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 それは、些細な……本当に、良くある売り言葉に買い言葉から始まった、惨事。
 しかし、このまま放置すれば、大怪我では済まないであろう事は、誰もがわかっている、事実。
 故に、銀髪の美しい少年は、一人自室で苦悩していた。
「このまま放置して良いのかい?」
 部屋主の心情を表したような、重い空気を裂いた声。
 彼以外誰もいない筈の部屋で、しかしその声は突然背後に現れた。声を掛けられた少年は驚きもせず、静かに振り返る。
「覗き見とは、悪趣味じゃの」
 容姿とは些か不釣り合いな、古風なしゃべり方でそう返すと、彼は自嘲じみた苦笑を浮かべた。
 返された側は、ふわりと穏やかな微笑みを浮かべた。
 緩やかなウェーブを描く、長く豊かな漆黒の髪を頭上でひとまとめにし、明彩度の低い服に身を包んだ背の高い男。暗い色彩の中で一際目立つ、色鮮やかな、橙金と青銀のオッドアイは、とても優しい色をしていて、この男が神に背を向けた堕天使だと言われても、信じるものは少ないだろう。
「私の見たてでは……」
 男が、穏やかな口調で語り出す。
「あの悪魔相手に、彼が勝てるとは思えないのだけれど。良くて相打ち……悪ければ、食われるのではないかな」
「お主、サラリと酷い事を言うのぅ。
 ……しかし、あれも黙ってやられる程可愛いガキではないぞ?」
 少年の言葉に、堕天使は愉しげに笑う。
「ふふ。間違いない。
 しかし、気が強いだけでは悪魔には勝てないよ。彼にはまだ、経験が足りない」
 事実を指摘され、少年は押し黙る。
 この一見少年だが、長い生を生きてきた、世界でも有数の祓魔師。その彼が誰よりも手塩にかけて……少々荒っぽいやり方ではあるが……育てている、自慢の弟子。
 確かに、この男の言うとおり、潜在能力があっても、力の使い方や精神鍛錬といった経験が、あの弟子には足りていない。
 しかし、少年は此処を離れる事はできなかった。弟子が退治しに行った悪魔の呪いを、ここで食い止めるという役目があるのだ。生半可な力しか持たない他の聖職者では、この呪いは止めきれない。
「もし君が……」
 少年の迷いを見透かしたように、男が優しく語りかける。
「命を賭して彼を救いたいと望むなら、私が手を貸してもいい」
 その言葉に、少年はハッとして男を見る。
 漆黒の堕天使は、悪魔のように穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「契約、だよ」
「……なんじゃ、珍しい。堕天使でも契約はできるのかの?」
「さて、どうだろうね。
 この場合、私が確認したいのは、君が大きな代償を支払ってでも、彼を助けたいかどうか、だ」
 言われて、少年は口を噤んで俯く。その顔には、迷い。
 だが、彼は直ぐに顔をあげると、まっすぐな視線を男に向けた。
「よかろう。お主と契約しよう。
 どうせ長く生きすぎた生じゃ。可愛い弟子の為ならば、今更惜しくもない。
 魂にしても、食われてしまえば痛みも何も無かろう」
 本気を見せる決意の眼差しに、堕天使は穏やかな笑みを崩さず頷く。
「成る程。分かった。契約成立だね」
「して、本当のところ、対価は何なのじゃ?」
「ふふ。別に、殺しはしないよ。ただ、ほんの少し……」
 いたずらっぽく笑いながら答えた堕天使の言葉に、少年は拍子抜けしたような、呆れた表情を浮かべたのだった。



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