ひたり。
くすくすと笑う少女の声が鼓膜を犯す。白く色の変わった長い髪が、あくまでもやさしく頬に触れた。絹糸のような感触。少女は夢見るように蕩けた微笑を浮かべてこちらを見据える。
いや、彼女はずっと夢の中にいるのかもしれない。幸せな夢の中に、たった独りで。
夢に浸かって夢を見ている。終わりのない悪夢を。独りで。
「ねえ―――――先輩?」
甘い声。だがそれはふわふわと頼りなかったこれまでに比べてひどくしっかりしたものだ。蜜のように甘いものから、毒のような甘さへ変貌を遂げたその声が、たまらなく苦痛を呼ぶ。
くるしい。
「私は、違う。君の求めた人間では……ない」
「いいえ。あなたは先輩です。わたしのなによりも大事で大切な先輩」
桜色の少女の爪が、頬を引っ掻く。なにげないしぐさとはうらはらに力のこめられたそれは、あっけなく肉を抉っていった。
低く呻くと少女は童女のように笑った。爪の間を汚す血を舐め取り、悦楽のため息をつく。
「ほら。これは先輩の味です」
そう言うと、少女は薄く開いた口にむりやりその細い指を差し入れてきた。いくら細い指といっても、三本同時に突きこまれれば苦痛だ。声にならない声が漏れて、彼女の手を涎が伝う。
「ねえ? 先輩の味がするでしょう?」
答えられない。口を開けば無様な音がこぼれ、そもそもその問いに対する答えを自分は持っていないからだ。
口端を唾液が伝って流れ落ちていく感覚に背筋がぞくりと震える。
「―――――ふ」
声を上げれば少女はまばたきをして、
「苦しかったですか?」
ごめんなさい、と笑って指を引き抜いた。急にせき止めるものを失くし、点々と岩に落ちた唾液の跡が黒く残る。決して消えないそれを見せつけられ思わず眉が寄った。
「せんぱい」
頬を両手が包む。ぬくもりはもうそこにはない。ただ、左手の乾いた感触と右手のぬめる感触だけがある。
じっと見据えてくる底の見えない赤黒い瞳。そして、ふっと彼女は笑った。
「あなたが大好き。ずっとわたしのものです。かわいがってあげますね……先輩?」
「さ、くら」
呆然として名を呼べば、少女は瞠目して。
「あは」
目を、細め。
「あは、あはは、あはははは! やっと呼んでくれた、わたしのこと、桜って! 呼んでくれたんですね先輩、うれしいです、わたし、今すごくうれしい!」
彼女は哄笑した。弾けるように笑って、笑って、腹を抱えて笑った。涙を流さないのが不思議なほどに。
「……は、あは、あはは」
亡霊のようにゆらめいて彼女は笑い止むと、心から愛しいものを見るまなざしで左手を伸ばしてきた。
他人の涎にまみれた右手に舌を這わせながらうっとりとつぶやく。
「わたし、先輩が好き。先輩を愛してます。だから、たとえどんな姿になってもわかるんです。あなたは先輩。衛宮先輩です。わたしの愛した先輩。壊したいほど愛してる、先輩なんです」
幸せそうに、彼女は言った。
だんだんと思考に靄がかかってくる。違う、と言った。首を振った。
けれどまるで彼女が操る影のように彼女の言葉は伸びてきて、神経を焼いて、考えることを放棄させようとする。もういいじゃないか、と誰かがささやく声がする。男と女の声がする。
もういいじゃないか―――――もういいでしょう?
あなたはもう充分に苦しんだ。だからもういいの。
わたしの元で、眠りなさい。
わたしの中に溶けなさい。
「…………あ」
神経が焼き切れたのか。
そんな風に錯覚させるようなかすかな音が意識の外で聞こえた。じじじというその音は小さかったけれど、自分にとっては決定的なものだった。
大空洞の隅。陰の中でひっそりと笑う声がする。闇に溶け落ちる意識が最後にその姿と声を拾い上げた。
陰鬱に笑う。それは、かつて衛宮士郎であった者だった。
「なあ」
親しい友人に語りかけるように、それは語りかけてくる。
「俺たち、こんなに桜に愛されて幸せだよなあ?」
だから、もう抵抗はやめちまえ、と。
それは、ささやいた。
「衛宮、士、郎、」
堕ちたかと。
つぶやいたところで、意識が途切れた。
「先輩……大好き」
崩れ落ちる体を抱き止められて、耳元でささやかれた言葉はひどく、甘かった。
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