酸いも、甘いも - 8

「今日はどうするかな……」

 窓の外に視線を向けて呟く魔王に、セナは再び目の前の胸に顔を埋めた。

 それが、男の庇護欲を掻きたてるとも気付かずに。

「……どうした?」

「………………」

 問いかけに答えられず、セナは硬い無表情で黙り込む。

 叫びだしそうなほどの不安を抱える、己の心を抑え込んで。

 今胸に浮かんだ言葉を、言うか否か。


 救世主としては、決して言うべきではない言葉。

 それでも……一人になるとどうしても不安で。

 徐々に近くなる救世主の剣が、逃れられない使命が、胸を締め付けてきて……。

 久々に雷を間近で感じたせいで、心が弱くなっているのかもしれない。

 今日は、押しつぶされそうなあの不安に、耐えられない予感がするのだ。


 思い悩んで硬くなるセナの体に、セナドールはほんの僅か苦しげな表情を見せた後、それを慈愛の笑みに変えて胸の中を見やった。

 頭を撫でながら、子供に諭すように甘い声で問いかける。

「セナ、どうして欲しい?」

 明らかに狼狽する気配。

 益々緊張に硬くなった体に、セナドールは笑みを浮かべる。きっと、隠された顔は、無表情なのだろう、と。

 その素直じゃない不器用さが、愛しくてたまらない。

「セナ」

「…………」

 髪を撫でて、抱き締めて。

 ゆっくりと、優しく促して。

 不意に、セナの顔が歪んだ。

 優しい熱が、氷のように硬く閉ざした心を溶かしてきて。

 彼は、泣きそうな顔を見られないように、さらに男の胸に顔を深く埋めた。

「……今日だけで、いい……傍に、いてほしい……」

 震える声で、懇願する。

 多くは望めないから。せめて、雨の間だけでも。

 その全てを胸で受け止め、セナドールは優しく言った。

「今日だけなんて言わずに、一緒にいてやるさ」

 手の届く場所にいる限りは。

 命尽きるまで、『ずっと』。

 セナドールは隠された美麗な顔を無理やり上げさせると、額に、瞼に、頬に、唇に、口付けを降らす。

 強張った顔を、解すように、優しく、羽が舞い降りるように。

 甘いだけの口付けは、幸せと共に、泣きたくなるほど胸を満たして。

「愛してる、セナ」

「……俺も、愛している……セナドール」

 覚えたばかりの愛を伝え合えば、自然と笑みが浮かぶ。

 言いようの無い幸福感と、隠し切れない不安とがない交ぜになった、笑みが。

「お前と一緒に閉じ込められるなら、雨も悪くないな」

 軽口を叩くセナドールの言葉に、セナの目が僅かに見開かれた。

 さっきは、気分が悪い、とまで言って、雨を毛嫌いしていたのに。

 あっさりと意見を変えてしまう、その身替りの早さと前向きな思考に、今度こそセナの顔に明るい笑みが浮かんだ。

 本当に、この魔王は色々なことを教えてくれる。

「俺も、お前と一緒なら、雷も悪くない、と、思う」

「そりゃ良かった」

 幸せな笑みを交わして、二人は互いの体を引き寄せるように抱き合い、どちらともなく唇を寄せた。


 雨が、二人を部屋に閉じ込める。

 下界も、時間も、立場も、使命すらからも隔離するように。

 まだ止みそうもない激しい雨の陰で世界から隠れるように、二人はつかの間の純然たる幸福に酔いしれた。


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