lucis lacrima - 4-10

「クロエ、か?」

「…………」

 静かな低い声。問いかけに、身を隠す青年は小さな首肯で返す。見えているか分からないが。

 それでも明るい場所に出ることも、湯から出ることもしなかった。……見られたくはなかった。たとえ、先程まで散々見られていたのだとしても。

「…………」

「…………」

 初めてかもしれない。この時間に、誰かと浴場で一緒になるのは。

 長い沈黙の時間。浴槽の外で身体を清めるシラナギは、クロエを気遣ってか、はたまた彼を気にもしていないのか、声を掛けようとしない。

 どうしたらよいか分からず、クロエはただ悶々と湯の中で時間の経過を感じている。頭の中がグルグルとして、何も考えられない。

 何か言った方がいいだろうか。でも、何を? できれば、早くこの場から逃げ出したい。でも、脱衣場へ出るにはどう頑張ってもシラナギの前を通る道しかない。

 と、不意に男が湯に入り、先客の方へ近づいてきた。

 揺れる水面の波が徐々に強くなるのを見て、緊張がドンドン高まっていく。

「……お前……」

「……ッ」

 声を掛けられ腕を掴まれて、とうとうクロエは勢い良く立ち上がり、その手を振り払うようにして脱衣場へ逃げ出した。

 否、逃げ出そうとした。立ち上がった瞬間、世界が歪んで真っ暗にならなければ、何事もなく目の前の男の視線から逃れていただろう。

 しかし現実は、逆上せた頭が身体についていけず、逃げるどころか男の腕の中にまるで飛び込むようにその身体を預けていた。力強い腕が、小柄な身体をしっかりと抱きとめる。

 その腕のひんやりとした体温に思わずホッとする自分に気付いて、クロエは羞恥に慌てた。

「ご、ごめん……」

「いや。大丈夫か?」

 静かな声に、動揺する自分が更に恥ずかしくなって、無言で首を上下に振る。

 しっかりした動きだったからだろう。もう大丈夫だと思ったようで、シラナギは支える腕の力を抜いてクロエの身体を解放した。

 離れていく腕が何となく寂しく感じるのを敢えて気付かない振りをして、彼は小さく礼を告げた。

「ありがとう」

「いや。気をつけろ」

「……うん」

 忠告に頷きつつ、クロエは脱衣場へと小走りに進む。背中に、痛いほどの視線を感じながら。


  
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