「はい、あーん」
「イリヤ、」
「あーん」
膝の上に乗った小さな姉が急かすので、アーチャーは仕方なく口を開けた。控えめに開けたその口の中に丁寧に白い筋を取ったみかんのひとふさが放りこまれる。
にっこり、とイリヤが笑った。
「美味しい?」
「……ああ、美味しいよ」
お姉ちゃんが手ずから剥いてあげたから当然ね、とイリヤは満足そうに胸を張るとふたたびちまちまとみかんを剥く作業に戻る。膝の上で。
アーチャーは困ったように視線をめぐらせる。居間にはイリヤとアーチャーのふたり。
台所からはじゃーじゃーと夕立のようななにかを炒める音が聞こえてくる。仕方なく、アーチャーは叫んだ。
「おい、衛宮士郎!」
「だめよアーチャー」
とたんにイリヤにたしなめられた。とん、と眉間の皺に指先を当てられて、ぐりぐりぐり。至近距離で顔を覗きこまれる。
「シロウは今あなたのために料理中なんだから。邪魔しちゃだめよ」
「そうだぞー、アーチャー」
遠く、台所から声だけが聞こえる。じゃっ、とフライパンを返す音がそれにつづいた。
「おとなしくイリヤに相手してもらっておいてくれ」
「え……衛宮士郎! 言うに事欠いて、なんだその扱いは!?」
私を子供扱いする気か、とアーチャーが吠える。素早くイリヤは指を耳につっこんでバーサーカーのごとき咆哮をやりすごした。そして、またとん、と眉間の皺に指先を置く。ぐりぐりぐり。
アーチャーはこの姉だけには強く出ることが出来なくて、本当に困ったような顔をすることしか出来ない。
大体困ったことを言い出すのはいつもこの姉だ。今日だって突然押しかけてきて、働いていたアーチャーからエプロンをむしり取ると
“今日はアーチャーはお休みの日よ”
だなんて言いだしたのだから。
お休みの日?
そう、お休みの日なの。
困ったような士郎の反応に反撃のチャンスを見いだそうとしたアーチャーは、彼の次の言葉に固まった。まさかと思った。
“そうだな。アーチャーもいつも休まず働いてることだし、たまにはいいんじゃないのか?”
よくはない。決してよくない。いいわけがない。
“じゃあ俺が代わりに家事するから。アーチャーはイリヤとゆっくりしてろよ、今日くらい”
“ありがとシロウ、じゃあ、”
そういうことだからアーチャー。見惚れるほどきれいに笑ったイリヤは手にしたエプロンを士郎にパスすると、豪快にアーチャーに向かってダイブしたのだった。
とっさに抱きとめようとしてごちん、と後頭部を打って。
そうして、それからずっとアーチャーはイリヤに世話を焼かれている。子供のように。
こいびとのように。
どちらかは知れない。だけれど頬にキスをされたり、髪を撫でられたりというのはどちらにでも通用する態度ではないかと思うのだ。
とろかすほどに甘やかすのは、どちらにでも出来る。
だから、どちらかは知れない。
「よそみしちゃだめよ、アーチャー」
そう言ってイリヤはまた頬にキスをしてきた。くすぐったさに目を細めるアーチャーに微笑むイリヤ。彼女は嫌いだというけれど、その様はまるで子猫のようだ。
「今日はお休みの日なんだから」
「しかし、イリヤ」
「お姉ちゃんの言うことがきけないの?」
じっ、と顔を、目を覗きこまれる。思わず後ずさると膝の上のイリヤもずるずるとついてきた。にがさないんだから、と白い子猫が笑う。
ふわふわの白い毛の、赤い目の子猫。
アーチャーは短くため息をついて。
「……わかったよ、姉さん」
ぱっとイリヤが顔を輝かせた。うんうんうん、と何度もうなずく。
そして。
「―――――ぅわ……っ」
「良い子ね、シロウ!」
んー?と士郎が台所から顔をのぞかせる。そして床に押し倒されて頬ずりされているアーチャーを見て、微苦笑するとすぐに引っこんだ。
じゃーじゃー、と夕立の音がまた響きだす。
「出来たぞー」
「わーい! ほら、アーチャーも!」
イリヤはぴょんとアーチャーの膝の上から飛び降りると、その手を掴んで一生懸命に引いた。もちろんそのか弱い力では、アーチャーの大きな体はびくともしなかったが、アーチャーは苦笑して引かれるままについていく。
ずらり並んだ昼食は、イリヤの目を輝かせ、アーチャーをやや感心させた。
「すごーい! シロウ!」
「ほう……なかなかやるな、衛宮士郎」
「おまえに誉められるとぞっとしないけどな。でも、まあ、サンキュ」
エプロンを外しながら笑って言う士郎のシャツの裾を引っ張って、イリヤが急かす。
「ほらほら、シロウも早く席について。みんなそろっていただきます、よ」
「わかった、わかったからあんまり引っ張らないでくれよイリヤ、服が伸びる」
そんなこんながあって。
「いただきます」
三者三様、それでもぴたりとそろったのはきょうだいゆえか。食べ始めたタイミングまで一緒だ。イリヤは甲斐甲斐しくおかずをあまり食べないアーチャーの皿によそってやったり、これが美味しいのよなどと教えてやったりと姉の本領を発揮している。
アーチャーはとまどいながらも山と盛られたおかずを口にしたり、美味しいとすすめられたおかずを口にしたりと忙しい。それを見て、士郎はまたも微苦笑するのだった。
「―――――は?」
「だから、そこに寝転がれって。悪いようにはしないから」
すやすやと眠るイリヤの安らかな吐息。
思いきり怪訝そうな顔をしたアーチャーに、いいから寝ろって、と強引に背中を押す士郎。不意をつかれ畳の上にうつぶせに転がされたアーチャーは、きつい視線で体の上に跨ってきた士郎を睨みつける。
「何のつもりだ」
「マッサージだよ。俺、結構上手いんだぞ」
まあ見てろって。わきわきと両指を器用に動かすと、士郎はアーチャーの腰に触れる。触れる前、
サーヴァントにマッサージって効くのかな?
と、小さくつぶやいたのはまあ、ご愛嬌ということで。
「…………んッ」
びくり、と震えアーチャーが声を上げた。ぎゅうぎゅうとツボを押しながら、あ、なんだ、効くのか、とほっとしたように士郎が言う。
「ずっと立ちっぱなしで作業してると足腰が疲れるだろ。そんなときにはこのツボがいいんだよ」
「た、わけ、疲れてなどおらんわ、っ、」
「こんなときくらい意地張るなよ。……おとなげないな」
「貴様……!」
過去の自分におとなげないと言われて、かっとアーチャーは頭に血を昇らせる。暴れようとしたところで、今度は足に触れられた。
「……実は俺」
にやり、と微笑む士郎。
「足ツボマッサージも得意だったり、するんだ」
労わってやるよ、と微笑む。アーチャーはなんとなく嫌なものを感じて、逃れようとした。そこに、
「こーらー!」
甲高い絶叫が響いて、どん、と衝撃が落ちてきた。
「わたしを放っておいてなにふたりで仲良くしてるの! 許さないんだから!」
「イリ……ヤ、」
「イリヤ!?」
ふたり分の体重はさすがに重い、と呻くアーチャーに、慌てて士郎は畳へと正座する。正座は癖のようなものだ。イリヤはかまわずアーチャーの上に跨ったままで、わーい、と歓声を上げると先程の士郎のように手をわきわきと動かしながらにっこり笑って。
「今度はわたしがマッサージしてあげる!」
「! こら、イリヤ、それはさすがに……」
「うるさいなー、シロウが出来るならわたしにだって出来るわよ! おとなしくしてなさい、アーチャー!」
「なんだか微妙に失礼なことを言われてるような気がするのはなんでだろう……」
わきわきわき。
「こら、イリ、ヤ、―――――っは、はは、ははは……っ……」
「あれ? おかしいな、ここ? それともこっち?」
「やめないか、イリヤ、―――――ははっ、あ、は―――――はははは!」
「むー!」
小さな手は癒しというよりも笑いを呼んで、アーチャーの爆笑という貴重なものを見られた士郎は目を丸くする。そして、顔を綻ばせた。
「イリヤ、そこはこうじゃなくてこう。で、こっちはこう……」
「ああ、そうなんだ。シロウってばすごーい!」
笑いすぎて涙目のアーチャーは自分の体を使ってマッサージの練習をしている士郎とイリヤに言いたいことがなくもなかったが、久々に気分がよかったので放っておくことにした。
それに、ふたりの手は、とてもあたたかったので。
「……あれ?」
「シロウ、しーっ」
「あ、うん。しーっ」
きょうだいふたりは、顔を見合わせて、笑う。
すうすうと穏やかな寝息。いつのまにか眠ってしまったアーチャーの額にやわらかくキスをすると、イリヤは微笑んだ。
「Gute Nacht」
士郎は押入れからブランケットを引きだしてきて、アーチャーの肩まで引き上げてやる。水色のブランケット。
そしてふたりは壁によりかかると、しい、と唇に指先を当てて微笑んだ。
すぐ近くで眠る、体は大きくても小さなきょうだいの、寝息を共に聞きながら。
back.