「よお」
台所に現れた男に、アーチャーは意外そうに目を見開いた。洗い物をする手を止めてつぶやく。
「……残り物なら居間の方を探った方が見つかると思うが」
「あのな。口開いてしょっぱながそれか」
そうじゃねえよ、と呆れたように柱に寄りかかって。ため息をつくと前に流した青い髪がさらりと揺れた。白い顔にはまだ仮装の痕跡が残っている。拭っただけではペイントは落ちづらい。あとで風呂にでも入るようにすすめてやらなくては。
「ひとりじゃ手に余るだろ。なにか出来ることはねえか」
「君に?」
「なんだ? その言い方は」
「冗談だ。……では、洗い物を拭いて棚にしまってもらおうか。わからないものはその都度……」
「よし、まかせとけ」
聞けというのに。
苦笑して、ふたたび洗い物に戻る。菓子を山と盛った皿は甘い匂いがする。それを消していく洗剤の柑橘系の香り。白い泡と、皿の端に残った生クリームはよく似ていた。
しばらくどちらも口をきかなかったので、台所には流水音と食器の触れ合う音だけが響いていた。心地よい雑音。生活の音。
戦いに身を置くサーヴァントでありながらそれを好ましく思うのは良くないことだとずっと思っていた。だが、男が言ったのだ。
どうしてそんなもん気にする必要がある。
あまりに簡潔な言葉に、初めは反発した。けれど本心からそれを言っていることがわかってしまえばあとは、もう。
「―――――か?」
「は?」
「は? じゃねえよ。これはここでいいのか?」
最後なんだが。
その言葉に手元を見れば、洗い物はすべて終わっていた。棚にしまう物も男が手にしている大皿で最後のようだ。もったいない、と流しっぱなしになっていた水を止めて答えを返す。ああ、と。
よし。そう返事をして男は棚に大皿をしまう。
「助かった、ランサー」
素直な気持ちを口に出して言えば、男は二、三度まばたきしてからにかりと笑う。
「これくらい、なんでもねえよ」
明るい、笑顔だった。


「しかしセイバーたちは帰りが遅い。小僧がまたなにかいらぬことでもしてるのではないだろうな」
「おまえな、なにかあるとすぐ坊主に責任押しつけるのよしとけ。盛大だったからな、興奮冷めやらずにまだどこかで立ち話でもしてるんだろ」
頬杖をついて男がたしなめるように言う。アーチャーはしかし、と反論しようとしたがその唇をそっと塞がれた。
指先で。
「ったく、仕方ねえ奴だな」
やさしく笑われて、不意をつかれた。てっきり意地の悪い微笑みか下心を含んだそれだろうと思っていたので反応が遅れる。反論を思考する、そのあいだに指先は触れたときと同じように唐突に離れていった。
機会を失ったと思っていると、男がとんでもないことをしてくれた。
「―――――ッ」
「ん、甘ぇ」
べし、と平手で青い頭を叩く。はあはあと息を荒げて睨みつけていると男はうっそりと顔を起こし、
「いてえな、なにすんだ」
「それはこちらのセリフだ! たわけが!」
「別におまえをどうこうしたわけじゃねえだろ、けちけちすんな」
「いっそ自分がどうこうされたほうがまだいいわ!」
「え、なんだ、自己申告かよ」
「違う!」
べろり、と今まで自分の唇に触れていた指先を目の前で舐められて、誰が冷静でいられよう。ああいっそ平手でなく拳骨を、いや、投影を―――――などと物騒なことを赤くなった顔を隠しもせず考えていると、男は心底楽しそうに声を立てて笑った。
「なにがおかしい!」
「ああ、悪りい悪りい、悪気があったわけじゃねえんだ」
あってたまるか。
「ただ、な」
「…………? ただ、なんだと」
「いや、今日は楽しかったなあと」
怪訝そうに眉を寄せると、予想通りだったのか男はまた声を立てて笑う。それにむっつりと不機嫌を隠さずに眉間の皺を深めると、さすがにまずいと思ったのか男はひらひらと手を振って悪かったって、と繰り返した。
「だけどよ、おまえも楽しかっただろ? 嬢ちゃんたちや虎の姉ちゃんを見て笑ってたじゃねえか」
「……見ていたのか。悪趣味な」
「オレはおまえをずっと見てたぜ。なんてったって、愛してるからな。つい目が追っちまう」
「…………」
「あれ。怒らねえのか」
「もう慣れた」
「なんだ。つまらねえ」
「昼も昼でTRICK OR TREATだのなんだのと、子供のように……」
と、そこで。
アーチャーは思いついた。男に笑いかけると、身を乗りだす。
「TRICK OR TREAT?」
「あ?」
「君はさっき私の唇が甘いと言ったな。ならば君の唇も甘いはずだろう?」
ならば、菓子の代わりになると。
そう言ってさらに身を乗りだした、アーチャーを目を丸くして見ていた男が笑う。本当にこの男はよく笑う。
冷酷な一面も持っているくせに、本当に太陽のように明るく。
するり、と背を辿って滑らされる大きな手。
「オレは別におまえからのいたずらでもかまわないんだがな? たまにゃ積極的なおまえもいい」
「―――――言っていろ」
男は笑ったままで目を閉じる。赤い瞳が隠されると少し圧迫感が消えた。アーチャーはほっとしてさらに身を乗りだす。端正な顔が近い。TRICK OR TREAT、つぶやいて唇を寄せ、て、


「ただいま戻りました」


思いきり男を突き飛ばした。
「……おや?」
セイバーが不思議そうに壁に激突した男と、素早く姿勢を正したアーチャーを交互に見やる。つづいてどやどやとやってくる女性陣たち。最後に顔を見せたのは、衛宮士郎だった。
衛宮士郎はやはり交互にふたりの様子を見ると、頬をぽりぽりと掻いてたずねる。
「なんかあったのか?」
「何もない」
「ああ、何もなかったぜ」
よっ、と身軽に体勢を立て直すと、男は首を一度ふるりと振った。
「何も、な」
にやにやと笑って言う男に、アーチャーは一瞬だけ強く視線を飛ばした。大丈夫ですか?だのこぶ出来てない?だのと囲まれた男は未だ笑ったままで口だけを動かす。
「―――――!」
「何もなかったよな? アーチャー」
「……何もなかったし、これからも何もない!」


あとでな


そう、男の唇は動いたのだ。
冷静になってみればあんなことは恥ずべきことだし、単なる気の迷いだ。あとで、もなにもない。
大股で歩いていき、居間を出ようとしてふと何かに呼ばれたような気がして振り返ると。(これもいけなかったのだ、気の迷いだったのだ)
男が本当に楽しそうに、にやにやと笑っていた。
「…………!」
かっと頬から耳から熱くなる。
足早に出ていったアーチャーの耳に、聞きたくもない言葉が聞こえてきた。
「アーチャーったら、変なの」
「まあ、そう言ってやるなよ嬢ちゃん。なんかあったんだろ、きっと」
何もない。
何もない、何もない、何もない!
変な気を起こすんじゃなかった。こんな日だから悪霊に惑わされたのだ、きっと。気の迷いだ、気の迷い。
そう。
何も、ない。
壁にこぶしを打ちつけて、つぶやく。
「たわけが……!」
それが誰に向けた言葉なのか、アーチャー自身わからなかった。



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