呪いの白いワンピース 前編

 
 「…とことん、ついてないな…」

 僕はついに、ぼやいてしまった。

 外は真っ暗だ。道は細く、家はまばらで、電灯もほとんどない。懐中電灯でもなければ、足を踏み外してドブにでもはまってしまいそうな勢いだ。

 がすっ! 「うぐあ!」

 言っているそばから、僕は足を踏み外した。細道が曲がっていることに気づかず、左足を側溝に落としこんでしまう。…ぬ゛るりとしたいやあな感触と、生ぬるい水が靴下にまで浸食してくるびっちょりした不快感が、暗闇の中、僕の左足に確かに感じる。次いでドブのヘドロ特有の、むせっかえるような異臭が鼻を突いた。

 あいにく、明かりになりそうなものは持っていない。ほんとうに、ついてない。

 いや…全部…僕が悪いんだ。

 今日のことも。これまでのことも。全部、自分でまいた種なんだ。自業自得ってやつだ。

 電車を乗り過ごしてしまったのである。

 深夜。

 終電は終わってしまっている。

 考え事をしていたら、降りるはずの駅を乗り過ごしてしまい、一つ先の駅で降りた。乗っていたのが終電だったため、引き返すことができない。しかも、この駅を乗り過ごせば、10分以上次の駅はないという特殊な路線でもある。大きな川を越えてしまい、着いた駅は…無人とまではいかないが何とも寂れたところになってしまうのだ。一駅違うだけで、こんなにも急に寂しくなるのかと驚かされる。

 そんなことをして次の駅で投げ出された僕は、タクシーもなく、金もなく、とぼとぼと歩いて自宅まで行かなければならなかった。

 そうして、この薄暗い一本道を、たいした明かりもなく歩き続けているというわけだ。

 明日も朝が早いというのに。そして、夜遅くまで仕事が続くというのに。ああ、こんな毎日、もううんざりだ。とことん、ついてない。

 こうなったのも、全部自分のせいなのだ。

 もうすぐ、40歳になる。ここに来るまでに、ほとんど女性関係はないに等しかった。一昨年の春先、僕は久しぶりに、大恋愛をした。そうして、それがいけなかった。すべての命運が尽きる、最悪のきっかけとなったんだ。

 もともと天涯孤独。家族もなく、ずっと一人で、ちっぽけなアパートで、安い給料で、その日その日を、細々としのいできた。

 仕事は忙しかったが、そこそこ順調だった。出世はしなかったものの、それなりに経験も積み、多くの若い後輩を育てる立場にもなっていた。業績もいい方だった。そのうち、大きく花咲く時が来るさ。それまではじっと、コツコツ小さなことを積み重ねて、自分の糧にしよう。そんなことを思いながら、気がつくとなかなかのベテランになっていたというわけだ。

 そんな中、一人の女性が、中途採用で入ってきてくれた。もうすぐ30になろうかという、少し肉付きのいい、かわいらしい女だった。彼女はとてもよく働き、こちらの指示にもしっかり従い、真摯に仕事に向き合う人だった。僕はいつしか彼女に惹かれ、仕事以外の場面でもおつきあいをしようと思っていた。

 だが、こちらが好意を寄せ始めたとたん、彼女の態度が急変した。勘違いするなと言わんばかりに、冷徹な反応を示した。仕事では決して見せることのない、恐怖と嫌悪と拒絶反応の入り交じった表情を、僕にだけ見せるようになった。彼女のあんな顔、見たことがなかった。

 そして出し抜けに、彼女は退職してしまった。周囲は噂した。すべて僕のせいだと。事実、その通りだった。

 それからだ。職場の空気が僕にだけ悪くなり、多くの単純な仕事が一気に回ってくるようになった。それをこなしても業績にはならないが、朝早くから夜遅くまでかかるものばかりだった。そして、わずかでもへまをすれば、「どうしてできないんですか」「できないからって、それ、やらなくていいんですか」と、つめたい言葉で僕の心の奥底までを苦しめ抜くようになる。上司は助けなかった。ハードルは格段にあがり、要求レベルは僕の力では到底不可能なものばかりとなった。

 いや…それも思い過ごしというものだろう。

 誰であれ今、苦しい状態なんだ。会社の業績全体が良くないんだ。僕だけじゃあないんだ。

 実際、失恋してから、僕は魂が抜けたようになり、それが仕事にも影響して、業績は一気にワーストにまで悪化した。その女性をやめさせたから、ではなく、僕の仕事の力が急激に落ち込んだことに対する、周囲のいらだちが確かにあったのだ。

 このままではいけない、何とか立て直そう、彼女のことは忘れよう。そうやって朝から晩まであくせく仕事に打ち込んだ。だが、いったん悪化した業績は戻らず、成功しそうになっても、偶然が重なってすべてがだめになった。そのたびに、僕はすべての人から責められた。怒鳴りつけられては恐怖を覚え、直後にねちねちと心の奥底を犯すような冷たい言葉が次々吐きかけられ、追い詰められていく。

 これは…天罰なんだ。

 僕は、一人の女性の、前途ある彼女の人生を、自分のせいで台無しにした。そんな僕が、なにかにつけて順調に過ごすことなど許されるはずはない。まして、他の誰かと幸せな恋愛や結婚生活、子供を授かることなど、あってはならないんだ。もし僕がここで、仕事も順調、彼女もでき、ゆくゆく家庭を築くなんてことになれば、人を踏みにじった人間がのうのうと幸せになった、ということになる。神も仏もありはしないじゃあないか。

 神は、思わぬ形で、自らの存在を証明した。そう、僕を罰することによって、神はあると、誇らしげに示したもうたのだ。

 このまま、年老いていこう。あのひとが僕を嫌悪したのは、僕がもはやただの枯れ果てた老人だったからだ。老骨の分際で、彼女を求めたのは罪だったのだ。いま、その罰を受けている。これから先、一生をかけて、償っていこう。

 そう思えば、この心細い小道でドブにはまる自分も、ああふさわしいな、と思えてくる。ただひたすら、無心に歩き続けるだけだ。何も考える必要はない。思索も引き寄せも、どうせ無意味だ。すべての結論は出尽くしてしまっているのだから。

 「!」

 少し先に、わずかな明かりがある。長い長い細道に、一本だけ、電灯がついているのだ。車の通りもなく、ただ電柱と、まばらな家と、電柱に取り付けられた明かりだけがあった。

 それだけなら、ただの明かりだ。それを頼りに、何も考えずに進み、家に帰れば泥のように眠り、5時に起きて始発に乗る。3時間は寝られるかな。それを切ると心身ともにかなりきつい。そんなことばかりを考えていただろう。

 だが、電柱のところに、白いものがあったのだ。布…そして、そこから飛び出している、二本の白い棒…

 人が倒れている!

 そう気づいた僕は、早足で電柱に近づいた。電柱のそばで、仰向けに誰かが倒れているのだ。人通りが全くない、寂しい深夜の小道だ。

 それは、真っ白いワンピースを身につけた、若い女性だった。外傷はなく、きれいな顔で、しかし完全に気を失っているらしく、ぐったりと仰向けに横たわっていた。

 車にでもはねられたのだろうか。あるいは、何かの病気で卒倒したのだろうか。血のあともなく、服も乱れていない。

 僕は彼女のそばに駆け寄り、「大丈夫ですか」と声をかけた。しかし、彼女の反応はない。呼吸はしているようで、息はある。軽く頬を叩いてみたが、それでも反応はない。

 とにかく救急車を呼んだ方がいいな。脳に何かあったらまずいことになる。

 僕は携帯電話を取りだし、119番通報しようとした。

 ”電池残量がありません!”スマホの画面から冷たい表示が出ると、携帯電話の電源は勝手に落ちてしまった。メモリが少ない上、昔に比べて格段に電池がなくなりやすくなった、現代の携帯電話は、肝心なところで役に立たない。

 まずいことになった。近くに民家はない。

 横たわっている女性は、10代後半…少なくとも20歳くらいの若い娘だった。状況が状況なら、自分にもこのくらいの娘がいても不思議ではないのだな。こんな非常事態なのに、僕はぼんやりとそんなことを考えてしまう。そんな自分が嫌でたまらない。

 とにかく何とかしなければ。くも膜下出血など、脳にダメージがある場合もある。本当は動かしてはいけないのだが、このまま放置というわけにもいかないだろう。「しっかりして! 大丈夫ですか?」僕はゆっくりと彼女を抱き起こした。

 「…だいじょうぶ…です…」

 「!」

 不意に彼女は気づいた。「ちょっと…貧血で…それだけです…」女の子はか細い声で、自分から起き上がった。

 ワンピースのスカートがめくれ、すらりとした生足が一瞬、あらわになる。

(参考資料:恐怖グロ画像につき、閲覧注意)

 女の子は立ち上がった。ちいさな風が吹いて、長いスカートを可憐に揺らす。

 「あの…ありがとうございました。」女の子はぺこりと頭を下げると、すたすたと歩き出していった。僕が来た道、間違って降りた駅の方向だ。

 暗い夜道で、ジジイ一匹と若い娘。…警戒もするというものだ。

 僕は彼女が無事だったことに一安心して、再び家路についたのだった。

 一時間は歩いたかな。へとへとになって、やっとアパートにたどり着いた。僕はそのまま、倒れ込むようにして眠ってしまった。午後2時を回っていたように思う。3時間寝て、始発に乗るんだ…

 ああ…

 いいきもちだ…

 いつもより、朝が来るのが遅いように感じる。まだ、目覚ましは鳴らないんだな…もうすこし、ねていよう…

 まどろむ意識の中で、僕は再び、夢とも現実ともつかない状態で、いい気持ちでベッドにうつぶせていた。断片的に夢らしきものを見ては、ふと目を覚まして、ああ、目覚ましはまだだ、まだ寝ていられるんだ、ぼんやりそう思っては再び眠りの世界に入っていく。

 ひらひらと風に舞う白いワンピース。まだあどけなさが残る一方で、しっかり大人になった若い娘…ああ、この子は昨日僕が抱き起こしたんだっけ。夢にまで出てくるとはな。

 それにしても、3時間って、こんなに長かったっけ…

 そんな馬鹿なことはないよなあ…

 …僕、目覚まし…かけ

 「はっ!」

 目覚ましをかけずに寝たぞ!? 僕は飛び起き、慌てて時計を見る。10時半! 完全に遅刻だ!

 とっさに電話をかけようとする。が、電池切れを起こして電源は切れたままだ。充電もせず、目覚ましをかけず、そのまま眠りこけてしまったんだ。

 会社から携帯に電話もあっただろう(家の電話はない)。が、つながりはしないわけで、僕は完全に寝飛ばしてしまっていたのだった。

 まずいことになった。遅刻などすれば、別室に呼び出されてこっぴどくしかられる。大の大人が泣くまでは決して許さない上司だ。

 とにかく携帯を充電しよう。そして、すぐに電話をしよう。

 会社に電話をして、事情を説明する。怒鳴りつけられるかとも思ったが、冷たく「もういいよ。」つぶやくようにして電話が切れた。

 とにかく、今からでも、会社に行こう。怒られても、自分がやってしまったことだ。自業自得だ。仕方ないじゃないか。誠心誠意に謝って、途中からでもいいから仕事しよう。

 午後1時。会社に来た僕に怒号が飛んでくるかと思ったが、上司は冷めた声で「もういいって言ったはずだけど? 帰れ。有休にしといてやる」とぼそっと言っただけだった。職場の誰も、もう何年も有休など取っていない。僕もとったことはほとんどない。この会社で有休休暇を取ることは、とてつもない後ろめたさを感じずにはいられないし、新入社員で有休が取れるようになったからといって堂々と取ろうとすれば、必ず後ろ指を指された。

 「有休かよ」帰り際に小声で言った女子社員の冷たい声。

 会社を追い返され、僕はもう、ここにはいられないかもしれないと思った。

 転職は絶望的な年齢だ。年齢制限は違法となったが、実質書類で落とされるだけであって、何も変わっちゃいないご時世だ。ま、どうせ天涯孤独、結婚もできない年になったのだし、このまま細々と日雇いバイトでもしながら生きて、生きられなくなったら死ねばいいのかな。それが僕の罪の償いになるのなら、神に身を任せるだけさ。帰りの空いた電車の中で、そんなことを考えていた。

 「あっ!」

 降りるはずの駅が、猛スピードで遠ざかっていく。いつも通い慣れたプラットフォームを過ぎていく電車のスピードが増していった。

 また…乗り過ごした! なにやってんだ自分!

 10分電車に揺られ、次の駅に降りる。相変わらず人気のない駅だ。また、一時間歩かなければいけないわけか。ほんとうに、ついてない…

 天気が良くない。雨が降らなければいいのだが。傘は…慌てて出たんだ。持っているはずもなかった。

 ぽつ…ぽつ…

 「ああ…最悪だ…」

 降り始めた天のしずくは、人々に水の恵みを与えたもう。が、僕にはただの天罰だ。

 走ってもまだまだ距離がある。ずぶ濡れになるのは変わらない。もういいや。ただ歩いて、濡れるままに任せておこう。

 雨足はさらに強くなっていく。雷鳴までどこかで静かにうなり声を上げている。このまま雷でも落ちないかなあ。僕に。地震でも来てみんな死ねばいいのに。…そんなことを考える僕だから、天罰が下るのか。当たり前だよなあ。

 「あの…」

 僕は後ろから声をかけられた。ピンク色の傘を差した、白いワンピースの美少女だった。

 「君は…昨日の…」

 「傘、ないんですか? 良かったら、こっちへ…」女の子はピンクの傘を差しだし、僕を雨から守ってくれた。

 「ありがとう。でも…もう…」「…ずぶ濡れですね。もし良かったら、私のアパート、すぐ近くなんで、寄っていきませんか? 昨日のお礼もしたいですし。」

 「いや…そういうわけには…」

 女の子のアパートに上がり込むわけにはいかなかった。第一、昨日は彼女を抱き起こしただけで、何もしてないだろう。

 「タオルで体を拭いた方がいいですよ。どうぞ…」

 女の子はさらに僕の手を引いて、相合い傘で自分のアパートに誘ってきた。そこまで言われると、僕も悪い気はしない。期待はしないでおこう。もしかしたら、彼氏と同棲していて、本当にタオルを貸すだけなのかもしれないし、それで昨日のお礼を済ませて、終わりとするのかもしれないし。

 彼女のアパートは、本当にすぐ近くだった。

 「どうぞ…」

 女の子の部屋に入ったのは初めてだな。きれいに整っている。

 キッチンと畳の部屋。風呂付きのトイレ…それだけのシンプルな部屋だった。

 僕は彼女にバスタオルを借り、頭やスーツをふいた。彼女は紅茶を入れてくれた。彼氏の姿は…ないな。

 紅茶をごちそうになる。「一人暮らしなの?」「はい。都内の女子大に通ってます。」「そうなんだ…女子大生か…」

 ううむ…とことん、場違いだな。女の子の部屋に、いい年したジジイが上がり込んでいる構図。違和感しか感じない。

 ま、これ以上の展開は期待しない。20くらい年が離れている娘が僕なんか相手にするはずもないしな。

 「昨日は本当にありがとうございました。…じつは、あのまま寝ていたら危なかったんです。」「危なかった?」「はい。体は貧血でたいしたことないんですけど、誰かが起こしてくれなかったら、気がつけなかったかもしれないんです。私、死んでたかも…」「そ…そうなんだ…」

 いったいどういう症状なのだろう。

 「あなたは命の恩人です。それに…夜私一人で寝ていたら、通りかかった人に何をされるかも分からなかったし…心の恩人でもあります。」「いやあ…僕はただ…倒れている君に声をかけただけだし…」「それに…あなたは私に何もしなかったですよね。優しい人だなって、本当に思えたんです。」「あ…」

 たしかに、女の子一人が、気を失って倒れている。誰に何をされるのか、分かったもんじゃなかった。どうやら、倒れてから数分しか経っていなかったらしく、危険な目に遭う前に僕が助け、さらに、命が危ない可能性もあったのだからというのだ。

 「良かったら、雨がやむまで、ここにいてくれませんか? あ、もしかして、お仕事中だったり?」「いや…そこは大丈夫…」まさか会社から冷たく追い返されたとは言えない。

 「良かった。あのっ…私、小島舞っていいます。友達には”こじまい”って言われます。獅子舞みたい…くすくすっ」女の子らしく明るく笑ってみせる少女。僕はどきどきしてきた。

 「あ…西掛留(にしかける)です…ことし40に…」しまった…余計なことを言った…

 「私は20になるんですよ。くすっ…」「あ…あははっ…」歳のことは言わなければ良かったな。

 「あ、そうだ、もし良かったら、メアド交換しませんか? お近づきの印に…」舞ちゃんは携帯電話を取りだした。「う、うん…」何かに気圧されたように、僕も携帯を取り出す。かわいらしいが、断ることのできない妖しい魅力を具えている美少女の誘いに、僕は求められるままに、電話番号も、メールアドレスも教えてしまう。ふと、なにか悪いことに利用されるのでは、たとえば勧誘とか…などという考えが頭をよぎったが、美少女の元気な魅力に負け、僕はなるようになれと、情報を伝えてから思ったのだ。

 その代わりに、彼女の番号やアドレスを手に入れた。いきなり昨日会った美少女に、今日部屋にあがり、メアドと番号の交換をする…そんなうまい展開に、違和感を覚えたが、最近の若い人はそうなのかなとも思い返し、それともやはり何かのセールスか宗教なのかとも思ってみたり、複雑な心境ではあった。

 「雨、やんできましたね。」「ん? ああ、そうだねえ…」僕は立ち上がる。「本当にありがとう。助かりました。紅茶もごちそうさま。」

 僕はアパートを出る。彼女も笑顔で見送ってくれた。んー…思いがけずいい感じでかわいい娘と友達になれたな。会社を追い出された暗さも吹き飛んで、ウキウキしながら自分のアパートに帰ってきた。一時間を歩くのが苦痛ではなかった。

 一人きりの部屋で、物音ひとつしない。

 心次第で、気分が晴れていれば、そんな寂しい部屋もバラ色に見えてくるんだなあ。そうだ、僕に足りなかったのは、こういう幸せな気分だったんだ。

 早く死んで天に昇りたいと希ったところで、神に見捨てられた自分は、生まれ変わっても貝になりたい。貝にさえなれないなら、もう地獄でもいいからこの世に生まれて来たくはない…もう、二度と。そんな暗い気分でいれば、何もかもがついてないように見えてしまう。

 だが、ふとしたきっかけで、いい友達ができたことで、気分が高揚する。そうすると、どんな出来事も、プラスに受け止められる。

 そうするためには、きっかけが必要だ。あのとき、あのひとと結婚したいと思ったのも、そういうプラスの気分を身につけ、自分と、彼女と、その子供たちへと分かち合うためだった。それさえあれば、どんなこともがんばれる。始発から終電まで仕事の連日であっても、意気揚々と乗り切って成果も出せただろう。しかし、ああ、あのときに…すべては尽きてしまったのだ。

 でも今は、舞ちゃんとの出会いがあって、同じ気分を味わえている。さすがに、彼女のためにがんばれるというところまでは行かないが、こういうちょっとしたいいことの連続でもあれば、それで僕は立ち直れるかもしれないんだな。

 そういうのでもいいかも。そんな気がする。

 ぷにゅにゅ…ぷにゅにゅ…

 メールの着信音だ。久しぶりに聞いたな。このヘンな効果音。

 舞ちゃんからだ。

 早速メールが来るなんて。たとえ宗教の勧誘でもかまわない、舞ちゃんとの接点をできるだけたくさん、多く、長い時間保っていたい。

 「今日はありがとうございました。本当にうれしかったです。もし良かったら、”つぶや機”と”顔本”と”線”もやってるので、友達になりませんか?」

 メッセージのあとにURLがある。最近はやりのSNSというやつだ。僕はその中の何もやっていなかったが、早速それらに登録をして、友達登録をする。どれも友達、フォローは、舞ちゃんただ一人だけだ。

 …この年になると、めぼしい友達もいなくなる。若い頃に仲が良かったやつはみんな家庭を持ち、父親となって、僕と遊びに行ったり交流したりということも希薄になるものなのさ。職場の連中はみんな敵意を持っている。つまり、今の僕にとって友達、親しい間柄は、舞ちゃんただ一人だけなんだ。でもそれでいいかも。

 翌日。

会社に向かう電車の中で、あの変な着信音が鳴った。見てみると、やっぱり舞ちゃんからだった。

 「会いたいです。もし良かったら、今晩うちに来ませんか?」

 「行きます。必ず。」僕は返信した。まともな理性など全く働いていないのが自分でも分かる。少し考えれば、こんなおいしい展開、あるはずもない。だが、それでもかまわないという思いが、僕を突き動かしていた。舞ちゃんともっと仲良くなりたい。

 仕事は相変わらず絶不調だ。何をやってもうまくいかず、トラブルばかりが連続する。ああ、早く終わりにして、彼女のところに行きたい。だが、この状態では、きっとまた深夜までかかってしまうのだろう。「自分の不手際による処理」であるため、残業代は出ない。そしてまた、明日も始発から…うんざりだ!

 「お先に失礼します。」5時定時。僕は仕事を途中にして、帰ろうとした。

 「はあ? 西さん、帰るんですか? それ、まだ済んでないですよね? あと、昨日お願いした案件も全然手をつけてないですよね。時間だからって、それやらなくていいんですか?」既婚の女子社員が吠えたてる。退職したあの人と一番仲が良かった同世代の社員だ。

 「…しったことか…」

 「はあ? ありえないんだけど。ひどいですね! 社員なのに…」

 好きで社員やってるんじゃねーよ。何なら今すぐ辞めてやろうか。僕は黙って会社を出た。過労死か餓死か、どっちかしか選べないとすれば、僕は迷わず、舞ちゃんと餓死を選ぶさ。

 僕の心はウキウキしていた。もうすぐだ。もうすぐ、舞ちゃんに会える。舞ちゃんのアパートは、最寄り駅よりも、ひとつ先の駅から歩いた方が近い。僕はわざと乗り過ごし、次の駅で降りた。

 もうすぐ日が暮れる。外はすっかり暗さを増していた。生暖かさに、どこかひんやりとした風が混じる。空はあかね色に輝いていたが、反対側を向くと、もはや灰色がかった黒に染まっていた。この近辺は日が落ちてもほとんど電灯はない。暗くなるから、という理由より、早く彼女に会いたい一心で、僕はアパートに足を速めた。

 「あ、西さん。」

 舞ちゃんが待っていてくれた。倒れていた時と同じ、白いワンピース姿で。まるで、ずっと昔から、一緒に暮らしていたみたいに、彼女の部屋に入ると、とてつもない安心感に包まれる。一人のアパートなんかよりも、彼女の部屋の方が、本当に帰るべき自宅のような気がしてならなかった。

 まだ知り合ったばかりだというのに、もう深い仲になっているみたいに、僕たちは微笑みあった。心が通じているというべきか。

 「ご飯作ってみました。良かったら、食べてください。」謙虚ながら、どこか有無を言わさぬ妖しい迫力を持っている、甘い彼女の言葉。決して強圧的ではないけれども、優しい口調ではあるけれども、断るという選択肢は全くない、そんな魔力を秘めていた。

 「おいしい…」彼女はとても料理が上手だった。僕はおなかいっぱい食事を平らげた。いつもコンビニのパンばかり。昼食を取りに外出はできない。人目を盗んで数分間、トイレでパンやおにぎりを胃袋に詰め込み、仕事をする毎日だった。電車は始発からだし、帰りは終電だ。とても外で食事をする気にはなれない。

 まともな食事は本当に久しぶりだ。

 僕が食べる姿を、舞ちゃんはいとおしそうに見つめていた。幸せそうな顔にさらに食欲が進む。

 食べ終わると、僕たちはくつろいで、いろいろなことを話した。というより、僕が自分のことをずっと話すばかりで、彼女は上手にいろいろなことを聞いてくるので、僕もつい調子に乗ってしゃべってしまう。それを彼女は、本当に楽しそうに、幸せそうに聞き入るのだった。

 すっかり夜も遅くなってしまった。

 「…今日は、泊まっていきますか?」「いや…やめておくよ。明日も早いんだ。」「そう…ですか…」

 このまま彼女のところに泊まれば、性欲に任せて一線を越えてしまうかもしれない。そうして、ずっとずっと彼女と一緒にいたくなって、昼まで寝てしまう可能性だって否めない。

 後ろ髪を引かれる思いで、僕は彼女の部屋をあとにした。一線を越えてしまったら、なにかがもう、後戻りできなくなる気もしていたんだ…

 「西。ちょっと来い。」20代の上司に呼び出される。出社してすぐのことだ。

 「お前、この仕事ナメてんのか。え? おいっ!」チンピラのような怒号が、小会議室に響き渡る。昨日早く帰ったことを言っているのだろう。ここには僕と上司の二人だけだ。

 「…。」しかし、僕の心には全く響かなかった。恐怖も反感も、申し訳ない気持ちさえ、何もわき起こらなかった。何も感じず、ただ黙っていた。

 「お前も分かってンだろ? 今うちは大っ変な状況なんだよ。月末までに少なくとも4つ仕上げて、7つ契約とらねえと、完全に会社は赤字になるんだよ。しかもその先の取引の綱も切れちまう。だからみんな必死でがんばってるんじゃねえか。」

 「…」

 「な? 今が耐えどころだよ。ここで軌道に乗っちまえば、営業も順調になるからさ、そしたら仕事も減るからさ。それに、のめり込めば、この仕事のおもしろさもある。お前だってそうやってこの会社でがんばってきたんじゃないか。いったい、昨日はどうしたってんだ。」

 「…」何が軌道にのる、だ。そうやって毎月毎年、同じようにぎりぎりの危ない橋を渡ってきたんじゃないか。来月は来月で、始発終電でなければ赤字で綱も切れる危ない状態に追い込まれるに決まってるんだ。

 「お前だけ帰るようなことすりゃあさ、みんなの心証も良くないぜ? な? チームワークとコミュニケーションは基本だよな? 俺たちで力を合わせてがんばっていこうぜ!」

 「…」

 「…なんとか言えよッ!!!」「…。」「西…お前…どうかしてるぞ!」「…」

 一分ほど沈黙が続く。

 「もういい。配置につけ。」「…。」結局、僕は一言も発することなく、会議室をあとにした。メールが来ている。「今日も、来てくださいね。」舞ちゃんからだ。

 「西さん。これだけはどうしても、今日中に終わらせてくださいね!」女子社員が書類の束を僕の机に投げるように置く。どうがんばっても21時まではかかりそうな案件だ。これに手をつければ、次から次へと派生的な仕事が生じ、さらにどかどかと割り込みが入って、結局終電になるだろう。

 「…お断りします。」そう言ったが、彼女は気づかないふりをして自分の机に戻り、有無を言わさない。

 「お先に失礼します。」5時になり、僕は帰り支度を済ませた。むろん、例の押しつけ仕事はまるで手をつけていない。

 「西! てめえ!」上司が公然と怒鳴り立てるが、僕は無視して帰った。

 舞ちゃんのアパートに着く頃には、またあかね色の空と、どす黒い空が入り交じった魔の空間ができあがっていた。

 「西さん。こんばんは!」「また来ちゃった。」「いつでも大歓迎ですよ。どうぞ!」

 また、温かい食事が用意されていた。僕はおしゃべりをしながら、楽しいひとときを過ごした。

 「今日は…泊まっていきますか?」甘くささやくように舞ちゃんが尋ねてくる。「…うん。」ついに僕は、首を縦に振った。

 僕は先にシャワーを借りた。次に彼女が体を清める。

 薄暗くなった部屋の中。彼女のベッドで待っていると、舞ちゃんが静かに出てきた。「寝る時も、そのワンピースなのかい?」「…。」純白のワンピースが、まるで装束みたいに清らかで美しかった。

 彼女は僕の隣に座る。「西さん…掛留さん…」「舞…」

 キスをする。若い娘の、むちゅっと柔らかい唇が、僕の口を覆った。興奮がどんどん高まっていく。若い頃に一人だけ、つきあっている女の子がいたが、それ以来のセックスだった。だが、そんな子よりも、何よりも、目の前の舞ちゃんがいとおしかった。

 僕はとりつかれたように彼女を抱き、ワンピースのスカートをめくるようにして、彼女の生足を撫でさすった。

 ああ…天国だ…

 シコシコしたなまめかしい肌触り。滑るようになめらかでいながら、みずみずしいハリのある弾力で、僕の手のひらに吸い付くように食い込んでくる若い肌。どこまでもめり込みそうな柔らかな内股。すべすべで、どこまでも妖艶だ。

 僕たちは唇を重ねながら、ベッドに倒れていった。僕はスカートをまくり上げながら、さらにワンピースを脱がせようと後ろのチャックに手をかける。あっさりと白い服は脱げ、彼女は下着姿となった。

 全身のもちもちした肌触りを撫でさすりながら、僕は夢中で舞ちゃんの唇や首筋に吸い付き、全身を彼女に押しつけこすりつけた。若い彼女を包み込むことで、彼女には安心感の快楽を与え、僕には若娘特有のしっとりした肉体を押しつけられこすりつけられて、天にも昇る心地を味わった。

 包み込んでいながら、逆に彼女の母性に包み込まれているみたいに、僕はじわじわと高められていく。ブラジャーを取り、パンティーを脱がすと、僕も全裸で、お互いにむさぼるように抱き合った。

 久しぶりの性器を触る。毛の奥に潜む淫らな割れ目が、僕の手に指にどんどん吸い付いてくる。僕は彼女の体をかわいがりながら、指先に食い込んで離さないオンナの入り口の弾力と締まりを十分に味わった。どこまでも柔らかく、甘美な体液が手のひらをびっしょりと濡らしている。

 上気した顔で、目を細めながら、舞ちゃんは僕を求めた。僕はとりつかれたように彼女の上になると、内股の間に腰をねじ込んだ。

 ペニス先端はすでに若いオンナの目の前に突き出されている。僕はゆっくりと腰を突き出し、先端を肉の裂け目の中にねじ込んでいった。

 「あああ…」悩ましい声を上げてしまう。「うんんっ…!」舞ちゃんも女性としての悦びに身を震わせた。

 改めて見る舞ちゃんの裸体を堪能しながら、根本まで飲み込んだ彼女の感触を全身で味わう。

 華奢な体つきの少女だった。

 胸はさほど大きくないが、しっかり谷間は作れる、ほどよい小振りさで、ハリがあって形も良い。白く美しいボディラインは、ワンピースに引けを取らないほどだった。全体的に細く、しかしその足は女性的で、お尻もスレンダーなふくらみを誇っていた。スタイルのいい女子大生は、それだけで極上品といえる。

 ふくらはぎのふくらみ方も、細いながらしっかり肉厚で、男心を存分に刺激する魅力をたたえている。すっと引っ込んだ腹部でありながら、触ればめり込む柔らかさを備えている。顔のラインがしっかりしていて、凛とした感じの美少女だった。あごの肉があまりないけれども、ほっぺのスベスベ感は若いハリをこれでもかと体現している。

 そして、少しでも動かしてしまえば精液が出てしまいそうなほど、あまりに甘美なオンナの感触だった。

 ペニス全体を揉みしだくように締め上げながら、どこまでもやわらかだ。複雑に絡み合ったヒダは、ペニスの感じやすいところに的確に食い込み、呼吸に合わせて蠕動しながら、精を絞ろうと蠢いている。

 「ああっ…まい…うっく…」

 「掛留さん…私を愛してください…」きゅうっとオンナが締まり、僕に女体の良さを存分に刻みつけてくる。「あふっ…すきだ…舞っ!」僕は脈打ちを始める。

 大量の精液が、彼女の中に注がれていく。コンドームはつけていなかった。出し始めてから、自分のしたことを改めて認識した。

 青ざめる。僕は…なんてことをしてしまったんだ。舞ちゃんの膣内で中に出してしまった!?

 どうかしてたんだ。冷静に判断すれば、コンドームくらいつけようと思い立つはず。だが、僕は熱に浮かされたように、ただ入れることだけを考え、入れてすぐに精液を放出してしまったのだ。ああ、情けない!

 「くすっ…うれしい…掛留さんの…いっぱい入ってくるよ?」「ごっごめ…」とっさに引き抜こうとしたが、舞ちゃんのふくらはぎが僕のお尻に回って、決して離してくれなかった。

 「ね。掛留さん。もうすこし…できますよね?」続きを懇願してくる舞ちゃんは、あどけなさを残してとてもかわいらしかった。萎える暇もなくペニスは、さらなる劣情を抱いて充血した。

 僕はまた我を忘れた。彼女の乳房に吸い付きながら、ゆっくり、そして次第にスピードを上げて、腰を上下させ、ペニスを出し入れしていく。

 若い肌は、どこもかしこも触り心地が良く、抱き心地も最高だった。その肌に触れる表面積が増せば増すほど、僕は理性を失っていく。

 出し入れする度に、オンナの締まり方が変わり、その都度ペニスにとって一番心地よい締まり方をして、しごく効果が最大になるようになっている。ゆっくり動けば噛んで含めるように、早く動かせば一気にしごきたてるように、オンナがペニスを絞っていく。

 「ああっ! もう!」「出して! 掛留さん! 来てえ!!」蟹挟みしながら舞ちゃんは僕の首にぎゅうっと抱きつき、強い力で引き寄せた!

 快感が一気に沸点に達し、イク時のこみ上げる気持ちよさが僕の全身を駆け巡った!

 「あぐっ!」びゅるるう!

 出したばかりのはずなのに、来い白濁液が、コンドームなしで子宮に飲み込まれていく。

 「はあっ、はあっ…」出し尽くしたはずなのに、ペニスはまだ元気だし、疲れもまるで感じていない。ただ性的興奮だけが強く強く持続していた。

 「掛留さん…次は私が動きますね?」舞ちゃんは僕を仰向けにし、その上に騎乗位になってペニスを飲み込んできた。

 「あっ あふっ うふっ んあっ…」

 かわいらしいあえぎ声を上げながら、小さなおっぱいが上下に揺れる。ペニスはさっきとは全然違う膣の締まりにさらされながら、変幻自在な快楽に包まれる。

 まるで…さっきとは違う人のアソコに入れているみたいだ。直情的で、どこまでも締まりながら、それでいてペニスをヌムヌムとしごき立て揉み立てて、精を吸い尽くそうともがいている。

 「あああ! そ、そんなにしたら…舞…」舞ちゃんは乳房を僕の胸板に押しつけこすりつけながら、全身を激しく前後させてペニスをこれでもかと素早くしごきたてる! さっき以上の多幸感がやってきたかと思うと、制御がきかずに律動が始まってしまう。さっき以上のスピードでペニスが脈打ち、大量の生殖細胞がぶちまけられていった。

 「ねえ…うしろから…おねがい…」

 舞ちゃんはさらにしつこくセックスを求めてくる。彼女は若く、精力に満ちあふれているから、何回でも求めてくる。年を取った僕は、ねちっこい持続で何回でも相手になる。衰えているはずで、精力も枯れているはずなのだが、舞ちゃんの媚態を前にすると、何度でも復活できるのだった。

 僕は愛撫の手をゆるめることなく、舞ちゃんとバックでつながった。

 「うわ…」また膣の味わいが変わった。さっきまで全体を締め上げる形状だったのが、先端ばかりを付け狙うかのように刺激するような膣の形になっているのだ。

 出し入れする度に、柔らかいお尻が僕の腰に当たってつぶれ、きめの細かい肌触りが腰に吸い付いてはペリッとはがれるように離れていく。そのもっちりした感触が何ともくすぐったく、僕はもう何も考えられなくなった。

 先端ばかりが強烈なくすぐったさに襲われ、敏感なところ一点集中で刺激されている。その奇妙な感触に、僕はついに耐えきれず、あっさり精を放出してしまう。

 「ああっ…まい…ちゃん…すきだ…まい…」彼女を横向きに寝かせ、後ろからペニスを挿入すると、一心不乱に腰を振り立てた。ねっとりした愛撫に激しい腰使いで、ついに舞ちゃんは絶頂を迎えた。またヒダの位置も形も変わったオンナは、ペニスを絞るように振動し、その勢いで僕は5度目の射精をしてしまう。

 「うう…もう限界…」

 僕は舞ちゃんの横に倒れ込んだ。さすがに復活はできない。出し尽くして満足した僕は、舞ちゃんの横から彼女をぎゅっと抱きしめ、気を失うようにして彼女の匂いの中で深い眠りに落ちていった。僕に抱かれながら彼女は上目遣いで僕をじっと見て、微笑んだ。

 「やっと…一緒だね…ゴスケサ…」最後の方は聞き取れなかった。意識の混濁が先に来てしまったからだ。

 気がつくと、太陽はすでに天まで昇っていた。時計を見ると、11時47分だった。いいよな

 「ああ…また遅刻だ。」「…くすっ、いけない人ね。」舞ちゃんはまだ裸のまま添い寝してくれていた。若娘の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

 今日はこの娘と一緒にいよう。会社は…もういいや。

 さすがに、昨夜あれほど出し尽くしてしまっては、ペニスの復活はなかった。だが、彼女のなめらかな小さい体を抱きしめていると、全身に心地よさが広がり、決して離したくないという思いがますます強くなっていく。

 また、おしゃべりをしながら、夕方までを何とはなしに過ごす。それだけで僕たちは、とても幸せだった。

 「西…」次の日出社した僕を、社員どもは一瞥すると、何か見てはいけないものを見てしまったかのように、ざっと顔をそらし、目を伏せ、話しかけてこなかった。上司でさえも、僕の名前を呼ぶなり絶句した。

 そりゃあそうだ。定時に帰ったあげく、昨日は無断欠勤だ。このままクビになってもかまわなかった。舞ちゃんさえいれば、他には何もいらないんだ。

 僕が抱えていた仕事は、すべて隣の席の田中君と、遠くの席の梶君がやってくれていた。僕のするべきことは、とりあえずなくなっていた。

 「あの…西…さん…これ…たぶん3時くらいには終わると思うんですけど、急ぎなんで…その…お願いできないでしょうか。」女子社員がおずおずと書類を持ってくる。こないだとずいぶん態度が違うな。

 「あー、だめ! それは田中にやらせて!」上司が口を挟む。「わ、わかりました…」「西、ちょっと来い。」また呼び出し。いよいよか。まぁいい。舞ちゃんと一緒に、彼女とできるだけ長くいられるような仕事の仕方に変えよう。こんな会社、すぐにでもやめてやるぜ。

 「西…鏡見たか?」「…?」僕が不思議そうな顔をしていると、上司は手鏡を出して、僕に突きつけた。「体調が悪いなら休むなとは言わん。ただ、連絡はしろよ。基本中の基本だろうが。」「何のことです?」

 僕は鏡で自分の顔を見た。何もおかしなところはない。いつも通り、真っ黒く血の気の引いた顔、目の周りを大きく覆うクマ。やつれ果てたような、たるんだ口元。くぼんだ目と光を失った表情。何も変わらない。いつも通り、だ。

 「今日は帰れ。な。お前おかしいって。」「いつも通りじゃないですか。いったい何を…」「はあ? 何を言ってるんだ。いいから帰れ。有休だ!」

 僕はまたもや、会社を追い出されてしまった。自分から辞表を書けって意味かな。上等だ。書いてやるぜ。

 電車に揺られると、気分が高揚してくる。またすぐに、舞ちゃんに会える!

 足早にアパートまで来る。ぴんぽーん! 呼び鈴を鳴らす。…反応なし。

 「…舞ちゃん?」がちゃっ…鍵がかかっている。

 そうだ、舞ちゃんは女子大生。昼間の今頃は、彼女は大学に行っているんだろう。残念だが、いったん自分のアパートに戻ろう。

 僕は自分のアパートに戻った。何にもすることがないな。

 ぷにゅにゅ…ぷにゅにゅ…

 メールだ。舞ちゃんからだ。「今日も、来てくださいね。待ってます。」ああ…舞ちゃん…行くよ。夕方には必ず!

 日が落ちるのが待ち遠しい。僕は何もすることがなくて横になりながら、時間が来るのを待った。

 「ん?」窓に怪しい人影が覗いている? 僕はカーテンを開けて外を見てみたが、それらしい人影はなかった。気のせいか…

 時間だ! 僕は自分の部屋を出て、彼女のアパートめがけて、足を速めていった。

 今度は舞ちゃんがいた。帰ってきていたんだ。

 「ああ! 舞ちゃん! 会いたかったよ! 今日もメールありがとうね!」「私もです掛留さん。来てくれてありがとう…」

 僕たちは抱き合い、キスを交わす。「ねえ…今日も…ね?」かわいらしい上目遣いで僕を見つめる。それだけでもう、気分が高揚し、自分が自分ではないような高ぶった興奮を覚えた。

 お互いにシャワーを浴びると、またベッドに横になる。

 電気を消し、暗くなった部屋の中。カーテンの隙間からわずかにこぼれる光だけで、それ以外は闇に包まれた。

 「ここに横になってください…」僕は言われるままに仰向けになった。


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