= 3 =
遠くで響く、鐘の音。窓の外で聞こえる、鳥のさえずり。
泥沼のような眠りから無理矢理覚醒したジュレクティオは、鐘の音をぼんやりと聞いていた。
朝のミサの鐘。司祭が取り仕切る、毎朝の大事な仕事の一つ。ここは大きな教会故、所属する司祭も何人かいる。そのため、ミサの仕切り番は順に回っている。当然、司祭である彼も、ミサには毎朝出ている。今日は彼が仕切る番ではないが、とはいえミサを休むなど、あまり誉められたことではないだろう。
溜息を零して、しかし働かない思考の中、彼の意識は自然と夢の内容に向けられた。
卑猥な夢。本当に、久しぶりに見せられた。……しかも、あれほどの屈辱的で激しいものは初めてだ。
最後は夢の中だというのに、意識を失うように眠りに落ちた。
まったく、好き勝手をしてくれる。夢とはいえ、心は疲労を覚えている。おかげで、体は元気なのに、どこか節々が痛むような……幻の痛みに襲われているのだ。
しかも、心の疲労のせいで、気だるくあまり寝た気がしない。
「……好き、か……」
ぽつり、と呟いた言葉は、随分と軽く意味を持たないものに聞こえる。
そう、重い意味など持たないのだろう。あの天使にとっては。
確かに、自分は他の人間より、好かれている。それぐらいの自負はある。だが、その愛は自分に向けられてはいないということも、ジュレクティオは自覚していた。
天使にとって最も愛すべきは神。その愛を失えば、天使は楽園を追われ、堕天使となる。あの天使が天使であるうちは、自分は彼にとって最も愛すべき相手にはなれないということ。彼を堕天させまいと苦心するということは、同時に、愛されない苦痛に身を焦がすのと同義なのだ。
「……くそっ」
普段は滅多に吐かない乱れた言葉を零し、寝坊した司祭は重い体をゆっくりと起こして、枕もとの聖書と御印を手に取る。そうして、部屋から礼拝堂に向けて膝を付き、やりきれない想いを打ち消そうとするかのように、無心に祈りを捧げた。
「なぁんか、今日のお前、美味そうだよな」
「…………」
舌なめずりをしながら、執務机に腰をかけて下手な誘惑をしかけてくるのは、赤い髪を持つ、褐色の悪魔。
もはや見慣れた光景に怒りもわかず、ジュレクティオは無視を決め込み、ひたすら書類に目を通し、必要事項を記入してはサインを施す。
「何処と無く、気だるげっていうか……艶があるっていうかさ……そういや、朝のミサにも居なかったんだって? 案外あの天使とエロいことして、寝坊したんだったりしてな」
聖職者が聞いて呆れるぜ。と下卑た笑いを浮かべる悪魔を、彼はやはり得意の無表情で受け流す。
ミサの不在に関しては、契約者(というより、完全に束縛されているのだが)の司教に聞いたに違いない。
ちなみに、その司教は今は所用で席を外している。席を外す際、この悪魔にこの場を離れないよう命令しながら、名残惜しげに愛を囁き、部下であるジュレクティオに冷たい一瞥を喰らったというのも、もはや見慣れた光景だ。おまけに言うならば、悪魔のいう『あの天使』は、朝から一度も姿を見ていない。それもまた、珍しいことではないので、誰も気に留めないが。
そう。何もかもいつものことだというのに、他に話し相手もなく面白くないのだろう。悪魔は執務室で唯一同席するジュレクティオに、チョッカイをかけてきたのだ。
書類に落された顎を取り、無理矢理上を向かせて。
抵抗無く上げられた顔に、悪魔は満足そうな顔をする。もっとも、ジュレクティオの顔は、眉が寄った酷く不機嫌なものなのだが。
視界に広がる精悍な顔を暫く見つめ、ジュレクティオはようやく『原因』に思い当たった。そうか。夢のショックで忘れていたが、昨日は……。
「……なぁ、仕事ばっかしてねぇで、たまには息抜きしようぜ?」
「二重契約はご法度じゃないのか」
「ちょっとイイことするだけだろ? 契約のうちにもはいらねーよ」
そう嗤いながら唇を寄せてくる悪魔は、唇が触れ合おうかという瞬間、顔を仰け反り執務机から大きく跳び退いた。
「ちっ」
いつに無く感情を出して舌打ちする司祭の手には、冷たい輝きを放つ銀色のナイフ。所謂聖剣と呼ばれるものだ。しかも、いつの間に唱えたのか、聖なる力がこめられている。
「ちっ……じゃねぇ!あぶねぇだろうが!死んだらどうすんだ!」
「あたりまえだ。廃するつもりでやったんだからな」
ナイフを手に揺らぎ立つ司祭の本気を感じ取り、悪魔は顔面蒼白でたじろぐ。知り合ってからそれほど時は経っていないが、しかしこれほどまでに感情を露にした彼を見たのは、初めてかもしれない。
さっきは類稀なる運動神経で避けられたが、あの本気を受けたら、いくら上級悪魔の自分でも深手を負う事は間違いない……そんな予感がする。いや、確信、か。
「お、俺を廃したら、アイツがだまってねーぞ……」
「丁度良い。あいつにも、そろそろ目を覚ましてもらわないとな」
「むしろ目を覚ますのはお前だ!目が据わってる!」
「俺は正気だ」
「だぁぁぁっ!落ち着けって!」
ひゅんひゅんとナイフが風を切り、悪魔を追う。ジュレクティオの魔力は決して強くないが、長年祓魔師として働いてきただけに戦闘能力はそれなりに高く、剣は早くて容赦が無い。
必死で逃げる悪魔を、逃げるな!という無理な注文を飛ばしながら、司祭は追いかける。
「ただいま!プラリネ、良い子にしてたかい?」
一瞬で戦場と化した執務室の扉を、まるで歌うような明るい声で開けた司教は、書類の飛び交う惨状に目を丸くし……楽しげに目を細めた。
「レッティ、あんまり暴れて部屋を汚すと、クリシュナに怒られるよ?」
その穏やかな声に一瞬動きを止めたジュレクティオは、執務室の扉を見やる。そこに立つ上司の、我関せずと言わんばかりの朗らかな顔に、とうとう最後の堪忍袋の緒がぶち切れた。
「元はといえば、仕事中にお前がこの悪魔を押し倒すから、俺が誤解されてあんな目にあったんだろうがぁ!」
そう。昨日、この司教はあろうことか、執務中に悪魔を押し倒そうとしたのだ。そこに丁度通りかかったジュレクティオが、勢いで倒れこんだ悪魔の下敷きになり、さらに最悪なことに、愛情深い天使にそれを見られて、不名誉極まりない誤解を掛けられた。
その結果が、あの夢の中での執拗で淫靡な『お仕置き』だ。
「何怒ってるの?レッティ」
「うるさい!お前らソコへ直れ!その腐った根性を叩き切ってやるッ!」
「えっ、ちょ、切ったら駄目でしょ!」
キレて説教を始める司祭に、訳がわからないまま説教を受け流す司教と悪魔。
やがて、部屋の掃除に来たシスター・クリシュナから、今度は3人が説教をくらうのだろう。
執務室の窓から覗く、大きな木の枝の上には、一匹の白梟と、黒い猫、そして常人には見えない、仲よさげに寄り添い楽しげな笑いを交わす双子の精霊。
今日も執務室は平和である。
一方、その頃の天界。
「……私は今から少し、疲労回復に眠ります。起こさないで下さいね」
花が咲き乱れる春の丘。天界に戻るなり、朗らかに周囲の下級天使達に釘を刺したのは、能天使フィリタス。
美しい容姿に、人当たりが良い性格。仕事でも有能だと言われている彼は、他の下級天使たちの密やかな憧れだ。
美しい花畑に身をゆだね、幸せそうな寝顔を見せる上司に、下級天使たちは顔を見合わせた。
「なぁ……フィリタス様、疲労回復……の割には、なんか顔色よくないか?」
「しっ!能天使の……しかも有能なフィリタス様ともなれば、我々からは想像もつかないような激務に従事されているに違いない。きっと、天界に戻られて肩の力を抜かれたんだよ」
「そうかぁ……やっぱり、上に上がれば上がるほど、お役目も大変なんだろうなぁ……」
知らぬは仏とはこのことか。
やはり天界も、平和なのであった。
<< back || Story || next >>