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 リコリスは目の前の美しい天使に微笑むと、不意に足元に転がしていた悪魔の拘束を解く。
「……あっ……」
 瞬間、当然のように逃げ出した悪魔。
 追いかけようとした天使よりも早く、黒い炎がその悪魔を追った。
 直後。
「ぎゃああああああああああッ!!!!!」
 耳を塞ぎたくなるような、絶叫が鼓膜を揺るがす。
 宙を飛ぶ、二枚の黒い翼、二本の腕、二本の足。
 地面に叩きつけられる、全体的に丸みを増した胴。
 それを振り返ることもせず、黒い炎を纏った上級悪魔はにっこりと微笑んだ。
 いっそ見惚れるほどの美しさで。天使のような優しい眼差しで。
「約束したからね。それに、この方が君もやりやすいだろう?」
 炎を鞭の用に撓らせ、呻く中級悪魔の体を持ち上げるとそのままホーリィの足元に置いた。
「どうぞ。後は好きにして構わないよ」
「……ッ」
 嫌悪感だろうか。苦い表情をしたホーリィは、しかしそれを堪えて意識を集中し始める。
 一気に大きな術を組み上げ、憐れな悪魔に矛先を向けた。
 一息で終わらせるのは、せめてもの慈悲かもしれない。
「…………ッ!!!!」
 断末魔の悲鳴すら上げず、一体の悪魔が消滅する。
 弾け飛んだ悪魔の欠片を、黒い炎が追い、捕まえ、一瞬大きく燃え上がったかと思うと、直ぐに消火する。
 ハッとして天使が炎の主を見ると、彼は変わらぬ笑顔を浮かべているだけで。
 ホーリィから見れば、この悪魔が討伐を手伝ったように見えたかもしれない。
 実際は、欠片の力を吸収し、己の力に変えただけだ。
「欠片が散ると、厄介だろう?」
 だが、リコリスはそんなことなど微塵も感じさせない優しい笑顔で、そう告げた。
 笑顔に絆されたのか、一体の悪魔を廃した安堵からか、ホーリィは疲れと呆れを滲ませた微笑を、唇に浮かべた。
「……変わった悪魔だな」
 彼本来のものに違いない、ほんの少し気を許したような、柔らかな微笑み。
 どこか懐かしい……ともすれば、夢かと錯覚してしまうほどの、美しい表情。

 気がつけば、リコリスの体は動いていた。

 ふらりと足を踏み出すと、細い天使の腕を掴み、引き寄せ、唇を寄せる。

「……っ!?」

 掠めるような、口付け。

 直ぐに体制を整え、離れる体。
 その優れた反射神経は、さすが能天使というべきか。

 唇を隠すようにして後ずさる天使に、驚きはあっても痛がる様子は無い。
 リコリスは、天使に触れた手に、唇に感じている、焼けるような痛みを微塵も感じさせない平静さで嗤った。
「ごちそうさま」
「……ッ!」
 顔を赤くした純情な天使は、お返しとばかりに攻撃を放ってくる。
 当然、狙いも練りも甘い中級天使の術など、上級悪魔にとって何の脅威もない。
 天使から距離を取り、防御壁で簡単に弾いたリコリスは、挑発するように薄く嗤った。
「私に当てたければ、真名を見つけることだ」
 真名で縛って。動きを止めて。
 それには、真名を知るだけではなく、上級悪魔を凌ぐ力を手にしなければならない。
 悔しそうに唇を噛み締め、ホーリィは悪魔を一睨みすると、逃げるように空間の向こうに消える。
 リコリスはその様子を、ただ笑みを浮かべたまま、何もせずに見送る。

 その表情には、僅かに懐かしむような、惜しむような色が浮かんでいた。



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