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『ジュレクティオ』
 突然、頭上から名前を呼ばれ、読書に夢中になっていた青年はハッとして顔を上げる。瞬間、視界一杯に映りこんだ青い瞳に驚いて、思わずガタンと盛大な音を立てて飛び上がってしまう。
 声を上げなかった自分を、誉めてやりたいくらいだ。
 そう思いながら周囲を見回し、彼は誰も居ないことにホッとした。
 同時に、予想外の光景に彼は眉を顰めた。室内は壁に設置されたランプが仄かに本棚を照らしているだけで、ようよう背表紙が見える程度の薄暗さ。彼のいる机上などは更に暗く、とても本を読むには向かない。
 普通の人間ならば。
「驚かせるな」
 再度周囲に誰も居ないことを確認した彼は、この小さな騒動の犯人に小声で不満を漏らした。
『すみません。しかし、この暗さで本を読んでいては、不審がられるかと思いまして』
 正面に降り立ち苦い笑みを見せる天使に、ジュレクティオもまた苦笑を零す。
 彼が持つ、澄んだ青と赤紫という、異色のオッドアイ。これらが映しているはずの視覚情報は、脳が認識しない……つまり、実際には機能していない。
 ならば何故本が読めるのか。この目の前の天使と魂で繋がることにより、足りない視覚情報を補っているのだ。具体的な仕組みは全くわからないが、見ようと思えばどんな暗闇でも鮮明に文字が読めてしまう。恐らく、天使の眼に近いのだろう。
 勿論、明度も色彩も判別は出来るし、普段はそんな失敗などないのだが。読書に夢中になると周囲が見えなくなるのは、この目を持つ前からの悪い癖だ。
「……そうだな。悪い。ありがとう」
『いいえ』
 この天使はその全てが解っていて、彼の前に現れた。天使自身が見せようとしない限り、よほど力のある人間でなければ普段の彼らの姿は認知できないのだから、秘密の忠告にはもってこいだろう。
 読書を中断したジュレクティオは、借りる本と棚に戻す本を手早くより分け立ち上がる。
 大量の本。元の本棚に全て戻すのに、何度この机を往復しなければならないのだろうか。本当はこの天使にも手伝わせたいところだが、何せ、天使の姿は常人には見えないのだ。本が宙に浮かぶ怪奇現象を起こすわけにはいかない以上、自分一人でやるしかない。
『相変わらず大量ですね』
 本を棚に仕舞う間も、天使は守護霊の如く、ジュレクティオの後を付いてくる。
 だが、暗くなった閉館間際の図書室とはいえ、まだ人は居る。何も居ないはずの空中に視線を向けて、奇異の眼で見られたくは無い。故に、天使に視線を向けることなく、彼は手際よく本を棚に押し込んでいった。
「少しでも情報を集めておかないとな」
 それでも、完全に無視するのは忍びないので、ポツリポツリと小声で囁く。まるで、独り言のように。
『私としては、あまり此方の領域に足を突っ込んで欲しくないんですが』
「天使は当てにならない」
 不満げに漏らす天使に、ぴしゃりと言い放てば、背後からすすり泣きが聞こえてきた。
『酷いです……ジュレクティオ……』
 若干罪悪感が沸くが、本当のことだから仕方が無い。
 地上に蔓延る悪魔の数に対して、討伐する側の天使の数は圧倒的に足りていない。
 神頼みするだけで撃退できるほど、悪魔は甘くはない。天使に助けてもらえるのは、本当に運の良い極僅かな人間だけだ。
「まぁ、お陰で俺も飯に困らないんだがな」
 自分の身は自分で守れ。力がないならば、誰か頼れる人間を探すしかない。そう、悪魔退治を生活の糧とする……ジュレクティオのような、力ある人間に。
『……それで死んだら元も子もないじゃないですか!』
「だから、そうならないように下調べするんだろう?」
 全て本を返し終えたジュレクティオは、クルリと踵を返すと、元いたテーブルとは違う方向へ足を向ける。
『ジュレクティオ? 何処へ行くんですか?』
 不思議そうな天使の質問には答えず、彼は窓際のソファへと近寄った。



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