lucis lacrima - 4-11
濡れた足音が脱衣場へ消え、暫く物音がした後、完全に沈黙が降りる。
今度こそ誰も居なくなった浴場で、シラナギは一人、静かに湯に身を沈めた。
腕に残る感覚。何となく湯に洗い流すのが勿体無いと、そう思う自分に苦笑し、暫し腕を眺める。
部屋のシャワーでも事足りたのだが、何となく広い場所で一人落ち着きたくて此処に来た。思いがけず先客に出くわしたが、来た事を後悔するどころか逆に来て良かったとすら思っていた。
寝る前に、あのぐったりと気を失った苦悶の表情ではない、別の表情を見ることができたのだから。
たった今、確かに腕の中にあった身体。
17歳の、しかも軍の隊長とは思えないほどの細く小柄な身体。けれど、その身体から繰り出される刃は、力こそないが俊敏さに長けているのを知っている。もっとも、それを目の当たりにしたのは訓練場で、しかも片手で数えるほどだ。
一度、手合わせしてみたいと思うが、本気でやり合うのは無理だろうと思う。多分、自分は最後の最後で躊躇してしまう……そんな気がした。
シラナギは、ふっと口端を緩めた。
必至に身体を隠す姿が健気で愛しかった。
暗闇の中でも、眩いほど綺麗だと思った。
本人は、数刻前の『会議』の痕を気にしていたようだが。
そんなもの、気にもならない。
綺麗で、美しいと思う。同じ男とは思えないほど。同じ、殺伐とした日常に身を置くとは思えないほど。
穢れない心。純粋で、無垢で、まるで天からの使いだと、あの黒い瞳を向けられるたびに思う。
そして、あの身体をその腕に抱くたびに感じるのだ。
純粋なものを穢し傷つける罪悪感と、それに縋られ求められる優越感を。
我ながら何と罰当たりかと思う。それでも、誰にも譲れない役回りだと思った。
「……殺して欲しい、か」
泣きそうな瞳を向けられるたびに、それを叶えてやれない自分に胸が痛む。
壊してやりたい。むちゃくちゃに。自分だけをあの瞳に映させて。
二度と泣かなくていいように。自分以外の人間に縋る前に。
この手で、終わらせてやりたいと願う。
そして同時に思うのだ。
その瞬間、あの天使はどんな笑顔を見せてくれるのだろうか、と。
満ち足りた、全てから解放されたその笑みは、どれほど美しいのだろうかと。
「……ッ、」
シラナギは、暴走しそうな己の衝動を抑えるように眉を寄せると、両手に拳を作り強く握り締めた。
震える身体に合わせて、赤い髪も微かに揺れる。
肺から搾り出すように息を吐くと、ゆっくり身体の力を抜いて立ち上がった。
「逆上せたな」
違う、と喚く自分の中の獣を無視し、シラナギは無表情に呟く。
此処最近、出陣が増えたせいで、増強術を掛ける回数が増えている。同時に、ふとした瞬間に身の内から湧き上がる凶暴な衝動を感じる回数も増えていた。術の副作用だ。
いつまで、この破壊衝動を抑えられるのだろうか。
衝動に飲み込まれる事よりも、それに飲み込まれた瞬間、自分が見境なく周囲の人間を傷つけるかもしれないということが怖かった。
特に、あの美しい青年を。
どうせなら、彼が望む瞬間に、望みどおりに、苦しむことなく一息に終わらせてやりたい。
「……殺して欲しいのは、自分の方かもしれないな」
堂々巡りの思考に、もう一度、溜息のような深い呼吸を残して、シラナギは浴槽から足を上げる。
そして、一度も振り返ることなく、彼は浴場を後にしたのだった。
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