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「……しまった……」
 ロイエは己の手元を見て、呆然とした。
 目の前にあるのは、経理の教書。
 これから受けるのは、一般教養の語学授業で、教書が違う。
 少し時間が押していたので、色だけで判別して手にしてしまった。
「……」
 さて、どうするか。
 今からロッカーに戻って取ってくるだけの時間はない。
 だが、運の悪い事に、次の授業は教書なしで理解できる授業ではない。
「……仕方ないか」
 ロイエはため息をついて、背筋を伸ばし席に座り直す。
 ノートを出来るだけ細かく書いて、あとで復習するしかない。
 入学して間もない彼に親しい友人は居ないのだ。せいぜい、隙あらば恩を売ろうと考える貴族の知り合いだけだ。
 変に弱みを見せるくらいなら、多少苦労してでも自分で何とかしたほうがいい。
 ロイエはそう結論づけて、入室してきた教授に合わせるようにノートを開いた。
「……?」
 不意に、そっと視界の端に入り込む教書の一ページ。
 眉を顰めて視線を移すと、少し照れたような笑顔でこちらを見る一人の青年と視線が合う。
 あまり手の入って居ない髪に、生気に溢れた素朴な野性味滲む雰囲気。見るものを安心させるような、暖かな雰囲気を持つ紫の瞳。
 よく言えば素朴。言い換えれば庶民的なその雰囲気と表情は、貴族にない素直さを感じさせて、思わず目を奪われる。
「何?」
 教授に聞こえないよう、小さな声でロイエは問いかけた。
 言葉が素っ気ないのは、警戒からだ。
 ここは国で有数の学院。
 言うほどの権力を持つ家では無いが、彼が貴族であると知るものは少なからず居る。
 この程度の事で恩を売った気にされて、後々厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだった。
 青年は、そのそっけない言葉に、気分を害した風なく、むしろ罰が悪そうな顔で苦笑を零す。
「いや、持ってないみたいだったからさ、困るかなーって。余計なお節介だったか?」
 ロイエはその裏のなさそうな苦笑顔に言葉を呑み、少し悩む。
 確かに、教書は欲しい。だが、見ず知らずの人間に、ただ純粋な善意だけでこういう申し出をしてくれるなど、俄かには信じがたい。
 困惑する様子が見て取れたのだろう。青年は頭を掻いて苦い笑みを深めた。
「悪ぃ、迷惑なら……」
「いや、ありがたい」
 ロイエは、気付いたときには青年の言葉を遮るように言葉を発していた。
「……まさか、貸してもらえると思ってなかったから、驚いたんだ」
 そして、いい訳じみた言葉を重ね。
 照れたように視線を泳がせる彼に、青年は不思議そうな顔をした後、破顔した。
 からかうというよりは、自然と零れたといったような、嬉しそうな顔で。
 そして、言う。
「困ったときはお互い様だろ?」
 その陰りのない太陽を思わせる眩しい笑顔に、ロイエは思わず目を細めた。
 同時に、打算的な考え方しかできない自分に羞恥を覚え、逃げるように視線を教書に落とす。
「すまない。助かった」
 呟くように、零した感謝。
 教書を追う振りをして、ちらりと視線だけを青年に向けると、彼は嬉しそうな、満足げな笑みを浮かべて黒板に視線を向けているようだった。



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