■septet-rain 01

 壁に手をついて口元を拭う。制服の袖が汚れるが構っていられない。吐き戻しは後で何とかしよう、と億劫な足を引きずる。
 持ち場に戻る前に、重苦しい視線を感じる。そこまでされたことはないが、殴られた気になる。
 顔を上げると、自分より僅かに高い位置、綺麗な女の顔がある。
「その様は何だ」
 般若がいる。美人の般若だ。イヤ般若の面の顔は元々美しい娘の型か。
「申し訳ありません」
 隊長はいい女だ。強靱過ぎる動作にたじろいで、手を出しかねているが、見とれている奴は少なくない。そしていつも笑わない顔に肩をすくめて目を逸らす。
 何故かこもって聞こえる声は、いつもの小言。隊長の動かない顔にはまたお前かと書いてあるし、ちらちら感じる仲間の同情も、半分はあきれたりとか。いつものことだ。
 この人も大概だな、と思ったりする。堅すぎる隊長の表情を眺める。中身はまあ、流したっていい。おこられているのが理解できれば良いだろう。いつものことだし。
 所々で拾った言葉に、自己管理がなってないとか。何でそんなこと、とユイは段々霞んできた女の顔を眺めた。よく見えなくてまばたきする。声も、さっきまで知覚していた周囲の様子も酷く遠い。のばしてものばしても感知できなくて、地面がどこかも曖昧になった。急に暗く、傾いた視界で、動かない女の顔が少し動いたのは気のせいだろうか。
 水たまりに落ちた。オイルの匂いがする。底に溜まった道路の塵で濁っていた。アレに思い切り突っ込むなんて最悪だ。何も聞こえないし体は動かないし吐き終わったのに吐きそうだし。
 暗くて気持ち悪い。


 やっぱり、雨の日は嫌いだな、と思った。
 雨の臭いのする空の色からしてもう嫌だった。まだ滴の味がしない空気ですら、吸い込むだけで気が滅入った。
 灼けた舗装が水を飲んで、へばり付いた肉とかが生返る。忌々しそうに閉まる窓へ吸い込まれる洗濯物やディスプレイ、動いている全てが煩わしく思えた。嬉しげに顔を上げる花は綺麗だけど、それだけだ。ただ綺麗なだけでおわり。
 収穫を望まれる訳でもなく、ただ咲くだけの花は人形と同じだ。雨を待ったりするのに、飾られて観られるだけの物体だ。
 だからって、自然な風景が好きかって問われれば首を振る。ありのままの生きた土なんて、それこそ寒気がする。雨を食って死骸を溶かして生きる森は、吐きそうなくらい暑かったけど。声を殺し、身じろぎさえ押さえ込んで、伏せていたことを思い出すと冷たい汗を感じる。貴重な資源だっていわれても、蟲は駄目だ。気配を薄くすればするほど、自分が曖昧になって景色の一部に近付く。土に近くなれば、葉に似れば、そこを生き物が通って行ったりする。
 しらないものに服の中を這われたりとか、そういうのはもう絶対に嫌だ。
 雪になれない冷たい雨にまとわり付かれる方がまだマシか。どっちも嫌だ。そういう寒い時は大抵腹が減っていて、二重に鬱だった。
 雨の日に良いことはなかった。だから、嫌いだ。
 もっとも、あの頃はどんな日だって好きじゃなかったが。


 うっすらと視界の端に映ったのは手だった。
 頭が酷く重い。体も、脳内では素早く身を起こす、重心を整えるイメージがあるのに、現実は横たわったまま。
 見知った天井、別に飽きてもいないが。掛けられた薄い毛布の中は湿った感触。多分、高熱があった。洗い流したいが、当分無理そう。
 口に出せば、そっけなく却下されるだろう。
「気分はいかがですか」
 そっけない声に気遣われる。そういう仕様だからだ。声の質は少し、飲み物に例えたら、砂糖が多いんじゃないかと思う。まあ、言い辛いが、可愛い声だ。
「そこそこ」
「すぐれないご様子ですね。続けてお休みになることをお勧めします」
 勝手に翻訳されてる。そうだ、こうみえて、意外に人の言動を読んだりする。心をしらないわけではないと、こんなときいつもユイは思う。
「着替えが必要でしたらさせていただきます」
 抑揚のない声が続ける。
「覚醒している間では心理面で抵抗があると判断します。睡眠をとられたらその際に」
 そりゃどうも至れり尽くせりで、と苦笑する。そんなユイの顔を見て、微かに首をかしげる。
「何か」
「いや」
「そうですか。問題があればいつでも声をお掛け下さい」
「……ありがとう」
 ユイは重いまぶたを落とした。泥のような不快感が疼く。
 額だけが、ひんやりと心地よい。
 そういえば、朝から胸がつかえるようだった吐き気はなくなっている。
 少し辛いが、眠れそうだ。
 いや駄目だろう。
 柔らかな手の感触に、甘えるとか。
 着替えさせてもらうとか。


「おまえ」
「何か」
「異様に手、冷たくないか?」
 石臼で手を冷やす幼女の話を思い出す。そんなことはさせたくない。中身は無機物とわかってはいるが。
「無理矢理な冷やし方しなくていいし……」
「仕様です」


「このように冷感を与える事が可能となります」
 ある意味服装に合っているかもしれないが、実に病んだテクノロジーだ。
 手にラジエータがあるとか。
「そんな機能あるのか……まさか親父が使ってるんじゃないだろうな」
「いいえ。このように手の平を行使した経験はユイ様以外にありません」
「あー……スイマセンデシタ」
「謝罪いただくようなことではありません」
「イヤ、いまのは……」
「何か」
「もーいい」


 この間喰われた──とかいって大半は自分が腹に収めたけど──相手がよくなかったのかも。ちょっと、なんだかいつもと違う、苦い痺れみたいな味がした奴がいたような気がする。毒属性って、確かあった。
「何か」
「なんでもない」
 早口で返答する。いえるかこんな事。大体、記憶といえる程の断片ではなく、現実にあったことかすら、確信を持てないでいる。猫がさかるように、おかしな気持ちになるなんて、家族にも打ち明ける勇気はなかった。
 満月は嫌いだ。月夜になると酔いそうになって、ときに、自分が抑えられなくなる。月日を重ねる度に、向こうから引かれる力が強くなってはいないか。
 ヌメヌメニョロニョロとやわらかい生き物は苦手だ。だけど障気の渦巻く路地の影、もっと奥まったどこかの隙間にでも、うずくまっていなければ、そのうち人を殺したくなりそうだ。
 ああそうだ、あの日も雨が降っていて、止みそうになくて、寒かった。だから喰いにきた魔物は暖かくてちょうどよかった。出されると熱いし。だからいいやって思った。
「雨の日で、濡れてもいいしって……」
 知性のない魔物だからいいなんて、いいことない。本当は駄目だ。
「ユイ様?」
 声がこもって小さく聞こえる。視界は色彩が曖昧で、照明が暗い。貧血か。
「……」
 彼女のひんやりした手のひらが額を撫でた。ぴたりと止まって、目を閉じる。
 霞がかかったようにみえるのはおなじだが、彼女の瞳は、夕闇のようなスミレのような、綺麗な色だ。
「熱が、下がりきっていないようです」
「そうなのか……」
「他になにか」
「貧血かと思った」
 しばらく大きな怪我はしていない。
「食欲がなかったのですか」
「……昨日からほとんど食ってない」
 だからあのときも大して吐けはしなかった。それでも片付けてくれた誰かには平謝りしたいが。
「解熱剤を服用されるなら、一緒になにか召し上がりますか」
 いらないと言ったら、納得させようと必要性をこんこんと、淡々と。
「ありがとう」
 だから従うことにする。嫌ではないし。おいしく感じられるかどうかはわからないが、ありがたいのは本当だ。
 背中に向かって言った。
「牛乳とヨーグルトはやめてくれ」


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