えろいぞん 1


 「マモナク カイオウセイ ニ トウチャク シマス! すりーぷ カイジョ シマス…」

 耳障りな機械音で目が覚める。身体を覆っていた液体がゴボゴボと音を立てて、下の管から排出されていく。乾いた風が吹き付けられながら、僕はまどろみの世界から徐々に意識と感覚を取り戻していく。

 「カンソウ シュウリョウ。シンタイ ニ イジョウ ハ アリマセン…」

 ウイイイン…

 扉が開く。コールドスリープ装置がストップする。僕は完全に目を覚まし、裸のまま、宇宙船のスリープルームに立つ。

 佐藤:「艦長、大丈夫ですか?」

 綾瀬:「…ああ。何日経った?」

 佐藤:「56日です。」

 綾瀬:「そうか…」

 僕は電子カレンダーを見た。2856年7月8日。なるほど。

 佐藤:「着替えはこちらに。海王星はもう目前です。」

 綾瀬:「分かった。…ほかのメンバーは?」

 佐藤:「あとは博士だけです。牧野と田中はすでに準備できています。」

 綾瀬:「…博士が起きなかったら何も始まらんな。」

 佐藤:「間もなくだと思いますよ。」

 綾瀬:「…。」

 僕は佐藤に渡された着替えを黙々と身につける。下腹部にぴったりフィットする、宇宙用の軽微なパンツだ。装着すると、粒子の膜が全身を包み、様々な危険から身を守ってくれる。佐藤も僕も、ほかのメンバーも、このブリーフ一枚で宇宙船を歩くことができる。寒さや熱にも強く、物理的なダメージも跳ね返す。粒子の膜があるおかげで、真空の中に飛び出しても大丈夫だ。たえず空気が生成され、そのまま呼吸ができるのだ。それでいて、膜が肉体の感覚を損なわないよう、触ったら触った手触りが感じられるように調整されているので、普通に字を書くことができるし、何かを食べれば味を感じることができる。

 この装置が完成したのがおよそ100年前。改良に改良が加えられ、現在の形になった。それ以前は、宇宙服などという重装備がなければ、宇宙空間を旅することができなかったのだが、この発明のおかげで、パンツだけでどこにでも行かれるようになったわけだ。もちろん、男性用はブリーフ一枚だが、女性用はブラジャーで胸を隠せるセパレーツ型になっている。

 着替えを済ませ、メインルームに足を運ぶと、すでに牧野と田中がモニターをチェックし、コンピュータを操作して、宇宙船の軌道修正を進めているようだ。

 田中:「綾瀬艦長。おつかれさまです。」

 綾瀬:「ああ。…状況を報告してくれ。」

 田中:「はい。七星号(ななほしごう)は間もなく、海王星に到着します。周囲を回っていると思われるマツモ・トリセ号の発見のため、レーダーおよび小型探索機発射準備に取りかかっているところです。」

 牧野:「七星号内部における異常は何も確認できていません。計器、空調、電気系統などの異常・トラブルは全くありません。」

 綾瀬:「分かった。ただ、まだ探査には入らないでくれ。井笠博士が目覚め、僕たちの任務の詳細が分かってからだ。」

 佐藤:「…博士の説明次第、ですか?」

 綾瀬:「ああ。結局僕たちは、博士から何も聞かされないまま、長期休暇をつぶされてまで海王星まで連れて来られたわけだからな。…任務の内容次第では、このまま地球まで引き返す。」

 佐藤:「…。」

 井笠:「…みんな、海王星には着いたようだね。」

 全員が一斉に入り口付近に目をやる。一番遅くコールドスリープから目覚めた小柄な少年が、ブリーフ一枚で華奢な体をゆらしながら歩いてくる。

 綾瀬:「見てのとおりだよ。あとはマツモ号の発見と、探査だな。しかし…」

 井笠:「おっと、艦長、略して言うのはやめてくれ。マツモ号ではなく、マツモ・トリセ号だ。」

 綾瀬:「…。」

 一同が博士を見る目は、明らかに好意を含んだものではない。あからさまな敵意とまでは行かないが、その視線は冷ややかだ。

 佐藤:「一旦、ミーティングルームに行きませんか。」

 綾瀬:「そうだな。作業に一段落がついたら全員移動せよ。」

 田中:「分かりました。」

 20分後、全員がミーティングルームに集まった。佐藤がジュースやコーヒーや紅茶など、メンバーの好みに合わせて飲み物を用意する。

 綾瀬:「さて。僕たちはいよいよ、海王星に到着、これからマツモ号…マツモ・トリセ号の探索に入り、見つけ次第、内部の調査、および牽引して地球に回収という作業に入るわけだが…」

 牧野:「…このままじゃあ、動けないよなあ。博士?」

 佐藤:「俺たちにも分かるように説明してくれよ。」

 田中:「一体、あの宇宙船に何が起こったのだ?」

 井笠:「…。」

 綾瀬:「博士。僕たちは任務と言われ、作業内容だけは聞かされてここまで連れて来られたけど、具体的な事情や、システム、出来事などの詳細はまったく聞かされていない。宇宙空間は危険に満ちあふれている。情報はなるべく詳細に越したことはない。一体、あの宇宙船に何が起こったのか。そもそもマツモ・トリセ号とは何なのか。ちゃんと説明がなければ、僕たちの安全は保証できない。」

 牧野:「映画みたいにヘンなクリーチャーが襲いかかるってのはごめんだぜ。」

 田中:「あっはは。それは映画の見過ぎだよ!」

 佐藤:「地球周辺6万光年の範囲に高度な生命はいないって、150年以上前に証明されてるんだし!」

 井笠:「…6万光年、その範囲なら、な。」

 綾瀬:「…。」

 田中:「ずいぶん含みのあるいい方だなあ。もったいぶりやがって。」

 井笠:「…。」

 綾瀬:「よせよ。」僕は田中と博士が一触即発ににらみ合うのを制した。

 綾瀬:「とにかく、博士の知っていることをちゃんと説明してくれ。それがなければ、僕たちは動くことができない。」

 井笠:「説明したら、任務を遂行する保証はあるのか?」

 田中:「あぁ?」

 綾瀬:「やめろ。…保証はない。場合によっては引き返す。我々の身の安全が保たれないと判断した場合は、任務は中断する。だが、説明がなければ、僕たちは動かない。任務は拒否される。…どのみち、ここから先に進むために、博士の説明は欠かせないってことだ。」

 井笠:「…。」

 博士は視線を空にあげ、何かを考えているようだった。説明する言葉を選んでいるようだった。

 井笠:「マツモ・トリセ号は、私の発明の中の最高傑作だ。人類の宇宙探査を劇的に変える可能性を秘めた、前人未踏の技術が搭載されている。」

 佐藤:「だが去年、実験中に突然、乗組員と共に行方不明になり、…数ヶ月後、なぜか突然海王星に姿を現した。」

 田中:「乗組員の安否は不明だが、マツモ・トリセ号からの信号が地球に届き、すぐさま調査に向かうということで、俺たちのチームが派遣されたわけだな。」

 綾瀬:「一体マツモ・トリセ号に何が起こったのだ。あの宇宙船には何があるのだ。」

 井笠:「…世界初の、ワープ航法を搭載した宇宙船だよ。」

 佐藤:「ワープだって!?」

 牧野:「だってあれは…!!」

 綾瀬:「確か、重力の制御がきかず、実現不可能だとハルク博士が証明したはずだ。」

 ワープ。宇宙空間を光速以上で移動する画期的な方法で、今から数百年以上前にはすでに、発想自体はあった。だが、空間をゆがめ、あるいは素粒子を用いたり、ブラックホールやワームホールを用いたりと、ありとあらゆる方法で試行と実験をくり返した結果、どうしても高エネルギーと時間と重力の制御ができないことが分かり、ワープは不可能だと、50年くらい前にハルク博士が証明し、以後、開発は断念された考え方なのだ。

 井笠:「…私は、ある方法で、ワープを可能にした。説明するのは難しいが、一度この宇宙空間を離れ、10次元の膜の外に宇宙船を出して、そこから好きな座標軸を選んで宇宙船を戻すやり方だ。世界そのものを飛び越えるんだ。」

 佐藤:「何言ってるのかわかんないよ。」

 井笠:「そうだろうね。説明は難しい。とにかく私は、その方法を搭載した宇宙船の開発に成功した。今から3年前、7歳の時だ。そこから試行錯誤を重ね、去年、9歳の時にマツモ・トリセ号が完成、『チーム・かねこ』のメンバーを選んで、試験航行をしてもらった。ところが…」

 綾瀬:「実験直後、マツモ・トリセ号が行方不明になり、通信が途絶える。」

 井笠:「そう。そしてこの前突然、海王星から信号が送られてきたというわけだ。」

 綾瀬:「あの宇宙船で、一体何が起こったのだ。」

 井笠:「それを調査するのが、『チーム・あやせ』、君たちの任務なんだ。」

 田中:「…。」

 佐藤:「冗談じゃあないぞ。」

 綾瀬:「僕たちの安全は保証されないわけだな。」

 井笠:「…そう言われると思って、なるべく説明はしたくなかった。」

 田中:「てめえいいかげんに…」

 綾瀬:「よさないか。…とにかく、ある程度の危険は覚悟しないといけないね。何が起こったかわからない状態で調査をするのだから。金子さんたちの消息も不明なままとあっては、未知の出来事が起こる可能性は想定しておかなければ。」

 井笠:「当初の予定では、マツモ・トリセ号は天の川銀河を脱出してその全貌を写真に収め、地球に帰ってくるという実験だった。だが、船は行方不明になり、また突然姿を現して、金子艦長を初め、メンバーたちの行方もわかっていない状態。私は…原因調査もそうだが、もう一度、ワープの精度を高めたいと思っている。さらに改善すれば、このようなことはもう起こらない。」

 田中:「そのつど行方不明者を出し続ける気かよ!」

 井笠:「この航法が確立されれば、宇宙のどこにでも行かれるし、応用すれば、過去へさかのぼるタイムマシンだって作れるんだ。人類の宇宙探査の歴史を、一気に最高位まで塗り替えられる。タイムマシンで、犠牲を取り戻すことだって可能だ。」

 佐藤:「ばかげている。艦長、戻りましょう。」

 綾瀬:「そうだな…」

 井笠:「待ってくれ。頼む、せめてマツモ・トリセ号の発見と、地球への牽引だけでも頼みたい! 地球に戻ってから、内部の調査は私がやろう。」

 牧野:「それはダメです。どんな状態になっているか分からない宇宙船を地球に近づけるのは危険だ。宇宙中を旅できる宇宙船ならなおさら、どんなウイルスが潜んでいるやら…」

 田中:「それこそ化け物がいたら一巻の終わりだぜ。」

 綾瀬:「化け物の可能性は低いだろうが、やはりひととおりの調査を済ませなければ地球には牽引できない。」

 佐藤:「やるんですか! 艦長?」

 綾瀬:「ここで僕たちが引き返すのは簡単だ。でも、こいつ…いや、井笠博士は、きっと別のチームを引き連れて海王星に来るだろう。そのチームが内部を調査し、マツモ・トリセ号を地球に運んでくる。どのみち同じ結果さ。」

 井笠:「やってくれるのか!」

 綾瀬:「ただし、少しでも危険が分かれば、即座に引き返す。いいな?」

 井笠:「…かまわない。そこは艦長の判断でいい。」

 綾瀬:「よし。そうと分かれば、さっそく探査を開始する。みんな配置についてくれ。」

 僕の指示でメンバーが動き出す。ミーティングルームには、僕と博士だけが残った。

 井笠:「…私が疎まれているのは重々分かっているよ、綾瀬艦長。」

 綾瀬:「…分かっているのなら、おとなしくしていることだな。あんまりメンバーの神経を逆なでしないでもらいたいものだ。」

 井笠:「…。」

 綾瀬:「一つだけ言っておく。君のことが嫌いなのは目立って田中だが、…僕は田中以上に君のことが嫌いだ。」

 井笠:「覚えておくよ。」

 さて。

 状況を確認しておこうかな。

 井笠博士(10)の作ったマツモ・トリセ号が、去年、突然行方不明になり、乗組員だったチーム・かねこのメンバーも消息が絶たれた。金子艦長(16)のメンバーは男子3人女子5人の若者グループ、僕たちと同じ宇宙先端調査部隊に属していた。マツモ・トリセ号は、禁断のワープ航法を画期的な方法で搭載した、井笠博士の最高傑作だそうだ。

 そのマツモ・トリセ号が、去年、急に姿を現し、不可解な信号を地球に送ってきた。そこで、チーム・あやせ、つまり僕たちが井笠博士と共に調査に訪れる。

 マツモ・トリセ号は、安全のために一度海王星まで通常運行され、そこからワープが試みられたらしい。そのワープが成功したのか失敗したのか、数ヶ月間、空白の時期が過ぎた。そして海王星に戻ってきたというわけだ。

 マツモ・トリセ号が姿を現したものの、依然として金子艦長からのメッセージも音信もない。ただ、意味の掴めないメッセージが電気信号で流れてくるだけ。いや、ただのランダムな電波とでも言うべきか。

 僕、綾瀬孝(15)を艦長とする、田中(16)、佐藤(11)、牧野(15)のチームで、金子さんたちの行方を調査し、マツモ・トリセ号に何があったのかを明らかにし、安全が確認され次第地球に牽引してくる。それが今回の任務だ。長期休暇を楽しもうとした矢先の任務だった。

 僕たちの宇宙船、七星号は、56日間かけて海王星に到着。太陽系内では光速移動が禁じられているため、大昔の推進法で移動することになっている。その間メンバーはコールドスリープに入り、肉体の時間が経たないよう、仮死状態に入る。夢も見ず、ただ時間が過ぎる中でカプセルに入って、特別な液体に浸かって56日間を過ごしたわけである。つまり、長期休暇のほとんどを海王星に行くことに費やしてしまったわけだ。

 井笠博士とはあまり面識がなく、休日をつぶされた上で秘密も多いとなっては、メンバーたちが博士に不満を抱くのも致し方のないことだ。

 メンバーの安全を最優先に考える艦長としては、一番博士のやり方が気にくわない。井笠博士の意向なんてどうでもいい。とにかく、少しでも危ないと分かったら引き返そう。…金子さんが無事ならいいのだが。彼女がもし、万が一の状態になっていたら…多分僕は井笠を許さないだろう。

 金子綾乃さん…僕のあこがれの人であり、本当は…チーム・あやせなんて作らず、僕自身がチーム・かねこの一メンバーでありたかった。

 チーム・かねこのメンバーは、艦長のほか、佐竹君(17)、箕輪君(20)、米田君(17)、新井さん(18)、篠沢さん(16)、鈴原さん(13)、新田さん(24)。全員が消息不明だ。彼ら彼女らはどうなってしまったのか。

 とにかく、船を探そう。…他のメンバーが反対しても、多分僕はマツモ・トリセ号の調査をするだろう。金子さんのために。…一方で、チーム・あやせのメンバーの安全も最優先に考えないとね。艦長として失格な行動は慎まなければ、金子さんに笑われる。

 ちなみに、井笠博士は7歳でワープ航法を編み出したと言うが、とくに天才というわけでもない。僕たちを含め、地球では、ありとあらゆる学識、知識、技術を、物心つくと同時に電気信号ですり込まれる。最高の科学知識や技術のすべてが、全人類、幼子のうちに脳に刻まれるようになっている。だから大昔のような学校は必要ではないし、すこし身体を鍛えさえすれば、10代で宇宙飛行士の最先端になることも珍しいわけではない。井笠のように5歳で博士号を取得するのも難しくない。あいつがワープを発明したのは多分偶然なのだろう。

 田中:「艦長! すぐ来てください!」

 田中から通信が入る。

 綾瀬:「どうした!」

 田中:「見つかりました! マツモ・トリセ号が見つかりました!」

 綾瀬:「何だって!?」

 ずいぶんあっさりと見つかったものだ。僕はメインルームに走っていく。

 メインルームの巨大モニターには、黒光りする巨大な宇宙船が映し出されていた。

 井笠:「あああ! 間違いない! マツモ・トリセ号だ!」

 田中:「あれが…」

 綾瀬:「マツモ・トリセ号…」

 僕たちは息を飲んだ。七星号よりもはるかに大きな、宇宙船というよりはもはや一つの基地のようだった。

 佐藤:「こちらからの信号に応答はありません。それに…」

 綾瀬:「どうした。はっきりと言ってくれ…」

 佐藤:「宇宙船からの生命反応がありません。温度も絶対零度にまで下がっています。」

 綾瀬:「!!」

 絶望的だった。

 生命反応がない、温度も調整されていない…極寒の世界になっている。つまり、金子さんたちが生きられる環境にはないということ。いくらこの宇宙服が粒子コーティングされているといっても、長時間絶対零度に耐え切れる保証はない。だからこそ、宇宙船内では空気生成、温度調節、重力調節が欠かせないのだ。それが機能しておらず、生命反応がないということは、金子さんたちは…

 綾瀬:「とにかく、宇宙船を連結する前に、探査ロボットを送り込むんだ。内部を調べる。」

 佐藤:「分かりました。」

 小型のロボットが宇宙船に送り込まれる。モニターに内部の様子が映し出された。

 田中:「これは…ひどい…」

 綾瀬:「…。」

 中は真っ暗だ。ロボットからの灯りだけが頼りになっている。

 凍り付いた液体。散乱した様々な物体が、無重力で浮かび、漂っている。人影もないし、死体も見あたらない。

 綾瀬:「電気系統は無事か?」

 田中:「何らかの原因で落とされていますが、機械系統に異常は見あたらないようです。」

 綾瀬:「博士、電源はどこにあるのだ。」

 井笠:「宇宙船の中腹だ。前方がメインルーム、ミーティングルーム、生活スペースになっている。後方は…すべてワープ装置だ。」

 牧野:「大がかりなんだな。」

 井笠:「宇宙の粒子をさらに微小にした”ひも”単位での振動を操作するために、これだけの設備が欠かせなかったんだ。軌道に乗れば、小型化もできるかも知れないが…」

 綾瀬:「今はそんなことを議論してる場合じゃないだろ。ロボットを動かす。場所を案内しろ!」

 井笠:「…。もう少し、奥だ…」

 博士の案内どおりにロボットを遠隔操作し、機械室にたどり着いた。

 井笠:「その部屋にすべて揃っている。空気生成、温度調整、重力調節…」

 ロボットが中に入る。

 田中:「やはり異常は見られないですね。事故で電気系統が故障した形跡もない。むしろ…」

 綾瀬:「意図的に電源が落とされている…」

 よほどのことがない限り、重力装置を切ったり、エアコンを切ったり、空気を抜いたりなんてできない。そんなスイッチはない。が、回線の奥の電源を切ってしまえば、自然とそれらのスイッチはオフになる。

 牧野:「エネルギー系統にも問題はありません。燃料もあるし、エネルギー発生装置にも異常はありません。」

 綾瀬:「よし。そのスイッチは人の手で動かさないとだめだろうな。最後に生命反応、ウイルス反応を。」

 佐藤:「それも大丈夫です。真空で、生命反応なし。ウイルスの反応もありません。」

 綾瀬:「田中君、行かれるか?」

 田中:「任せときな。」

 牧野:「俺も行く。」

 綾瀬:「いいだろう。二人で行ってくれ。田中君は機械室のスイッチを稼働させるんだ。牧野君は、前方の探査を先遣する。」

 田中:「オーケー」

 佐藤:「安全確認完了。ただいまより、七星号をマツモ・トリセ号に連結します。」

 七星号が注意深くマツモ・トリセ号に連結される。「レンケツ カンリョウ」機械が音声を流す。

 綾瀬:「一時間は、このブリーフの効果で、真空、絶対零度の中でも行動できる。だが、念には念を入れ、一刻も早くマツモ・トリセ号の環境を整えるんだ。10分以内にスイッチを入れろ。」

 田中:「ああ。」

 綾瀬:「牧野君、気をつけてくれ。少しでも危なくなったら、命綱を引く。」

 牧野:「お願いしますよ!」

 田中と牧野がマツモ・トリセ号に乗り込んだ。シールドを一時解除し、二人を送り込む。再びシールドを張って、モニターから二人の視界を確認した。

 モニターは暗闇だ。電気もつかず、二人のライトだけが周囲を映し出している。

 田中はロボットのいる機械室へと、無重力を推進しながら進んでいった。

 牧野はメインルームのある前方めがけて、ゆったりと、周囲を警戒しながら浮遊していった。

 田中:「機械室に着いたぜ。スイッチはないが…この線だな。」

 機械室の真ん中にある巨大な機械。エネルギー供給のパイプが引き抜かれ、万一この機械が故障した時に稼働するサブコンピュータまで、線を抜かれてしまっていた。

 田中:「解せないな。この線がこんな外側に出てるって事は、誰かが意図的に機械の奥からコードを引っ張り出したってことだ。それを根本から引っこ抜いたら、その瞬間宇宙船は無重力になり、一時間くらいで気温は下がってすべてが凍っちまう。空気は一日でなくなる。宇宙服だけで乗り切れる環境じゃあないんだが。…よっと。」

 ういいいん…

 機械にエネルギーが供給され、メインコンピューターが稼働を始める。

 田中:「後一分後に重力が働くぞ。牧野、大丈夫か!」

 牧野:「大丈夫!」牧野は壁際に寄って、柱に捕まって床に体を固定させた。

 がくん!

 宇宙船の床に重力が発生する!

 ガラガラ! ガチャン! ズドドド!

 無重力で浮かんでいた、コップや手袋や液体が下に落ちる。脆いものは壊れ、床に散乱する。

 ういいいん!

 モーター音が宇宙船中に響き渡り、電気がついた。

 ごおおお…

 ものすごい勢いで風が吹き始める。空気の供給が始まったのだ。温かい風は、宇宙船内の温度をどんど上げていく。

 佐藤:「宇宙船内の破損はありません。10分ほどで、マツモ・トリセ号内部は七星号と同じ環境になります。

 綾瀬:「では、10分経ったら僕と井笠博士がそっちに行く。佐藤君はここに残ってモニターを続けてくれ。異常がないことを確認したら、そのまま地球まで牽引する。」

 井笠:「悪いが、私が七星号に残る。」

 佐藤:「何だって?」

 井笠:「設計者が全体を俯瞰して、君たちに指示した方が効率がいい。」

 綾瀬:「博士。指示を出すのは僕だ。君はあくまでただの学者。僕たちの上にいると思うな。」

 井笠:「誤解を招く言い方だったね。私の方が勝手を知っているから、外からアドバイスした方がいいと思うんだ。」

 佐藤:「僕が行きます。艦長、井笠を置いていきましょう。」

 佐藤は”博士”を付けずに言って、僕を見て笑った。彼も僕と同じ気持ちなのだろう。井笠とは行動を共にしたくない。たしかにそうだ。

 牧野:「うわああああああ!!!!」

 綾瀬:「!!?」

 一瞬、モニターから目を離していた。佐藤も僕も博士も。その時に牧野が絶叫したのだ!

 綾瀬:「どうした牧野! 返答しろ!」

 牧野:「…」

 返答がない。モニターの牧野カメラは真っ黒で何も映っていない。

 綾瀬:「命綱を引け! 早く!」

 佐藤:「はい!」

 佐藤が緊急スイッチを押すと、ものすごい勢いでワイヤーが回転し、牧野をくくりつけたワイヤーが引き戻されていく。

 綾瀬:「!」

 モニターに映像が映し出される! 猛スピードで引き戻されていく牧野の視界だ。

 真っ暗だった画像が、急に開けると、宇宙船の大部屋が映し出される。

 そこに、大きな真っ黒い球体が浮かんでいるのが見えた。ワイヤーがさらに引き戻され、その大部屋を越えて宇宙船内部を駆けめぐり、七星号に戻っていく。

 牧野がメインルームに運ばれてきた。

 綾瀬:「牧野! 大丈夫か!」

 牧野:「…」

 牧野は気を失っている。

 佐藤:「心肺に異常はありません。何か心因性のショックで気を失っているようです。」

 佐藤が緊急医療用のスキャン装置をかざして報告する。

 井笠:「今のは…ワープ装置…マツモ・トリセ号の要だ。」

 綾瀬:「何だと!?」

 佐藤:「外傷なし。内臓その他に損傷もありません。…じきに目を覚ますでしょう。」

 綾瀬:「…一体…何が起こったのだ?」

 井笠:「すまない…私が間違えた。コントロールや生活スペースはマツモ・トリセ号の後方にある。前方は…すべてワープ転送のための大設備なのだ。」

 綾瀬:「まちがえた…だと?」

 嘘だ!

 井笠博士はすべて知り尽くしている。マツモ・トリセ号の詳細も設計も操作方法も熟知しているはずだ。

 綾瀬:「貴様…」

 井笠:「牧野君は…ワープの秘密を垣間見たのだ。それだけのことさ。じきに目を覚ます。安全だよ。」

 綾瀬:「わざとだろう!」僕は井笠に殴りかかった。

 佐藤:「かっ、艦長! おちついて!」

 すんでのところで、井笠を殴り飛ばす前に、佐藤が割って入った。

 佐藤:「命に別状もないしケガも病気もしていないんです。未知のものの恐怖で一時的に気を失っているだけです。落ち着いてください。」

 綾瀬:「未知のもの…牧野君は一体、何を見たんだ。」

 僕は牧野カメラを操作し、巻き戻して再生を始めた。モニターに漆黒の闇が映る。

 井笠:「無駄だよ。内部は光を閉じ込める。何も映らないさ。」

 黒い画面が突然変わる。巨大な部屋。マツモ・トリセ号の前方大半を占める、メインワープコントロールルームだ。

 さっきは一瞬だけ見たが、今度はスロー再生で、じっくりと、部屋の中央に浮かんでいる黒い球体を見ることができた。

 井笠:「真っ先に艦長にこれを見せたくてね。これが私の最高傑作だよ。ワープを可能にする、世界唯一の転送装置さ。」

 佐藤:「お前は黙ってろ!」

 綾瀬:「いや…いい。勝手にしゃべらせておけ。僕もこれが何なのか気になる。」

 僕の興味はもう、井笠にはなかった。

 井笠:「いきなりここに誰かを派遣させようとしても、君は拒否したはずだ。だから、牧野君には悪いが、後方にあるはずの生活スペースを前方だと言ったのだ。悪かった。」

 綾瀬:「…二度とはするな。今度やったら…任務などに関係なく、貴様を処罰する。分かったな。」

 井笠:「…分かった。誓うさ。命の安全はぜったいに保証する。この装置はどうあっても、命の危険はぜったいにないのだ。」

 綾瀬:「…この黒い球体は、一体何なのだ?」

 井笠:「さっきも言ったとおりさ。これによって、ワープが可能になる装置…正確には、装置の“素”(もと)になるものだよ。…不活性反物質の集積だよ。」

 綾瀬:「不活性反物質だと?」

 井笠:「対消滅して爆発してしまう性質を完全に取り除いた、究極の振動エネルギー体だよ。これを究極まで凝縮し、光をも閉じ込めるほどに圧縮して、黒い固まりにまで仕上げたものだ。物質換算にすると太陽の3倍以上の質量がある。これを直径3メートルの球に圧縮し、宙に浮かぶ”黒い液体”になっている。ブラックホールのようなものさ。」

 綾瀬:「液体…」

 井笠:「反物質のスープとでも言うかな。ただし、普通の反物質とも違う、特別な素材だ。宇宙にある普通の物質やエネルギーとは完全に異なる法則をもち、これだけ圧縮しきって置きながらなおも重力に影響を与えず、人体に悪影響もない。しかしその秘めたる力は絶大だ。微小な振動を重ねることで、最小構成単位である素粒子の“ひも”を通り、空間の裏側に移動ができる。つまり、空間を飛び越えて“宇宙の外”に出られるんだよ。コントロール次第で、宇宙船全体を宇宙の外に出すことができる。外に出られさえすれば、距離は関係なくなる。瞬時にして、宇宙のどこへでも、果てであっても、あっという間に飛び越えることができる。つまり、瞬間的に何百億光年先にでも移動できるワープ航法さ。」

 佐藤:「なんだかよく分からんが、ちょっと待ってくれよ。それって、その球体の力を使って宇宙船を動かして宇宙の外に出るんだろ?」

 井笠:「そのとおり。」

 佐藤:「じゃあ、その球体に飛び込む必要はまったくないことになるよな。」

 井笠:「…。」

 綾瀬:「飛び込んだら一体どうなってしまうのだ?」

 井笠:「…何もないよ。ブラックホールやら反物質やらといっても、人体には何も影響はない。普通に通り抜けるだけ。」

 綾瀬:「だが…牧野はそこに飛び込んだ。いや…吸い込まれたんだろう!」

 さらにカメラを巻き戻してみる。暗闇に入る前の牧野の姿が映し出された。

 暗闇。しかし、宇宙船の中にいることは分かる。ふいに灯りがついた。田中が電源を入れたんだ。ほどなくして重力が発生し、宙に浮かんでいたすべての物が下に落ちた。そこからは、宇宙船前方に向かって、牧野は普通に歩いている。

 しかし、彼が前方の扉を開いたとたんに、異変が起こった。

 牧野の体がどんどんブラックホールに吸い込まれている。「うわああああ!!!!!!」「どうした牧野! 返答しろ!」「…。」

 一瞬にして牧野カメラはブラックホールに吸い込まれ、暗闇だけを映し出している。

 井笠:「…吸い込まれないとは言っていないぞ。”普通に通り抜ける”だけだ。実際、ブラックホールそのものだったら、ワイヤーで引っ張って救出できるものではないからな。」

 綾瀬:「中に飛び込んだらどうなる?」

 井笠:「同じことさ。宇宙の外側に移動する。この世界を通り抜けて、な。それだけだ。人体には何も影響はない。ただ、未知のものの恐怖で、初めは気を失う。じきに目を覚ます。それだけさ。」

 綾瀬:「…。」

 僕は牧野の方を見た。ベッドの上でぐったりと横たわっている。ほんとうに、軽い精神的ショックで気絶しているだけなのだろうか。

 綾瀬:「いずれにせよ…我々は二度と、その場所には近づかない。どれほど博士が安全だと言い張っても、だ。」

 井笠:「…。」

 綾瀬:「田中君、機械室から出て左の方へ移動してくれ。」僕は田中の通信に話しかけた。

 田中:「左? マツモ・トリセ号の後ろ側ですか? あそこは…」

 綾瀬:「正確には後方にミーティングルームやコントロールルームがある。前方はワープ装置だったようだ。だから後方に行って、状況を確かめてくれ。」

 田中:「…了解。」

 佐藤:「艦長、この先はどうするつもりですか?」

 綾瀬:「ブラックホールの部屋以外の安全を確認する。ついでに、マツモ・トリセ号の構造を調べる。その調査結果で、これからどうするか判断しよう。」

 井笠:「その必要はない。私が構造を熟知している。」

 綾瀬:「田中が大まかな構造を調査し報告する。その後で僕と佐藤で細部の調査。あの船で何が起こったのかをはっきりさせてから、その後のことを判断しよう。」

 井笠:「…。」

 佐藤:「ふん。ハカセさまの説明は信用できないってことさね。」

 田中:「こいつは大がかりだな。ずいぶん長い通路の先に、申し訳程度にメインルーム、コントロールルーム、それとメンバーの生活空間がある。構造は…普通だな。七星号とあんまり変わんないや。」

 井笠:「軍の規定どおりに作ってある。」

 綾瀬:「前方に巨大な部屋。宇宙船の大半を占める部屋の中央にブラックホールがある。そこから長い通路が続き、通路の途中に重力や空調などのライフラインとなる機械室がある。…それにしても通路が長すぎるな。田中君、通路を調べてくれ。」

 田中:「ああ。…っておい、爆弾があるぞ?」

 井笠:「万一の時のための自爆装置だ。これでマツモ・トリセ号の前方と後方を切り離すことができる。使うこともない機能ではあるが、それでも未知の技術でもある。万一海王星でブラックホールの異常があった時に、切り離して前方のみ離脱させることができる。離脱後は自動的に地球に戻るように軌道をセットしてある。離脱されたブラックホールは、勝手に暴走して宇宙の外側に追放されるだろう。」

 田中:「起爆装置は?」

 井笠:「前方ブラックホール側だ。」

 綾瀬:「田中君、絶対に前方に近づいてはだめだ。…牧野がやられた。」

 田中:「はぁ? やられた? どういうことだよ。」

 綾瀬:「井笠博士がわざと綾瀬をブラックホールのルームに誘い込んで、飛び込ませたのだ。そのショックで彼は今気を失っている。命に別状はないが、まだ気がついてない。」

 田中:「井笠…てめえ…」

 綾瀬:「その問題は後で解決する。僕が全部責任を負うから、メンバーは井笠博士にいかなる私情も挟むな。分かったな。」

 田中:「…りょうかい…」

 佐藤:「生体反応はありますか?」

 田中:「残念ながら…生体反応はない。」

 綾瀬:「そうか…」

 田中:「金子艦長たちの痕跡もまったくない。隊員たちの私物はあちこちに転がっているようだが…衣服はあるな。」

 井笠:「電源が起動したのなら、自動クリーニングが宇宙船全体にたえず行き渡る。髪の毛一本落ちてはいるまい。」

 綾瀬:「そこまで徹底的に船全体を掃除しなければならない理由があったのか?」

 井笠:「…。安全のためさ。」

 綾瀬:「精密機器に影響を及ぼすとでも? おかしいよな…微細な髪や垢が影響するほど脆弱な機器で宇宙に行ったのかい?」

 井笠:「そうではないが…匂いも除去するのでね。ま、私がきれい好きだったからということで納得してくれ。」

 綾瀬:「ふん。肝心なところは嘘と秘密のオンパレードだ。」

 田中:「メインコンピュータを発見。機器に異常はなさそうです。すべて正常に稼働します。このまま運転までできそうだ。」

 綾瀬:「間違っても運転するなよ? ブラックボックスを探せ。」

 井笠:「そんな物はない。」

 佐藤:「ないの? 自動で宇宙船内を映して万一の時に解析するために、設置が義務づけられているんだぜ?」

 井笠:「…設置はしていない。設計段階で取り外すことも許可されている。」

 綾瀬:「おかしいだろう。そんな許可なんか出るはずがない…」

 井笠:「その代わりに、旧式のマイクロDVDで隊員たちが自由に撮影した記録装置があるはずだ。」

 田中:「おいおい…今時DVDかよ。劣化防止タイプ?」

 井笠:「いや。それより古いR58タイプだ。一枚で6000時間の記録ができる。」

 田中:「たった6000…ずいぶん旧式だな。」

 綾瀬:「この船にはR58を再生できる機器はない。」

 井笠:「マツモ・トリセ号にならあるぞ。そこで再生すればいい。」

 佐藤:「艦長…準備ができましたが…どうされますか?」

 潜入開始からとっくに10分以上経過している。が、僕と佐藤をマツモ・トリセ号に乗り込ませることにはまだ躊躇があった。

 綾瀬:「牧野を置いては行かれない。やはり佐藤君が残ってもらおう。行くのは僕と博士だ。田中君がDVDを見つけてから向かうことにする。」

 佐藤:「…そうですね…」

 田中:「…これかな? 艦長! DVDを見つけました。」

 綾瀬:「分かった。これから僕と井笠博士がそちらに行く。引き続き異常がないか、調査を続けてくれ。」

 田中:「了解!」

 僕は調査のための器具を片手に、そしてもう片手にビームガンを持って、井笠と共にマツモ・トリセ号に向かった。

 井笠:「ビームガンなんて役に立たない。」

 綾瀬:「君に持たせる気もないよ。」

 井笠:「本当に役に立たないんだ。ブラックホールの影響で、人体への物理的攻撃は無効化されている。」

 綾瀬:「…人体に影響はない、君はそう言ったよな。」

 井笠:「…。」

 一方、その頃。

 田中:「…それにしても。不気味な船だぜ。」

 田中はマツモ・トリセ号の各ルームを丹念に調べている。メンバーの部屋を見て回っているのだ。私物や仕事の道具はあっても、人の気配がまったくない。生体反応もウイルス反応も何もない。手がかりになりそうな物も何もなかった。

 一体、メンバーたちはどこに消えてしまったのだろう。チーム・かねこに何があったのだろう。

 艦長が到着して、DVD再生の許可が出れば、何か手がかりが得られるかも知れないな。

 とりあえず、田中が調べた限り、何も危険なものは見あたらない。機械も正常、安全だ。

 あとは、メンバーの行方と、船で起こったことの解析が済んだら、地球に帰るだけ、なのかも知れない。

 田中:「ふう。」

 すべての部屋を見た。何もないな。艦長が到着すれば、多分DVDの再生をするだろう。その後、機械配線の調査を命じられるはずだ。天井裏まで丹念に調べ、目視して、異常がなければ、任務は終了となるはず。詳細は地球に帰ってから、専門チームが調べ上げるはずだ。俺たちの仕事は、とりあえず地球に持って帰っても安全かどうかを確かめるだけ。艦長は…金子先輩を慕っているようだったが、悪いけど俺には関係ない。粛々と任務をこなすだけさ。

 井笠の野郎は絶対に許さない。次にヤツの顔を見たら、艦長に怒られてもかまわないから、顔面に一発ぶちかましてやろう。

 それにしても…

 田中は自分の体に若干異変を感じていた。

 体中がじわじわと何かがこみ上げる感覚に包まれているのだ。

 くすぐったいような、興奮するような、奇妙な高揚感がある。微弱であるが、心拍数が通常よりも上がっている。とくにその感覚が、心臓と自分の股間において程度が強かった。

 意識すれば自分が高揚していると分かる程度のもので、別のものに目をやったとたんに吹き飛んでしまうほどの、弱い感覚だ。それでも、何もないのが分かって、ぼーっとする瞬間、体の奥のかすかなくすぐったさにあらためて気づかされるのだ。

 (なんだろうな…この感じ。)

 田中はいぶかしがっていた。

 が、廊下に落ちている写真を拾って見ているだけで、その感覚は認識から抜け落ちてしまう。

 (これは…米田君だ。)

 チーム・かねこのメンバーで通信係をしていた米田の写真だった。カプセルマンションの中で笑顔で写っている。米田の自宅だろう。(やっぱり…メンバーたちの行方は気になるけどな。)田中は写真をしまった。

 田中は再び引き返した。ここを右に曲がると、金子艦長の部屋、まっすぐ進めば、DVDのあるメインルームだ。

 田中:「…。」

 さっき調べた金子艦長の部屋が妙に気になる。(いや…さっき調べて何もなかったからな。)

 田中:「!」左に曲がれば、米田隊員と篠沢隊員の部屋だっけ。写真を米田の部屋に戻しておくか。

 田中は米田の部屋に入り、机に写真を置いた。

 田中:「まだ死んだって訳じゃないかも知れないけどさ。…やすらかに。」

 田中は外に出る。正面には篠沢隊員の部屋。

 田中:「…。」じんと胸が疼き、股間がくすぐったくなる。

 たしか、米田と篠沢ってつきあってたんだったよな。別に篠沢に何か思い入れがある訳じゃあないけど、仲良くやっている二人を見てちょとうらやましいって思ったのを覚えている。

 田中はもう一度篠沢の部屋に入る。彼女の姿はもちろんない。クリーニングが行き届いているので、人がいた痕跡も香りも何も残されていない。

 ベッドの近くに写真が落ちていた。おそらく枕元に置いてあって、しばらく無重力の中で浮かんでいた物だろう。田中はそれを拾い上げる。

 田中:「…。」

 写真には、水着姿の篠沢と米田の姿が映っている。二人の上半身がアップで写っている。米田は上半身裸、篠沢はセパレーツの水着で胸を覆い、それ以外は肌を露出させている。ごく普通の水着だ。

 田中:「う…なんだ…これ…」

 田中はなぜか、写真の篠沢から目が離せなくなっていて、食い入るように彼女の姿を見つめた。ふくらんだ若々しい胸、なめらかな肩や腕の肌ざわり、やわらかそうなお腹…露出された肌色や、水着からあふれる胸の谷間を見ると、異常な興奮が田中の全身を覆い包み、さっき感じていた胸の高鳴りと股間のくすぐったさが、はっきりと意識できるほどに強くなっている。さっきまでの微弱な感覚とははっきり違っていた。

 田中は、これまで異性を見ても、女性的な部分で興奮したことがなかった。だから、彼の肉体に起こっている変化に、彼自身が理解できていないのだ。

 田中:「ああ…なんだ…これ…」

 股間のくすぐったさが強まった。すると、ブリーフを持ち上げて、ペニスがふくらんでいくのがみるみる分かる。彼には勃起の経験さえないのだ。

 おかしい。篠沢の水着姿を見ただけで、体が異様な反応を示している。居ても立ってもいられないようなくすぐったく甘い疼きが、田中の股間から全身へと拡がってゆく。

 田中:「どうなってるん…んああ!」

 田中は自分の手で股間を撫でさすった。自分の隆起したペニスをさすり、何が起こったのかを確かめようとしただけだったのだが、撫でたとたんに、股間のくすぐったい感覚が急激に強まり、電流のように快感が全身に広まったのだ。

 田中の手は止まらなくなった。オナニーの経験ももちろんない田中にとって、ブリーフの上からでも撫でさする自分の手の感覚が、生涯忘れられない快楽となって、少年の肉体を襲ったのだ。

 すでにブリーフは盛り上がり、ペニスの形がくっきりと浮かび上がっている。その根本から先端を、指先や手のひらでなで、くすぐるだけで、強烈な心地よさを感じることができた。

 (ううっ…どうなってるんだ…)それでも彼の手は止まらない。(うああ…篠沢…いいきもちだ…)彼は写真をじっと見ながら、彼女の乳房や谷間、お腹の肌を凝視しながら、必死で自分の手でペニスを撫でさすり続けた。

 田中:「あうああ!」ふいに快感が数倍にも膨れ上がる! 何かが奥の方からこみ上げる感覚。立っていられないほど気持ちいいっ!

 びゅくん!

 田中:「うわああ!」

 ペニスが激しく律動したかと思うと、強烈な快感が数秒間続いた。それは田中にとって、初めての射精だった。精液がブリーフの中で爆発し、股間を濡らしていく。生まれて初めての、写真を見ながらのオナニーだった。

 田中:「はあっ、はあっ…」急に落ち着きを取り戻していく。

 「ピピピ。 ボウゴフク ニ オセン ヲ ケンチ シマシタ。 コレヨリ センジョウ もーど ニ ハイリマス。」

 自動洗浄モードにブリーフが入り、精液が洗い流されていく。すぐに乾燥も済ませる。これは、宇宙空間などで排泄をしても大丈夫なようにできている重要な機能の一つだ。

 一旦落ち着いた田中だったが、洗浄が終わる頃には、またあのかすかなくすぐったい疼きを感じている。

 (いったい…何が起こったんだ。)

 自分を止めることができなかった。篠沢の写真を見たとたんに、暴走したように股間がふくらみ、撫でさすっているうちに何か得体の知らない液体がペニスからほとばしった。そして、えもいわれぬ快感に全身を包まれたのだ。これまでに味わったことのない感覚だった。

 綾瀬:「田中君! どうしたんだ! 何かあったのか!?」

 綾瀬艦長から通信が入る。七星号のモニターからではないので、音声だけの通信となる。

 田中:「いえ艦長、なんでも…何でもありません!」

 綾瀬:「僕もマツモ・トリセ号のメインルームに着いた。佐藤は七星号に残している。牧野が目を覚ましたという報告はない。今からDVDを再生するから、すぐ戻ってくれ。」

 田中:「りょ、了解。」

 なぜか、とても恥ずかしいことをしてしまった気がする。田中はあわててメインルームに戻っていった。

 綾瀬:「…来たか。」

 田中が走って戻ってくる。僕はモニターとデッキを用意し、DVDをセットしていた。隣には井笠がいる。これで、七星号に2人、マツモ・トリセ号に3人で任務に就いていることになる。

 綾瀬:「ダビング機能は?」

 井笠:「ない。」

 綾瀬:「じゃあ、ここで見る以外にはないという訳か。」

 なぜ、最新チップ記録装置を使わず、昔のDVDを使ったのだろう。ナノ媒体にすれば、数万時間でも記録できるというのに。まるで…わざと互換性をなくして、他の機器で再生できないようにして、何かの秘密を守っているみたいだった。

 綾瀬:「とにかく、DVDを見てみよう。対策はそれから練る。」

 僕はデッキのスイッチを入れた。

 モニターに映像が映し出される。そこには、知っている面々が映し出されていた。

 金子:「海王星に到着☆ いえーい」

 新田:「ちょっと艦長! いえーいは古いよ…」

 新井:「あたしのご先祖さまがよくピースサインを横向きにして顔を黒く塗って写真に写ってたな。それに近いかも。」

 金子:「えー…いいじゃない。たまにはこういうレトロなヤツが。」

 箕輪:「そこがまた艦長らしいや…」

 米田:「艦長! 準備ができました。地球との通信網もキープされています。」

 篠沢:「エネルギー値に異常はありません。各機器のトラブルもなし。」

 鈴原:「ブラックホールも大丈夫であります。」

 佐竹:「座標軸設定、完了。」

 金子:「じゃあ、いつでも飛び立てるね。カメラはOK?」

 佐竹:「ばっちりです!」

 金子:「えー。おっほん! このDVDをごらんの紳士淑女諸君! 私たちチーム・かねこの一行は、いよいよ、海王星から、最新のワープ技術を用いて、ミルキーウェイの外側に移動しまーす。このワープ航法が確実に確立されれば、人類は宇宙のどこにでもイクことができるようになり、飛躍的に科学技術が進歩します。その第一歩を私たちが踏むことができることを、とっても光栄に思ってます。」

 一同がやんややんやと手を叩く。

 金子:「出発前に、パイオニアの記録として、これからチーム・かねこの全メンバーを紹介します! まずはワタクシ、金子綾乃が艦長やってます☆」

 ぱちぱちぱち…拍手がぱらぱらとわき起こる。

 金子:「ちょっ…拍手さみしいなあ! もっと盛大にやってよ! …んで、ここにいる二人が、新技術、ワープ航法管理部門の精鋭です。ちっこいほうが鈴原さん、おっきい方が篠沢さん。ついでに篠沢さんの彼氏の米田君。」

 鈴原:「ちっこい…」

 篠沢:「おっきい…」

 米田:「ついで…あ、おれ通信係です。」

 金子:「佐竹君はマツモ・トリセ号の運転と空間座標担当。銀河写真を取るという重大な任務は彼の腕にかかってます。」

 佐竹:「がんばるっす」

 金子:「そして…その他。」

 新田:「その他いうなーーーー!!!」

 どっと笑いが起こる。

 金子:「ごめんね☆ マツモ・トリセ号の空調・重力・コールドスリープおよび水食料の担当、新田さんです。」

 新田:「お料理お姉さんでーす!」

 金子:「修理・メカの技術者、新井さんです。」

 新井:「出番はなかったね。」

 金子:「でも必要な人だよ。新井さんがいなかったら、みんな不安で宇宙には出られないもん。…で、最後に、箕輪君は、…えっと…担当は…ええっと……おまけ?」

 箕輪:「おまけ…もういいですオマケで。」

 金子:「うそうそ♪ 細々とした生活全般の面倒や、もしもの時の医療、軽いトラブルなどの解決、細かい修理、いろんな雑用を器用にこなす、まさに隙間を縫う男、縁の下の力持ちでーす!」

 箕輪:「おまけです…」

 金子:「ハイハイ根に持たない!」

 楽しそうに紹介が進む。この和気藹々さも、金子艦長の演出のたまものだ。これがあってこそ、チームの結束が固まり、機敏に小回りのきく動きができる。宇宙旅行の最先端に抜擢されたのも、彼らの技術力や訓練のレベルの高さのみならず、この結束力にあったのだ。とくに箕輪君は、心理学のエキスパートだ。宇宙という無限の孤独な旅で、限られた人間だけでしばらく生活を共にする時に、艦長のリーダーシップと、補助役のしっかりしたサポートが欠かせないんだ。

 僕たちのチームには、人数が少ないというのもあって、なかなかそれができていない。やはり先輩たちはすごいと思う。

 金子:「それでは! 私がこれからこのスイッチを押すと、いよいよワープが始まります。宇宙の外に出る時間は36プランク秒。あらかじめ決められた座標軸に次の瞬間は移動しているはず。…人類の新たなフロンティアの始まりです。…ちなみに私はラテン語はしゃべれません!」

 一同が静まりかえる。いよいよ、決定的な瞬間だという面持ちだ。

 ぶつっ

 ぶぶーぶぶー

 ずぞぞぞぞぞぞ…

 綾瀬:「!?」

 田中:「ノイズがひどいな。」

 金子艦長がスイッチを押したと思われる次の瞬間、画面はひどいノイズで、何が行われているのかも分からない。黒と桃色と、肌色の固まりが蠢きながらグニャグニャと空間がゆれ動いているみたいに引っ張られ、こねくり回され、物体の判別がまったくできない。音声もゾボゾボゾボとノイズ混じりに出力されるだけで、誰が何を話しているのか、叫んでいるのか、何が行われているのかもまったく判別できない。

 井笠:「…。」

 綾瀬:「どういうことだ? 博士? 何が起こっている!?」

 井笠:「…。分からない。」井笠は素っ気なく答えた。

 田中:「佐藤なら修復できるかも知れないな。あいつはこういう画像処理も秀でている。」

 ひととおりの知識や技術を幼少のころに叩き込まれたあとは、僕たちはそれぞれの興味に従ってさらなる知識を求め、専門的な情報を仕入れるようになる。得意分野にばらつきが生じるのだ。古いDVD情報の修復など、僕たちでは無理だが、佐藤はそういうことに詳しいらしい。

 綾瀬:「佐藤と交代だ。君が七星号に戻って、牧野の様子を見て欲しい。DVD修復の道具も忘れないように伝えてくれ。」

 田中:「了解。っと、その前に…これだけはやっておかないとな。」

 田中が井笠に向かい合った。そしてにっこりと笑った。井笠もそれに合わせて、わけも分からぬままつい微笑み返す…

 ぼがあっ!

 次の瞬間、田中のアッパーパンチが深く井笠の顎をヒットした。骨が砕けたのではないかと思えるほど強くて重いアッパーだった。

 綾瀬:「田中ッ!!」田中の行動が予測できなかった僕は、宇宙空間での暴力行為をみすみす許してしまったのだ! 宇宙旅行中の犯罪は、地球のそれよりも数倍重い刑罰になる。人間同士のいざこざが、全員の命取りになる確率がかなり高いからだ。

 井笠:「だいじょうぶだよ…」井笠は倒れなかった。あれだけアッパーが決まったら、気を失って後頭部から倒れ落ちてもよさそうなものだが、井笠はまったく平気だった。

 井笠:「言わなかったっけ? このマツモ・トリセ号内部では、いっさいの物理攻撃が通用しない。あるのは…クスクス…」少年は不敵な笑みを浮かべる。確かに、井笠の顎も砕けていないし、田中の手もまったく痛みがない。

 田中:「どうなってやがるンだ。まるでふわりとした風船でも殴った気分だぜ…手応えがない…」

 井笠:「君はあの場にいないから分からないだろうけど、牧野君は無事だよ。そろそろ目を覚ます頃じゃないかな。…でも君の気持ちはよく分かったよ。私もしっかり覚えておこう。」

 田中:「ちっ…七星号に戻ったら…」

 綾瀬:「いい加減にしないか田中! 早く戻れ!」

 田中:「…。」

 田中は無言で出て行った。彼の処分は、すべてが終わった後あらためて検討しよう。


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