになるだろうけど」
「ありがたいっちゃありがたいけど、…いいのか?」
「おっさんにだって、興味ある内容だし?
 自分が読むついでと思えば、どうってことないでしょ」
「ふ…ん?」
 レイヴンの提案に、どうしたことかユーリが一瞬目をそらす。
(おりょ…?)
 が、内心首をかしげたレイヴンが疑問を口にする前に、ユーリはいつも通りの微苦笑で頷いた。
「サンキュ。じゃ、お言葉に甘えせてもらおうか」
「はいはいー。
 どーんと甘えなさいって。そうと決まったら、ほら、青年は寝た寝た」
「おいおい、俺ぁガキじゃねぇんだから」
 本を片手に、もう眠いんでしょ、と布団に追いやる。
「ったく…」
「椅子持ってきちゃうと音もするだろうし、置く場所がないから、ここで勘弁してよね」
「おい、狭いだろ」
「しょうがないでしょ、ほれほれ」
 有無を言わさずユーリの枕元、ベッドの上に浅く腰掛けた。
 ごそごそと横になるのを、気配だけで確認して表紙をめくる。
 ひとつ息を吸い、レイヴンはあえてゆっくりとやや低い声で読み進めて行った。

 しばらくは黙って聞いているようだったが、やがてユーリの呼吸が少しずつ大きく深くなる。
「そういや…」
 眠たげな声で呟くのに、「ん?」と小さく疑問を投げると天井を見上げていたユーリの口元に、かすかに笑みが浮かんだ。
「こんな風に、読み聞かせられながら寝るのって…あんま記憶にねぇな…」
「………小さいときも?」
「ん…、そういう大人は、そばにいなかった…からな…」
 まどろみつつ、なんでもないことのように口の中で呟くユーリに、レイヴンは軽く息を詰めて、吐いた。
 こんなところで、ユーリが孤児だったことを思い出させられるとは思いもせず。
(そっか、青年がとっくに大人なのは…そういうこと、だったわね)
 そのことは単なる事実であって、同情すべき要素は全くないうえ、そのような感情は彼に不要であるし失礼でもある。そもそも、仲間たちもとっくに親を亡くした者ばかりだ。
 ユーリが対等の親友と過ごしただろう子供らしい時間も、周囲からの愛情も不足していたとは思えない。
 ただ、……甘えたり頼ったりするのが下手なのは、早く大人にならざるを得なかったところに原因があるのだろうとも思いあたった。
(もっと、甘えてくれてもいいのにねぇ…)
「……っさん」
 そっと溜息をついたレイヴンは、呟くように名を呼ばれてハッと顔を上げる。
 もうほとんど眠りの中に居るユーリが、重たげな瞼を薄く開けた。
 覗き込んで視線が合うと……ふと小さく笑みこぼれた。
「なに?」
「……あ…たの、…の声、きらい、じゃ…ない…」

 胸を突かれたようにレイヴンは黙りこくる。
 なんと返事したらよいものか迷っている間に、ユーリの呼吸が深く安定したものへと変わった。


  ****


「………参ったね、こりゃ」
 ほろ苦い笑みをたたえて、レイヴンはゆるく首を振る。
 こういうときは、こんなに居心地のいい場所を手に入れた幸運と連ねてきた罪を同時に認識してしまう。自分にとって、幸福感と重く深い後ろめたさとは、常に表裏一体で感じるものだ。
 いつかは、償わなければいけないもの。この幸運も、手放さなければならないかもしれないけれど。

「…けど、終わってからどうするか、考えさせてよね。
 今はひとまず、…やらなきゃならないこと、あるし?」
 とりあえず、この本を読み終わるまでは、青年の無防備な寝顔も堪能できるだろう。
 信頼されているという、証のように。
 レイヴンはサイドランプの灯りを消し、続きはまた明日、と呟いて静かに微笑んだ。