■moon water

 ユイは満月が嫌いだった。
 というか、本当はどうしようもなく好きな相手を認められないように、あの月が嫌いだった。
 月の光が異様に心地良くて、気持ちが昂る。
 自分が抑えられない。
 それが辛かった。
 理由を知った今でも、治めてくれる相手が来ないと、苦しい。


 パトカーのせわしないサイレンと、行き交う人々の間で、ユイは一人壁に手を付いて呼吸を整えた。
 やっと、仕事が終わった。
 我ながらよく辛抱できたものだと、こっそり胸を撫で下ろす。
 誰もいなくなるまで時間を潰してから、着替えに戻った。人の匂いのするトコロにはいたくない。そんな熱さは毒だ。
 震える手でボタンを外して、制服を脱ぎ捨てる。きちんと畳む余裕はなかった。一瞬考えて、一緒に刀をロッカーに放り込む。今日みたいな日に、余分な刃は持たない方がいい。
 顔を洗っても、冷たいと思えなかった。
 身体の奥に篭ったものとは裏腹に、沈んだ気持ちで歩く。外は夜でも暗くはない。この街はいつだってそうだ。星なんかあろうがなかろうが、広告とサーチライトで歩くのに困らない。舗装された道路の上も、雲も、薄い闇と影で出来ている。今日の月がどんな形かなんて、夜の色では判らない。それなのに、わかってしまう。今日は大きな真円の夜。みたくもない空には、満月がある。
 それでも、半分意地になって、窓から顔を背ける。なるべく視界に入れないように壁際に寄る。悦んでたまるか、馬鹿馬鹿しいけど、腹を立てる。
 廊下の向こうに、人影があった。普段は自分達の御多分にもれず着崩した制服を、今日は前ボタンまで留めている。ネクタイもきちんと、襟の合わせ目にある。
 少し軽薄そうだが、綺麗な男だ。背が高くて、脚が長くて、肌は浅黒く、瞳は金色だった。奴が出世して異動になるまで一緒に仕事をしていた間、女のハナシが途切れた事はなかった。長い恋人はいるが、カワイコちゃんの誘いには乗る。まあ、その辺は見た目どおり軽薄か。
「おう、ユイ久しぶり。お前今日はもうオワリ?」
「うい」
 目の高さが違うので、見上げる格好になる。
 相変わらず光りそうな歯だと思う。触れてみたいくらい白い。その身体と同じで、インプラントではないらしい。表向きの仕事をこなしている為か、大きな怪我をした事がないと言っていた。電脳以外は生身の身体。体格からはまずありえなさそうと、知らない者なら考えるだろうが、自分の方が確実に強い。日々に狩っているものが違う。身体の中身も違う。
 仕留めるのは難しくない。押せば倒れるだろう。
 誘えば堕ちるだろうか。
 抗うならソレで、いっそ強引に。


「でな、帰国するまでオッサンの警護よ。あーだりー。警備部はコレがあるからウゼーんだよな。ハルカちゃん似の娘がいるっていうからよ、ちょい期待したんだが……なんつーかまあ似てるっちゃあ似てるけどさ、ソコにこけし……土産もののアレだよ。アレを3割程混ぜて横にちょいと増量、みたいな。労働に見合う報酬じゃねえな……って聞いてる?」
 いつにも増してぼんやりしている目の前で手を振ってみる。
「なに」
 ユイは一歩下がるとしきりにまばたきを繰り返した。
「あー……」
 タマシイが抜けそうなのはいつもの事だ。新しい面子に速攻で昼行灯認定されたのも耳に届いている。
「はい、君誰?」
「トモリ=ユイ」
 今度は自分を指差して問う。
「そんじゃ俺。俺の名前言ってみ」
「K。ケイン=ムラマサ……って何だよ」
 何のつもりだ、とユイが呟いた。まあ、いつもの調子。
「いやー人が喋ってるのに超シツレーに涅槃してるから起こしてみたまでよ」
「そか。ごめん」
「まあ、いいけどよ」
 言いながら、携帯を取り出す。着信はナシ。珍しく夜が暇だ。
「今日は何か食ってかね?」
「……帰る」
「お前……何か具合悪い?」
「そこそこ」
「まあ、気、付けろや」
 元相棒のおぼつかない足取りに、妙に火照った顔をみて、Kは熱でもあるのかね、といぶかしんだ。


 地下の駐輪場まで来て、ユイは座り込みそうになりながら額の汗を拭った。
 Kに話しかけられただけで頭がくらくらしてきた。
 今日は、そういう星の位置なのだろうか。
 ユイにそれ系の知識は全く無かったが、話によると、潮の満ち引きが月に影響されるように、魔、とかそういったものにも大きな満ち引きがあるらしい。
 今夜は見えない力≠ェ別に大きく満ちる日なのかもしれない。
 苦しいくらいに気分が良い。
 このままではとても家に帰り着けそうになかったので、自転車を置いて歩くことにした。
 街の光や人影には決して目を向けず、ユイはふらふらと一生懸命暗い道へ向かった。
 光が澱み始めて、自分以外の妖しいものの雰囲気が隠されること無く漂う場所へ着く。
 少し、安心する。ここまで来れば、最悪の事態は免れそうだ。


「ユイ様? おや」
「どしたの? じい」
 青い髪を二つにまとめた目の大きい少女と、古めかしいスーツ姿の老紳士。時刻を告げるなら、ポケットから懐中時計を出しそうな、ホテルの支配人とかバーのマスター、それか。
 少女と老人、令嬢と執事。
 彼女の姿は安物ではないがエスニックなデザインのワンピースにパンツだった。しかし控えた執事を意識すれば、お嬢様然とした貫禄がうかがえる。
「いえ、いまユイ様をお見かけしましたので声をお掛けしたのですが……」
 行ってしまわれました。といぶかしむじいに、少女は納得した顔で半笑いになった。
「……んー。今日はアレな日だし」
「さ……、左様でございましたね……」
 彼女たちは表と影の間に住んでいる。異形の中を、剥き出しの得物で武装した人々──中身は何か他のものかもしれない──が歩く。そんな影の中と街を、雑多な裏通りが繋いでいる。だから彼女と彼女に仕えるじいの店には、色んな姿の客が来る。昼起きて夜寝る街の人間、裏の世界の住人、それと妖怪とか、魔物みたいなイキモノ。ミュータントや主人を持たないサイバーリングもいる。その間で、変化しかかった連中とか。
 魔物になりかけの人間なんて、特に珍しくない。いちいちかわいそうがっていたらキリがない。
 どうするかは、本人が決めればいい。
 こちら側へ来れば、守ってもらえない代わりに、咎められることもあまりない。狩るなら狩ればいいし、喰われるのが望みなら、そうすればいい。
 それで気が済んだら、朝に街へ帰るのもいいだろうし。
 戻らなくても、罪じゃない。
「ま、今日はウチのごはんくらいじゃ満たされないわねあのロリ男」
「お嬢様……」
 少女の言い種を、じいは困った顔でたしなめる。が、お嬢様の言い分は的確だ。普段は信用できる仲間である彼の、少し冥い欠片。魔物の血に翻弄される夜だけは、心強い理性もなりを潜める。月夜には、微かにまたたく星がみえなくなるように。


 白い月は何だか死に掛けた蛍光灯のような気味の悪い温度でユイを困惑させる。
 道の端に座り込むと、さっき買ったサプリメントウォーターの缶を開ける。
 大した足しにはならず、ユイは溜息をついた。
 分かってはいたが、苦しい。
 今の自分を癒せるのは、赤い血の流れや豊かな生命だ。
 この瞬間すぐにでも誰かを引き裂いてバラバラに切り刻んでその血だとか肉だとか──兎に角何でもいいから中身を、啜ってやりたい。
 誰かを押し開くなり、押し開かれるなり、されたい。
 よろよろと立ち上がったユイに、若い男がぶつかった。概念的なサイバーパンク。いかついスロットに見せつけるかのようなプラグ。その先は関節の継ぎ目を隠していない腕に繋がっている。中身は、カルシウムの骨やタンパク質の筋肉ではなく、チタンで出来た枠に嵌った銃かもしれない。反対に革とリベットで出来た服はタダの衣装で、総てがフェイクかもしれない。
 異形も、アウトローも、それに憧れる紛いものも、この辺りにはまだ混ざっている。
「ふらふらしてんなよ、ボケ」
 何か面白くないこと──キメた電脳ドラッグが今ヒトツだったとか──でもあったのか、男はイライラとユイを小突いた。
 薄いZIPジャケットに、軍の払い下げみたいな地味なブーツ、目深に被ったニットキャップ、ユイの服装はひどく控え目でおとなし過ぎだ。この場所にはそぐわない。武器らしい武器も持たずにぼんやりしている。
 この盛り場なら兎も角、もう1つ路地に入れば即狩られてしまうだろう。今夜のうちにも、めぼしいパーツがあればパーツ屋に、まだ使える生身が残っているなら臓器屋に、並ぶかも。
 贋の牙で覆った者でさえも、容易く手折れそうだと彼を見積もった。
 どこからどうみても、かわいそうな獲物。こんなトコロにやって来る、おめでたい脳みそも込みで。あるいは迷い込んだ不運がかわいそうか。どっちも大して変わらない。来てしまったものは仕方ない。そういうもの。
 小柄なユイの姿は彼らに比べると紙のように薄っぺらだ。カンタンにふっとばされそうだったが、半歩で踏み止まって文字通り瞬く間に、生き物の身体が砕けるイヤな音がし、パンク姿の男が転がった。
 ユイが相手の顔を見もしないで幽霊のようにふらふらと、手から生やしたセラミックの爪をしまうと、残りの人間は道を空けた。
 生命を脅かす傷を避ける理性はまだ、残っているようだ。
 暗い方に角を曲がっても、誰も追ってこなかった。
 ソレでも構わなかったのに。
 サイバーウェアに破られて血が伝う手に、まだ持っていた缶を握って、ユイは中身を一気に飲み干した。
「……」
 空き缶をごみ溜めに投げ捨て、倒れそうに息を吐く。
 少し躊躇ったが、すがるような気持ちで、自分の手から伝った指先の血を舐め取ってみる。
 ずっと、自販機の缶なんかよりはマシだったが、後ろめたかった分、かえって気持ちが昂って辛くなった。
 自分の血では駄目なのだ。
 苦しい。
 自分でどうにかできるくらいなら、さっさと家に帰ってしまって何とか慰めてやればいい。
 が、ユイはいつも自分で自分を何とかするくらいなら、誰か別の何かで間に合わせてしまう。やむにやまれぬ暮らしをしてきたとはいえ、ユイは自分の貞操観念を殴りつけたくなった。


 濃い闇の気配がする。
 さっきの傷からの血の匂いで、何かがユイに気付いたらしい。
 いつもなら、泣きたくなるような背中がざわざわする感覚が、今はとても心地良い。
 近付いて来る気配すらもどかしい。
 その何かは形が無いようだった。
 ユイは少し怖くなった。
 本当は、こういう脚の無い細長いうねうねした生き物は苦手だった。
 味見するようにあちこちから生えた小さな牙で噛み付かれる瞬間、ユイは嫌悪で思わず目をつぶってしまった。
 でも、その場からは、一歩も動かない。
 そんなに自分のことが欲しいなら、少しくらい、喰わせてやってもいい。
 喰べられてすり減っていく力と、どこからか湧き上がってくる生命で、少し、身体が満たされる。
 何かは、抵抗らしい抵抗を示さないユイを与し易しとみなしたのか、強く束縛することなく、それなりに丁寧に扱ってくれた。最初に噛み付かれた時以外は、必要以上に着ている物を剥がしたりもしなかった。
 いつも思うことだけど、こういう生き物はヒトとは全く違う作りなのに、どこをどうすればいいかよく知っている。どうすれば、この身体が溶けるか。浅ましく壊れるか読まれてる。
 なんでわかるのか。ソコが好きだって。甘い絶望に啜られる。
 このまま、眠ってしまいそうなくらい、柔らかく押し開かれて、ユイは少しだけまどろんだ。
 でも、白い月の光に、起こされる。
「……ダメだ……」
 喪失感の方が、吸収する生命よりはるかに多い。
 魔物の力が、弱すぎるのだ。
「駄目……」
 白い月の中で、ユイは今度こそ、本当に理性の欠片を手放した。
 ──こんなんじゃ、ダメだ……。
 はっきりしない頭のまま、ユイは禍々しいなりにも自分を可愛がってくれた名前のない何かを引き裂いて喰べてしまった。
 顔にかかる、得体の知れない体液。血にも、別の色にも似ている。掬い取って舐めると、苦い味がした。それでも甘くて、身体が疼く。もっと欲しい。
 ──何、やってるんだ、俺……。
 どこかでまだ冷静な自分が不安になっているが、ソレはすぐかき消される。
 ──でも。
 魔物の断末に集まってきた別の何かを、今度は自分を喰べさせることもなく、引き裂いた。
 小さな魔物に齧られた小さな傷と、ほんの少しの愛撫でこぼした体液に、死んだ魔物の悲鳴。陵辱の匂いに、酔った異形が引き寄せられる。彼らは、ユイの血が好きだった。いつだってこの貧相な身体を押し開きたがる。
 喰われたくない。怖い。
 だけど月の綺麗な夜は、ユイも欲しくなった。血が欲しい、傷付けたい殺したい。
 ──苦しい。
 引き裂く度に気持ちが昂ぶって、纏う闇が濃くなった。寄ってくる異形の牙も、鋭くなる。赤い血、唾液、そのほか、混ざり合ってわからなくなる。抉っているのか抉られているのか。壊したいし、壊されたい。
 もっと注がれたい、欲しい。殺したい、殺したい。
 肌を伝う血と、白い光が心地良かった。
 カケラが飛び散った路面に座り込んで、ユイは溜息をついた。
 少しの間だけ、月に雲が流れる。
 長い夜だ。
 ユイは力なく壁にもたれて、月の沈んだ朝を思った。

 (1stup→081009thu) clap∬


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