世はこともなく――といいたいがそうも行かないフィエルティア号。
 甲板の上でマストに背を預けたレイヴンは、ダングレストを思い出させるような赫い夕陽を一人眺めていた。
 夕飯時だというのに、その表情は今ひとつ冴えない。

「こんなところしか避難場所がないなんてねぇ。…あー、今日居るのが少しはあったかい地方でまだよかったわぁ…」
 ぼんやり呟き、舳先のほうで丸くなっているラピードを見てひとつ溜息。
「お互いに今日は辛いところよねぇ」
 聞こえたのかそうでないのか、ラピードの耳だけが遠目にぴくぴくと反応する。
 共通の理由で厨房に近寄れない一人と一匹は、今日に限っては珍しいほど「仲間」意識が強い。多分。

 その名も「甘いもの嫌い」というカテゴリである。


  ****


 バレンタインデーという特殊イベントへ拒否反応を示した意外な人物に、仲間達の視線が集中したのは前日の夜。

「えーーっ、レイヴンってバレンタインデー嫌いなの?!」
「…おっさんが甘いもの嫌いだって知ってて、そゆこと言うのカロル君」
「だって、いっつも女の人が好きーみたいなこと言ってるから」

 エステル、リタ共にカロルと同意見らしいが、言われてみればそうだっけ、とも頷く。
「ねぇ、どうしてバレンタインデーってチョコなわけ?!
 別のものでもいいじゃないのよう、どうしてチョコなのそこで!
 おっさん、別のものがよかった…!」
「泣くんじゃねぇよ、うっとうしいから」
「ユーリちゃん酷おぉぉぉい!」

 ウンザリと目をそらすユーリに、レイヴンの嘆きが大きくなる。
 すっかり机に突っ伏してしまった背中に、期せずして全員の溜息がシンクロした。
「え…ええと、ユーリはどうだったんです?」
「ん? なにが」
「バレンタインですよ。
 もらったりあげたりしてました?」
 話題の転換を図ったエステルは、自分がナチュラルに爆弾級の質問をしたことに気付いていないようだ。
 最後の瞬間、周囲の動きが不自然に強張ったことにも気付いてもいない。

「…あのな、エステル。
 もらうのはともかく、なんでオレが誰かにやらなきゃなんねぇんだよ」
「あれ、そういえばそうですね?」
「……まあ、いいけどな」
 それいいのか。
 と無言で突っ込んだ視線は、ジュディスとレイヴンのものだ。
「とりあえず、本気以外のチョコは全部もらってた。
 老若男女…のうち、『面倒そうな男』は除外してもれなく」
「…いや、そこ、普通は除外条件に挙げる必要なくない…?」
 カロルの呟きは、いっそ総員華麗にスルー。
「なにしろ、おおっぴらに甘いものをタダでもらえる日だからな!
 そのうえチョコは腐りにくい」

 最後は拳付きで力説なさる我らがリーダー。
 下町育ちは、何ものをも無駄にはしない。ほうれん草の根も大根の皮も。
 そして、箱一杯にもらいすぎたチョコも。
「騎士団に入るまでは、毎年この時期にフレンと二人で箱に溜め込んで少しずつ食ってた。
 日によってはチョコで食いつないだりな」
「それって、非常食?
 …なんか、おっさん切なくなってきたんだけど…」
「チョコが嫌だとか他がいいとか、贅沢なんだよ」
「うっ…!」
 短く唸って黙り込んでしまったレイヴンに代わって口を開いたのはカロルだった。

「―――ええと………それで、話を元に戻してもいい?
 明日、チョコレートケーキ作ろうかなって話だったよね…?」


  ****


 結果、レイヴンを除外した全員の賛成多数でチョコ菓子祭りが決定し――レイヴンとラピードは、日中から今に至るまで延々と甲板隔離の憂き目にあっているというわけだ。
 ちなみに、午前は材料買出しに荷物持ちとして駆り出され、大量の甘い匂いに青い顔のままで連れまわされるというオマケ付き。
 荷物を持つ手段がないラピードは、その点まだマシだったと言えるかもしれない。

 そういえば、バレンタインには昔からいい思い出がない。
 好きだった相手からは『義理』と大きく書かれた激甘チョコをもらい(しかも一度きり)、好きでもない男から本気のチョコが届いた若き時代。
 戦後は、ギルドに身を置けば、その立場の目立ちっぷり…いや、ドンにいい玩具として標的に晒しあげられた結果集まった甘い匂いに閉口し。
 騎士団でその時期を過ごせば、好きでもない…思い出すのも嫌な以下略。

 嗚呼、どうしてここまで嫌がらせのような…。
 へたり込むように座り最後の残照に目を細めたとき、船内から甲板へ通じる扉が大きく開いた。
「おーい、ラピード。メシだぞ。ついでにおっさんも」
「俺様いつまでワンコのついでなのよ?!」

 レイヴンからの抗議をさらりと流し、まずラピードへ犬ごはんを運ぶユーリ。
 相棒の頭を撫でて、それからやっとレイヴンの傍へ寄る。
 隣へ座るユーリからトレイを受け取ったレイヴンは、微妙な風向きの変化に曖昧な笑みを浮かべた。
「…青年にこんなに匂いが染み付いてるってことは、現場はもっとすごかったりすんのね」
「そんなに匂いするか?」
 ユーリは自分の袖を顔に寄せ、クンと匂いをかぐ。
「あーダメだ。ずっとあの中にいたもんで、すっかり麻痺しちまった」
「う…。おっさん、しばらく食事当番しなくていいわよね?
 そんなところで料理するのはちょっと…」
「ま、しょーがねぇな」

 あっさり同意したユーリに、心から安堵の息をつく。
 レイヴンのあまりの本気っぷりに、ユーリは小さく噴出す。
「ったく、そこまで嫌いなのかよ」
「そんなこと言ったってしょーがないじゃないのよ、ホントに」
「あんなに、クレープ作るのは上手いのに、わっかんねぇなぁ」
 マジで美味いだろあれ。
「コツがあるんだろ、教えてくれよ」
「えーっ、おっさんの秘密兵器はそう簡単に教えてあげらんないわねぇ」
 サバ味噌を乗せ、実に美味そうに米飯を頬張るレイヴンの姿に、またユーリは「ったく」と苦笑を浮かべた。
 味わいながらもあっという間に料理を平らげ、ごちそうさま、とトレイを差し出す。
 頷きトレイを受け取ると、思い出した顔で何かを取り出そうするユーリにレイヴンはひとつ瞬く。

「おっさん」
「なに――」

 よ、と最後の発音が消える前に、レイブンの口に何か固形物が放り込まれた。
「……………?!!」
「甘いの、嫌いだって言っただろ」
 にんまり笑うユーリの前で、レイヴンの顔が奇妙に歪んだ。

「あ、まくないけど、な、何コレ苦くない?!」
「はっはっはー、カカオ99%のビターチョコな」
「それチョコじゃないから!!チョコ以外の何かでしょっていうかまともに噛んでニガッ!!!」
 甘いものは確かに嫌いだが、だからと言ってこれもどうなんだ。しかもサバ味噌の直後に。
「極端だわよ〜〜〜〜〜っ」
 低く呻いて悶えるレイヴンに、ユーリは悪戯が成功した子供の瞳でくっくっと喉を鳴らす。
「ははは…、まあ、後でこれでも口直しにな」
 立ち上がり際に差し出された小瓶の酒は、レイヴンの好みの銘柄で。
 落ち着いた後にそれを確認し、レイヴンは心底複雑な表情で小瓶を眺めた。
「おっさん…愛されてるのか遊ばれてるのか、わかんないわ…」


 後日――。

「で、青年。
 あれって、青年のビターな愛が99%ってことなの?」
「あー、むしろ1%?」
「少なっ!」
「カカオが100%までいくと、固形にならないらしいんだよな」
 ひどく残念そうなユーリの口ぶりに、レイヴンは一体なにを食べさせられるところだったのかと遠い目で彼方を見つめる。

 レイヴンのバレンタインへのトラウマが解消されるのは、それから数年後のことであったという。