lucis lacrima - 1-5

 暫く頭を撫でて貰っていたクロエは、不意に瞼を開けると同じ顔の片割れに手を伸ばした。

 その柔らかい頬に指先で触れて、微かに首を動かし傾げる。さらり、とやや長めの黒い髪が数房、ハクビの膝を滑り落ちた。

「……ハクビ、何か不機嫌だな」

 敏い片割れの言葉に、問われた側は小さく笑う。その笑みは、いつものような明るいものではなく、何処か戸惑いがちで、翳りが見える。

「判る?」

「何となく。何かあったのか?」

「ん……護衛が付くって話があってさ」

「良いじゃないか。今まで誰も傍に置かなかったのが不思議なくらいだ」

 突然の話に驚きつつも、クロエの顔に安堵の笑みが浮かんだ。

 正式に神官になれば、誰でも秘書や身の回りの世話をする神官見習いか、または腕の良い護衛を一人以上傍に置く。

 まだ若いハクビには秘書が必要になるほどの仕事は回ってこないし、見習いをつけるほどの権力も経験も無い。しかし、護衛ぐらいは置いた方が良いとクロエは常々思っていた。

 神官長候補と呼ばれているなら尚更に。

 神宮は外に対する警護は硬いが、中の攻撃には弱い。

 若いが実力があり、上からの評価も高いハクビは、謂れの無い恨みや僻みを向けられているはずだ。そして、それがいつ、大切な片割れの命を脅かす刃になるか、クロエは気が気ではなかった。

「要らないよ、そんなの」

「ハクビ……」

「クロエが傍に居てくれれば、護衛なんて要らなかったのにね」

 小さく苦い笑みを浮かべるハクビの言葉に、クロエは言葉が出てこない。それは、自分の力だけでは何ともならない事だから。

 不浄なものとして神宮を追い出された彼が、たとえ護衛としてでも、もう一度神宮に身を置く事は、どう考えても不可能だ。こうしてハクビの元に来る事ですら、快く思わない者の方が多いのに。

「……ごめん」

「クロエが謝る事なんて無いよ」

 優しい笑顔で頭を撫でられて、クロエはホッとする反面、心苦しくなる。

 大切な人の願いを叶えてやれない自分の無力さに、何とも居たたまれない思いを抱く。

 そんな彼を励ますつもりか、ハクビはにっこりと邪気の無い満面の笑顔で口を開いた。

「気に入らなかったら、直ぐに追い出してやる」

「ハクビ……不穏な事言うなよ。誰かに聞かれたらどうするんだ?」

「大丈夫だよ、人払いしてるから」

「…………」

 どうも、この若い神官は、軍に身を置く自分より、過激な思考回路というか、図太い神経を持っている気がする。

 何を言っても無駄だと長い付き合いで知っているクロエは、それ以上窘めることをせずに軽い溜息を返した。

「お手柔らかに」

「ふふ」

 落ちて来る楽しげな笑いに、諦めと軽い不安を覚えながら。


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