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「おかえりなさいませ」
「また暫く篭るよ。今度は誰も入れないようにね」
「かしこまりました」
一人で城に帰還した城主に、出来た部下は何があったかは問わない。
ただ、言われるままに従うだけだ。
新しい酒とよく磨かれたグラスをいつものサイドテーブルに用意すると、そのまま礼だけを残して部屋を出て行く。
残された城主は一人、いつものように自分でグラスに酒を注ぐと、いつものようにソファに身を預けた。
グラスの中で揺れる、赤い酒。
その向こうに見るのは、鮮明に脳に焼きついた、眩しい光。
「ホーリィ、か」
名前が変わっても、その存在は分かる。
忘れていたのに。
やっと、忘れられたと思ったのに。
愛しい、愛しい、半身。
神に命じられるままに、彼を滅したのは、過去の自分。
失った存在の大きさとそれゆえの孤独に耐え切れず、白い翼を捨てて地へと堕ちた。
グラスを傾ければ、酒が傷ついた唇に沁みる。
その痛みに、リコリスは肩を震わせた。
「ふふ……ふふふ」
それは徐々に大きくなり、やがて声へ変わる。
「……あは……あははははっ」
声を上げ、狂ったように笑いだす。
普段の穏やかな彼を知る者が見れば、その様子に目を剥いたかもしれない。
今にも泣き出しそうな歪んだ顔で、だが枯れた涙など流れるはずもなく、ただ乾いた笑い声だけが部屋に響いて。
そして、怒りのままにグラスを床に叩きつけ、リコリスは叫んだ。
「何処まで無慈悲なんだ、神は!」
自分が堕ちてから作られた天使。
彼と同じ光を……魂を持つ存在。
求めて求めて、手に入らないことに絶望して、諦めて、穴を埋めるために天界を去ったというのに。
埋まらない空洞を埋めるための存在を、忘れることでようやく今の状況に落ち着いたというのに。
あの時、求めてやまなかった半身は今、確かに天界に……決して相容れない場所に、存在している。
「…………」
握り締める焼けた手の平が、胸に沁みて痛い。
ようやく触れられた愛しい光は、しかし相手を傷つけまいとすればするほど、自分を傷つけた。
相反する力を持つ、天使と悪魔だ。
その相性の悪さは、触れ合う障害は、初めからわかっている。
たとえ、元は同じものだったとしても。
相容れることなど、出来はしないのだ。
痛みに誘発されるように、後悔ばかりが思い出されて、自分の心を蝕んでいく。
あの時、彼の後を追っていたら。
あの時、堕ちずに待ち続けていたら。
関係は変わっていただろうか?
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように呟き、リコリスは己を嘲笑う。
そして、緩やかな動きで、傷ついた手の平に恭しく唇を寄せる。
今はここにいない、美しい天使に想いを馳せて。
聖なるもの。神に愛された天使。
「愛してるよ、ホーリィ」
震える声で、搾り出すように呟かれる、届かない想い。
それでも、言わずには居られない。
欲さずには、居られない。
「早く……私の名前を、見つけてくれ……」
見つけ出して。思い出して。
その暖かで清らかな声で、縛って欲しい。
その眩しい光で、美しい手で、この苦しみに、終焉を。
かつて、君に、したことを、次は、君が。
「でなければ……君を、食べてしまうよ……?」
その毒ごと噛み砕いて、飲み込んで。
今度こそ、離れないように、一つになって。
そうしたら、この存在に大きく開いた穴も、埋められるかもしれない。
あぁ、なんて素晴らしい幻想だろう!
「ふふ……ふふふっ……」
叶うはずのない、叶える気もない己の妄想に、笑みが零れる。
そうして暫くの間、憐れな上級悪魔は、静寂に満ちた部屋に虚しい笑い声を響かせていたのだった。
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