「Beloved」 (現代パラレル・RY)
思い返すにつけ、毎年、この時期は辛かったものだ。
事務所で。
仕事先で。
馴染みの店で。
行く先々で甘いものが視界に入り、そして目の前に置かれる。
調べ物のためにネットを開き、あるいは普通に町を歩けば、一ヶ月以上も前から写真や現物がそこここに姿を見せる。
直前ともなれば、甘い匂いが一個師団で襲い掛かってくる。
甘いものが大の苦手であるので、バレンタインなど滅びてしまえ、と本気で思わなくもなかった。
それがどうだ。
「本命の相手がいるってだけで、随分違うものよねぇ」
付き合い始めて初のバレンタインがやってくるわけだが、当日が一日一日と近づくだけで、妙に落ち着かない。
といっても本命の相手が男前な青年だから、可愛いラッピングだのということは期待できそうにないが、それでもこういうイベントはさすがにスルーし、な……
(スルーされたら、どうしよう……!)
あるいは、あの青年のことだから「愛があるなら食えるよな」と笑顔で激甘チョコを差し出してくるとか。
(食べられなかったら、その後全部お預け!とかありそうで恐いんだけど……!)
そんなことを本気で悩み始めるレイヴンだが、
「おめぇらは見ててホントに飽きねぇな」
その姿を呆れ混じりでドンに大爆笑されてしまう。
「――とまあ、そんなことがあってな?」
「……ジイさん、なんでそれを今オレに言うんだ」
仕事から早く上がれば、そこに居てはいけないはずの人間があたりまえのような顔をしてそこにいるのも、話し出した内容にも。
どちらにも頭痛を覚えて、更衣室のロッカー前でユーリはため息をつく。
「しかも、おっさんはどこで何を考え込んでやがる」
「スイッチ入っちまったのは、うちの若ぇのが、ヤツにひとつ渡してやってからだな」
その言葉に、帰ったら一発ぶん殴る、との呟きが途切れた。
一拍の後、ユーリは首を傾げて振り返る。
「へぇ? おっさんに?」
「明日が日曜だからな。当日会えねぇからっつって、秘書課の連中が連名で一個出してやがったぞ。甘いものダメなのを知ってるってのもあるが、抜け駆けはどうとかってな。
あの野郎もああ見えて、外面は一丁前な顔してやがるからなぁ」
「ふうん……おっさんがねぇ」
自分の前では、どこをどうひっくり返してもただの駄目な大人でしかないのだが。
そういえば、ドンが仕事を任せるほどの男であったことを思い出す。
おそらく仕事中は随分真面目な顔をして、仕事をこなしているのだろう。
――自分の知らない顔で。
(ただの学生相手に、何を血迷ってんだろうな……あのおっさん)
自分に嫌われたら生きていけない、とすがるような必死の瞳で掻き口説いてくる男の姿を思い浮かべながら、ユーリは鞄の中に押し込んである包みを黙って指先で小さく弾いた。
「ただいまぁ……」
重いドアの開閉音と同時に、疲れきった声が玄関に響く。
靴を脱ぎながら、レイヴンは首を傾げた。
「あら、返事がないわね。寝ちゃってるかしら」
いつもなら、ユーリがこちらの家に居れば玄関へ出てこないまでも返事くらいはあるのだが。
灯りも暖房も点いているから居るのは確かだろうが、時刻はもう少しで日付変更線を越える頃だ。先に眠っていてもおかしくはない。
「寝てるなら、ちゃんとベッドで寝てくれてたらいいんだけど……」
明日に備えて、しっかり休みを確保するために仕事を片付けていたらこんな時間になってしまった。せっかくの休日前だが、止むを得ない。
水一杯くらいは飲んでから寝室へ行こう…とリビングに入り、レイヴンはぎょっと足を止めた。
「ちょっ、びっくりしたぁぁ……」
「ん? ああ、おっさんおかえり。遅かったな」
「珍しいわねぇ、青年がボーっとしてるのって。…っていうかその包みの山、何っ」
リビングのテーブルで欠伸をかみ殺したユーリは、珍しくぼんやりした顔をしている。
眠かったのを我慢して待っていてくれたのかと思うと嬉しくて仕方ないのだが、その……ユーリの前に山と積まれた小さな包みに、動揺が止まない。
ふとユーリがこちらに視線を向けた。
「何って、オレが今日までにもらったのと、あとおっさんが隠してたやつ」
ああ、なんて予想通りの展開。
ユーリの足元にあるのが、どこか見覚えのある紙袋だと思ったはずだ。
「隠して…って、隠してたわけじゃないわよ?!
ただ、使うと勘違いされて面倒だし、かと言って捨てるのも面ど…ああいや」
立て続けに面倒という単語が口を突きかけて、さすがにユーリの印象が悪かろうと口を覆う。
ちらと様子を窺うと、呆れた顔をしていた。ああ、やっぱり。
「あんた、オレにはあんだけマメなのにな」
あれ?
予想と違うところで反応されて、る?
「……ええと」
酷い人間だ、と言われてしまうかと思ったのに。
そう漏らせば、見当は付いてる、という返答だった。それは行動パターンを把握されていることに喜んでいいのか、基本薄情な(?)人間だと認識されていることを悲しむべきなのか。
「で、これ全部バレンタインか?」
「あー、多分大体そうね。誕生日のもあるかしらねぇ……?」
ユーリ正面のいつもの椅子に座りながら、レイヴンは首を傾げた。
貰ったものはほぼ全て、クローゼットの奥へ突っ込んできたものだから、実はよく覚えていない。
ドンと所長からあてがわれた物は、さすがに使ってきたのだが……
正直にそれを言えば、今度こそ呆れた顔をされてレイヴンは身を小さくする。
「もったいねぇなあ……。こんなの貰っといて」
青年がピンと指先で弾いた絹のネクタイは、ええと、確か…二年前頃流行った柄だったか。
甘いものが駄目と知られているせいか、包みの中身は小物や身の回り品が多い。大半の趣味がいいのは認めるが、やはり使おうという気にはなれない。
これがユーリからのものであれば、たとえ百均のハンカチでもメモ帳でも毎日大切に持ち歩くというのに。
「でも青年から貰ったものは、全部使うし使ってるわよ?!」
「当たり前だろ」
「うん。っていうか、青年も貰ったチョコ多くない?」
見慣れない柄…というより、自分宛には使われない類の包みはおそらく全てユーリのものだろう。
山の三分の一、だろうか。それでも結構な量だ。
上目遣いで視線を固定すれば、ユーリの眉間に皺が寄る。
「オレのは義理だよ、ギ・リ。チョコも飴も、普段から貰ったり食ったりしてるし」
「貰うって誰から?!」
「ダチに決まってんだろ」
「か、可愛いラッピングもあるじゃない?」
「ああそれ、うちの近所のトモダチから」
良くも悪くも、お嬢だからなぁあいつ。
呟きはぼやく響きだが、その際のユーリのなんとも言えない優しい瞳に軽く嫉妬する自分に気付いた。
そういえば、青年の交友関係にはノータッチだったことに今更思い当たる。
あまりにユーリ個人だけに目が行き過ぎて、周囲に気を向けていなかったとは失態だろう。ご近所がいい人たちらしいというのは普段聞く話から知っているが、具体的にどんな友人が傍にいるかまではあまり聞いていない。
明らかに義理チョコという市販のあれこれは省いて、気になる包みを指差して尋ねると、大人っぽい包みは『バイト先のトモダチ』で、少しいびつな包みは『お嬢の連れでトモダチ』とのことだった。
「……青年、やっぱりモテるわよね」
「何言ってんだよ」
ふいとそっぽを向いたユーリに、自分のことは棚に上げて…と呟かれて、レイヴンもまた首を傾げた。
自分のこれは違うだろう。手頃な物件扱いは、真にモテるとは言わないと思う。
そもそも、他の人間に興味がないところからして駄目だろう、色々と。
そんなことを考えていたら、
「で?」
ひら、と差し出した左の掌を上下に振られて、レイヴンはきょとりと瞬いた。
「おっさんは?」
呼びかけにはっと我に返ると、鞄をそろりと開ける。
まずは定番のチョコレートから。
ユーリが甘いもの好きなので、前々から有名店に予約を入れておいた生トリュフだ。これについてはユーリ自身も楽しみにしていたので、納得の顔で頷いて受け取ってくれた。
そして――
鞄をまだ抱えているレイヴンに、ユーリは訝しげな視線を向けた。
「どうしたんだ、おっさん」
「あー」
レイヴンは、小さく咳払いして腹を括る。
気恥ずかしくはあるが、これはやっておくべきことだ。
「ユーリ」
低く呼びかければ、ぱちと瞬いたユーリが次の瞬間には頬に薄く血の気を上らせた。
閨以外でユーリの名を呼ぶことは稀だった。そういえば。
(うん、こういう時のために控えてるってのも、なくはないかしらね)
「な、なんだよ。改まって」
動揺するユーリが可愛くてたまらないが、ここはひとつ気合を入れて真顔を貫く。
席を立つと鞄から取り出した細い包みをユーリに差し出し、白い手に乗せた。
「何も心配しなくても、俺はユーリ一筋だから」
――愛してるよ。
目を細め、精一杯の想いとともに囁く。
手渡したのは、真っ白い箱に入った赤いバラの蕾が一輪。
最初は大きな花束を抱えて帰ろうかと思ったのだが、そんなパフォーマンス的なものはいらないと思い直した。
ユーリへの想いを告げるなら、たった一輪でいい。
瞳を見つめながら箱を乗せた手を両手で包むと、じわりと温度が上がっていく。
セロファンに包まれた赤いバラがゆっくり染まるユーリの肌を映しているようで、指先から伝わる温度と同時に自分の胸にも熱が広がっていった。
胸の奥が暖かい。
この熱は、ユーリがくれたものだ。ユーリが生かしてくれた心だ。
ユーリが望んでくれて、手にしてくれるものならば、自分にも生きている甲斐はあるだろう。
だから。
「――だから、俺の全てはユーリのものなのよ」
「……、……そ」
「そ?」
「そういう、こっ恥ずかしいことを、言うなっつってるだろ!」
掠れた声と同時に右の拳が鳩尾を狙ってきた。
一瞬息が詰まるが、いつもよりダメージは少ない。むしろ、ほとんどないくらいだ。
(あら、バレンタイン仕様?)
小さく呻きながらも手を離さずにいたら、ユーリの視線がふいと外れた。
真っ赤に染まった可愛らしい耳朶を眼前に晒されて、唇を寄せたい衝動に駆られるのをぐっと我慢する。
代わりに、淡く染まった爪にキスを落とした。
「っ、だからそういうのを……っ!」
「嫌?」
瞳を覗き込めば、桜色の目蓋がせわしなく瞬いてその奥の黒瞳が揺らぐ。
「〜〜〜〜っ、もう、いいっつーの」
わかったから……。
ユーリの唇から諦めを含んだいつもの苦笑が零れて、レイヴンはほっと肩の力を抜く。
自然と口元が緩んだところで、コツと肩に衝撃があった。
ユーリがテーブル上の山、の影から引っ張り出した細長い渋い包装が、レイヴンの肩から移動して目の前へポンと置かれる。
「ん? 何コレ、ねえ何っ?」
「訊かなくても、自分で中身見りゃわかるだろ」
「だって……」
包み開けるんだったら、青年の手を離さなきゃいけないじゃない?
真顔で訴えれば、鳩尾に来た次の拳は結構本気だった。
「痛たたた……、青年酷いっ」
「うるせぇな、これ引き上げるぞ」
「ちょ、待って!青年! やーよ、青年からのプレゼントなのに!」
慌てて包みを懐へ引っ張り込むと、急いでラッピングを剥がす。ユーリが本気で引き上げる前にと開けて――レイヴンの目が丸くなった。
箱の中にあったのは、茶褐色の細長い……
「……箸?」
「文句あんのか、いらねぇなら持って帰」
「文句なんかないわよあるわけないでしょー?!」
箸を抱え込むようにしながら咄嗟に叫んで、はっと口を覆った。至近距離過ぎたらしく、ユーリが顔を顰めている。
ゴメンね、と言おうとしたらその前のタイミングで、必要ないとばかりに手を振られて口を閉ざす。
なんというか、すっかりいつもの流れだ。
この箸も…特に理由のない、ただのプレゼントなのだろうか。
(バレンタインだからって、空回りしちゃったかしらね……)
ユーリの一挙手一投足にこんなに感情が揺れ動く。恋愛というのは、楽しく辛くまた楽しい。
不安にかられてじっとユーリを見つめていると、再び頬が淡く染まって見えた。
「まあ、要するにだ。これからもメシ食わせてやるから……」
なんてな。
冗談に紛らわせた響きで締めくくるユーリ。
おどけたように肩を竦めて、それでも目は合わせてくれない。冗談なら視線を合わせるなんて、どうということもないのに。
(……ホンット、可愛いんだからもう!)
「これからも、この箸で、青年のご飯を食べられる?」
「あんたが、ちゃんと帰ってくればな」
「バレンタインがこの色の箸なのは、おっさんが口に出来る甘くないものだから?」
「そりゃ穿ちすぎだろ」
「うん、おっさんの思い込みでもいいのよ。だから」
ユーリ愛してる、キスしてもいい?
そんな問いに返ったのは「勝手にしろよ」といういつもの呟きだったが、同時にゆっくりと目蓋が降りて――レイヴンはたまらない幸せとともに、ユーリの唇にそっと触れるだけの口付けを落とした。