■closer to heaven

「俺を、ただのサイバーサイコか何かと思ってたのかい?」
 男の足の影が小柄な人影に覆い被さる。
 その男は、ユイの前に立って楽しそうに笑った。大きな月が傾いて、大きな影が街にのびる。
「なあ……可愛いおまわりさん」
 何か水滴が垂れる音がする。粘度の高い液体だ。背後の男の顔が、長い舌をのばして、唾液をこぼしている。ユイは刀を抜くと、前にいる身体の方を叩き斬った。隙のないストリート系の服装の胴体が、きれいな切り口をみせて地面に転がった。転がる男の半身を見もしないで飛び退き、間合いをとるユイに、男は感心したように頷いた。
「へえ……上手いもんだねえ……どうせなら3枚におろして欲しかったけどな」
  やっぱり無駄だった。ユイは廃屋を背負って浮く男の顔を動かない瞳で見つめた。あれが本体だ。胃も腸もないくせに、あの牙で生き物を貪り喰らうらしい。いったいどこへ入るのか、でも、そいつは餓えた表情を楽しそうに歪めている。
「サイコさんじゃないんなら、何で無作為に殺してまわったんだ」
「そんなに殺してないよ」
 長くのびた首の端から、神経や血管のようにみえる管状の何かが下がっている。その何かをぶらぶらと揺らして、男は失敬な、と言わんばかりに抗議した。
「ちゃんと食べてあったじゃないか」
「なら、さっきのは何だ」
 ここから、300mほど向こうにある屍の事だ。
「あれは邪魔だったから片付けたんだ。それに食べ物じゃない」


 そうだ、選ぶ権利がある。首だけの男はユイを見つめた。確か、あの屍はこの可愛い制服警官と同じ会社の制服を着ていた。たかだか民営警察が、身の程知らずに自分を追うから、とありもしない肩をすくめる。
「だって、アンタを喰べるにはアイツら、邪魔だったからさ」
「俺を喰うつもりなのか」
 生まれつきなのか、霞がかかったように虚ろな瞳が、それでも少し吊り上がって首だけの男を見た。
「何を今さら」
 男に手があれば、間違いなくすくめた肩と一緒に上がっていることだろう。
「ついでに言っておくと、救援要請も嘘。俺が勝手にあのオッサンの声借りただけ」
「それは今気付いた」
 地面がひび割れる音がして、男の顔に水が飛び掛かってきた。流れ水が這う地面に残るのは土台ごと斬り裂かれた消火栓。
「俺もそこまでバカじゃない」
 水圧で飛ばされる男に、ユイが斬りかかる。近くで聞いても、綺麗な声をしていると首だけの男は嬉しくなった。
「知ってるよ」
 突き刺した男の笑顔を、自分の重みと刀の柄で引きずりおろして、地面に縫い付ける。小柄な身体に似合わない力技だ。
「アンタ頭いいね。それになかなか立派な剣士サマだ」
 動かないはずの顔が、楽しそうに告げる。


「!!」
 もう一度突き刺す姿勢をとったユイだが、何かに足下を掬われて倒れる。倒れるが、身体は地面に着かなかった。
「遅いよ」
 ユイを受け止めたのは首だった。頭も胴もない、ただの首。そのただ単に長くのびた生き物の一部は、地面に伏して沈黙したままの胴体や頭にはない、鮮明な意志が宿っている。いきいきと輝いて、楽しげな心が、餓えた生命に息づいている。
「……!」
 乱暴に吊るされて息が苦しい。それでも、空いた右手に刀を持ち替えて、ユイはのび続ける首を断ち切った。一瞬弛んだすきに強引に腕を引き抜く。
「乱暴だなあ」
 首だけの男が煩わしそうに呟く。
 ユイは拘束されたままの身体を無理矢理ねじ曲げて、もう一度、今度は脚に絡み付いた首を切ろうと勢いをつけた。嫌な音がして、刀が弾けた。
「……!」
 背中から胃を経由して腹側に赤いものが絡んだ刃が突き出ている。折られた刀身だ。
 痛みと一緒に込み上げてくる何かを、身体が引きつるように咳き込んで、吐き出す。あまり大きくないショートブーツが少し浮いた地面に、血が滴り落ちて拡がる。その、浮いたつま先や制服の裾からも、いく筋もの血の流れが引き寄せられてきた。
「アンタが暴れるからだよ」
 首だけの男が、折れた刀の柄を退屈そうに玩んで言った。
「切り飛ばした切っ先を使うなんて、俺も大したサムライだろ?」
 ユイの唇からこぼれ落ちる血を、首は指でもあるかのようにすくいとって色白で柔らかな頬になすりつけた。
「こんなにこぼしたらもったいない」
 手足のある人間なら足下を見ているだろう隙を、ユイは逃さず文字どおり突いた。今度は首を縦に引き裂いてやる。手の甲と白手袋を突き破って出た刃が自分の血と首が流すソレで[くう]に線を引く。
「痛い痛」
 どうやら痛覚はあるらしい。痛がる首だけの男をできるだけバラバラに切り刻んで、逃げる用意をした。コッチだって痛い。腹の傷もそうだし、ブレードを生やした手の表皮にも神経が通っている。悔しいが今の自分に殺すことは出来なさそうだ。こま切れにしてアレが再生する時間を稼いで離れるべきだ。それに、自分も正直いって危なかった。いつまで意識があるか分からない。貧血で頭がくらくらする。絞められて少し詰まった喉を押さえて走るユイの足首を誰かが掴んだ。手が大きいというより、ユイの足が細すぎるせいだろう、掴んだ指がしっかりまわっている。
「……!」
 ユイの小さな悲鳴を聞いてもはや首とも呼びがたい肉の塊が、嬉しそうに笑った。
 ついさっきまで地面に転がっていた潰れた頭が折れたセラミックの刃を吐き出した。ユイの血と頭の唾液に濡れた刃が、煤けたコンクリートに突き刺さる。
「へぇ……可愛いお手手にこんなギミック仕込んでるなんて、もり≠チて権力は無いけど安定してるってきいてたけど結構世知辛いんだねえ……人使い荒いんじゃないか」
 折られた、というより引きちぎられた傷口からも、血がこぼれ落ちる。清潔そうな白い手袋が、赤く濡れて染まっていく。
「ああ、もったいない」
 首が絡み付いて、溢れる血を啜った。
「可愛いねえ……アンタ」
 ぬるりとした感触に、大した引っ掛かりもなくシャツのボタンが外れた。どうやら自分の血だけじゃなくて、何か得体の知れない液体が、動かない身体を這っている。首から口が生えてきたんだから、涎とかも垂らすはずだ……そう考えると、痛いよりも気持ち悪さで、ユイは悲鳴をあげそうになった。でも、こういうところで弱味をみせるとかえって酷い目にあわされる。もとから焦点のはっきりしない青緑の目を吊り上げて、ユイは首だけの塊を睨んだ。
「お人形さんみたいな顔してる割に、根性あるな……でも、気が荒いのも大概にしないと」
 ユイの小柄で華奢な身体が、一瞬大きく跳ね上がって、力を失った。
 無理矢理引っ張りあげられるように咳き込んで血を吐き出すユイを見て、首だけの男は小さな背中から抜いた刀の刃を噛み砕いた。
「痛い? 痛いよな……可愛いなあ……アンタ……イイ匂いしてる」
 身体があれば、きっと腕をまわして抱き締めるところだろうが、首には手も足もないので、間に合わせの肉をより合わせる。紐のようでしかし生きている、生々しいものがユイに巻き付いた。
「アンタ、自分のことわかってる? こんなトコロさ、いちゃいけないんだよ」
 嫌な水音がする。痛いし、気持ち悪い。吐きそうになって息をついた小さな口に、血の味がする紐を突っ込まれた。
「……!」
 嫌な感触に目を閉じてしまったユイに、哀れむように首だけの男が囁いた。


「俺みたいなさあ……普段はおとなしい首だけの男、って、知ってた? ろくろ首とかってのとは、また違うんだよねこれが、ってまあいいけどさ、俺みたいなさ、自分で言うのもなんだけど、戦闘向きじゃない……俺ってインテリだからさ、兎に角そーいうタイプでも、アンタみたいなおいしそうなの、放っておけないわけ」
 ぷは、と、紐に解放されて息をつくユイに、嫌がる舌や唇を弄んだ痕を見せつける。自分の血と唾液と、あと首だけの塊が作った得体の知れない液体が絡み付いた紐から、ユイは顔を背けた。込み上げてくるものを飲み込んで、とても控えめな動揺に、首だけの男はますます嬉しくなった。
「今までさあ……よく頭からバリバリ喰われなかったモンだね」
 くすぐるように撫でてやると、ユイは一生懸命恐い顔を作ったが、白い肌が淡く染まった。もうちょっと続けたら、泣くかもしれない。首だけの男のありもしない背中がざわざわしてきた。こんな楽しい思いは滅多にない。
「俺は、そーいうのとは違うから、一気に喰っちゃったりしないからさ、ちょっとずつ、喰べさせてよ」
 触って欲しくなさそうなところに触れると、恥ずかしさと悪寒を堪える表情が一瞬だけ壊れる。それでもまだ、チャンスがあれば首だけの肉塊をどうやって壊してやろうかとか考えている。そんな仕草に、首だけの男は自分の方が壊れてしまいそうなくらいどきどきしてきた。
「ダメだ……アンタ、やっぱりさああ……イイ匂いしてる」
 そう言って、肉の紐というか管、というか──触手が、牙をつくりだしてユイの浮いた左脚に噛みついた。
「あう」
 可愛い悲鳴だ。でも、幾つ目かの口の中に広がったのは、甘い血の匂いに混ざった、電気の味だった。慌てて牙を離すと、思っていた程血がこぼれない。
「……? ! サイバーレッグ?」
 首だけの男は、ありもしない目を丸くした。
「アンタの上司ってさ……何サマなワケ? こんな小っちゃくて可愛い子、サイバー者にしちゃうなんてさ」
 もったいない話だ。機械でできた部品が入っているとは思えない華奢で柔らかな身体を、ぼやきながら抱き締める。傷に障るのか、ユイはどきどきするような声で、小さく呻いた。でも、生身じゃないところが、こうやってしっかり触るとわかる。
「細い手……指がまわっちゃうよ、指なんてないけどな……アンタがボロボロにしちゃったからさ……でも、身体くらい幾らでも生やせるからね」
 触手の粘液でべたべたになってしまった髪を丁寧に梳いてやる。首だけの男が触ると、余計濡れてしまうのだが。
「でも、この右腕も生身じゃないんだ……右腕と左脚か……ちょっと喰うところ減ったな……あーあ、誰だよこんなもったいない」
 と、ぼやいて途中で止める。顔があれば意地悪な笑みを浮かべるところだ。
 一番嫌がりそうなところを、うんと優しく撫でてやって、首だけの男は囁いた。
「あのさ、アンタ、初めてじゃないんだろ」
 必死で堪えるお人形のような表情が、あからさまに動揺した。
「こうやって、喰われる……の……さあ……」
 力を込めると、細い肩が軋んだ。喉が絞まって苦しげに呼吸する唇を押し開く。
「な……アンタ……こんなにイイ匂いしてるのに……誰かに喰われたことあるんだ」
 今すぐにでも噛み砕いてしまいたいところを、できるだけ、控えめに、そっと押し開く。
「……!」
 言葉のない唇から、苦しげで、少し甘い声が、血とか唾液とかあと、他のものと一緒にこぼれ落ちた。
「前はどんなんだった? 痛かった? 気持ち良かった? 俺にも喰わせてよ……ホントは恐いんだろ……こうやって触ってると、わかるよ……」
 力のない瞳に、薄く涙が滲んでいる。綺麗にそろった長い睫を濡らして、染まった頬を流れ落ちる。涙の味は、少し塩の味がして、苦くて、やっぱり甘い。
「そう……いい加減、あきらめなよ……ホントは心細いんだろ……こんな風に、喰われて」
 たべてしまいたい、とか、人間はよくそんな言葉を使うが、全く言い得て妙だ。


「俺たちってさ……心とか……アレだよ……タマシイってやつ……そういうのもさ、喰いたいんだよ……アンタのタマシイはさ……やっぱ、フツーのヒトと違うな……何かさ、うすっぺらくて……でも、ドキドキしててさ……何か……やっぱり……イイ匂いしてる」
 ユイの頭の中に、ある名前が思い浮かんで、その名前を呼ぼうとしたとき、自分の身体を締め付けていた力がなくなった。濡れ雑巾を落としたような嫌な音がして、ぼとぼと何かが落ちる。ユイの身体も地面に落ちる。駄目だと思っても、立てなかった。身体は乱暴に地面に受け止められて、血でできた水たまりに留まったが、意識はもっと深いところに沈んだ。崩壊する首だけの塊の向こうに、痩身の人影が見えた。でも、その人影は、自分の知らない人物だと、暗くなる意識で、ユイは気付いた。


 ──何や知らんけど、頼り無い目、しとったなあ……。
 薄いコーヒーを飲みつつ、ドライツェンは自分のベッドに寝かせた小さな制服警官を見た。もっとも、件の制服は無惨な有り様だったので、今は彼のパジャマを着せている。ドライツェンはどちらかというと薄っぺらな男だったが、それでも開衿になったパジャマの肩が落ちてしまった。幾つくらいだろうか。傘下の企業とはいえ、FOREST≠ヘゆうなぎ系列の警備会社だ。一流企業らしく、大卒が多い。と、考えると20歳は過ぎているだろう。あの可哀想な制服もそれなりに使い古しているようだし、子供みたいな容姿は、外見だけなのだろう。
「変なもん拾たなあ」
 サンプル瓶に沈む肉片を眺める。ラベルには、今日の日付と、時間が記入してある。首だけの男の、哀れな末路だ。


 ユイが目を開けると、暗い部屋でそこだけスタンドの灯った机に痩身の男が座っていて、何やら光に透かして熱心に観察している様子が見えた。身体が重くてだるい。起き上がろうとすると、みぞおちの辺りがひどく痛んだ。途中で、机の男がユイを見た。
「ええよ、起きあがっても。突貫工事やけど、一応傷は塞いどいたから」
 起き上がったユイに、男はプラスチックの容器のミルクティーをくれた。ストローをのばして、薄いカバーを通してアルミの蓋を突き刺す。少しシナモンの入った、甘い味がした。
「どっか、ちくちくするとことか、ないか」
 男は歯医者のような質問をした。
「腹が痛い」
「そらしゃあないな。そこはグッサリいっとったからな。そうやなくてな、腕と脚の方や。何ともないか」
 ユイはタオルケットをめくって、右腕と左脚を曲げてみた。パジャマのサイズが大きくて、ごそごそして動きにくいが、ひきつれるような感じも、痛みもなかった。
「俺が直したんやから、大丈夫やとは思うけどな。せやけど、ギミックの方は保証でけへんから、あとでかかりつけにみてもらえ」
 途中まで当たり前のように聞いていたが、本来なら、ユイのように極端にカスタマイズしたサイバーウェアは、誰にでも簡単に触れるものでないことを思い出す。直す、などというのはとんでもない話だ。でも、目の前の若い男は傷の手当て──その傷でさえ本来なら容易に塞がる代物ではない──をし、サイバーウェアの修復も行ったと言っている。実際、手足は問題なく動くし、背中から腹を串刺しにされた傷が塞がって、ものを食べられる状態になっている。警戒の視線を感じたのか、若い男は紙のように白い手をひらひらと振った。
「ま、怪しいモンやけど。俺医者やから。サイバーもヒトも、それ以外もみるで」
 銀灰色の瞳を細くして、彼は薄く笑った。
「因みに名前はドライツェン。ジブンはユイやな……いや、トモリなんか? どっちが名前か名字かよう分からんな……」
 呟きつつ、ユイの携帯端末に挿んだ身分証を開いている。
「ま、ええわ。ユイでええな」
「はあ」
 ユイはきょとん、と返事をした。
「あとな、銭やったら心配せんでも経費で落としたるから、こっちもエエもん拾たしな」
 ドライツェンは楽しそうにサンプル瓶を見せた。今日の日付と、件の時間が記してある。ラテン語で妙な記号がふってある。首だけの男の欠片だ。ユイは少し気持ち悪くなって僅かに目をそらした。
「それにしてもジブン、喰われんでよかったな」
 さっきの今で、ユイが嫌がるのを見てドライツェンはサンプル瓶を白衣のポケットにしまった。
「あのとき俺たまたま携帯粉砕機の試作持ち歩いとったからめっちゃ運が良かってん」
「……感謝します」
 ユイがぺこりと頭を下げると、ドライツェンはまた手を振った。
「ええよ、俺腕力に自信ないからアレ持ってへんかったら見捨てなアカンかったし、サンプルも採れたしな」
 そこで、ドライツェンは真顔になって言った。
「自分はアレ、退治でもするつもりやったんか」
「たまたま、追跡中の犯人が何か別のものだっただけです」
「せやろなあ。何か、君らもり≠ノは荷が重すぎる仕事やもんな」
「そういうことです」
「でも、自分は強いな」
「……」
「せやから、誰かから用事を言いつけられて動いとったんかと思たんや」
「……今日は違います」
 ユイは少しずつ、この薄っぺらな男が何を生業にしているかわかってきた。
「そうかー。それやったら、ええねんけどな。いやな、自分みたいなうまそうなん一人であんなんのトコに持っていくっちゅうのは人としてアカンやろ」
「……」
「自分、どのくらい己のこと分かっとるん?」
「……どの……?」
「変な言い方やけど、あのまあ、便宜上魔物って呼んどこか、あの魔物とかにしょっちゅう喰われそうになるんやろ?」
 ユイは黙って頷いた。少し恥じらっているように頬が淡く染まっている。
「なんつーかその、兎に角自分を取って喰ったらエエことが起こると皆思ってるんや」
 ──いや、起こるねんけどな。
 ドライツェンはポケットからプラスチック製の小さな蓋つき試験管を取り出した。そこには少量の血液がスタンドの明かりで赤く輝いていた。凝固防止加工をしてあるらしく、試験管が揺れると、血液も雫を浮かせて跳ねた。
「この血にな、妙なもんが引かれて集まって来んのや。何でも、そういう食習慣のある連中には、かなりおいしいらしいで」
 彼等の恐ろしい欲求を思い出して、ユイは乏しい表情を動かして顔をしかめた。
「そんな顔すんなや。自分の血とか、まあ、最終的には身体ごとバリバリ喰らうんがエエんやろけど、血以外の別のもんでも、連中はとにかく欲しがるんや」
 ドライツェンは机に戻ると、書類を何枚かめくり始めた。
「enzymeってわかるか」
「酵素……ですか」
「せや。そのな、よう調べんとはっきり分からんけど、自分の体組織の中にある酵素が、何かおかしな影響を与えとるんや」
 ユイは手渡されたデータを見てみたが、正直いって、どこをみれば良いかも分からない。
「物理的にはそこら辺りが原因やと思う」
「物理?」
「あとな、自分の魂を喰べたがるやろ? ヤツら。魔物っちゅうのは俺らよりも見えん力よりの構成やから、精神とか感情みたいなもんも食いもんにせなあかんねや。それでな、そのへんの見えん力関係の連中も、魔導とか動かすのに自分の魂とか身体を欲しがるんや」
「そうですか」
 改まってここまで言われたのは初めてだ。いまもどこかで自分を貪り喰らおうと餓えている何かが息づいているのかと思うと、ユイは闇に抱きすくめられたように、背中がざわざわしてきた。
「ま、魔導とかは俺専門やないから、あとのメカニズムは仮説の仮説の仮説とか立てることもでけへん」
 ドライツェンにわかるのは、ここまでらしい。もっとも、その気になれば物理的≠ネメカニズムならそのうち解けてしまうかもしれない。


 ユイは不安げに包帯だらけの自分の身体を抱き締めた。何やら物思いに沈んでいるようだ。その仕草に、本人は気付いていない様子だった。ドライツェンが声をかけると、ユイははっとして冷静な表情を取り繕った。
「ま、この件にはこれ以上凝る気ないから、もうサンプルも捨てるしな」
 ドライツェンは血液の入った試験管を、バイオハザードマークの入ったオレンジ色の袋に入れプラスチックの紐で留めた。それから、オートクレーブの蓋を開けて袋を放り込んだ。
「あ、あとな残骸とか、自分の身柄のこととか、ええように処理しといたから。明日は非番になっとるからゆっくり寝とけや」
 ユイは少しほっとした様子だったが空ろな瞳は、どこか釈然としない様子だった。
「あとな、他の職員は皆あかんかったらしいわ」
「そうですか」
 ──ま、気にすんなや。
 と、言いたくなったがやめた。
 どうやら、自分を喰べるためだけに他の警官が殺されてしまったことを気にしているらしい。
 その気持ちに触れると今後の人間関係に溝ができそうだ。ドライツェンはそう考えて言葉をこそこそとしまった。
 ──結構ナイーブなんやな。
 あの御大が、モエモエハァハァかまいたくなるのもよくわかる。と、更に隅の方で苦笑する。
「せやけど、自分の御主人様は何にも教えてくれてへんのやな」
「な……御主人サマ!?」
 うろたえたように淡く頬を染めて、ユイは怒りだした。
「俺を何だと思ってるんだ……人を飼われてるみたいに言わないで下さい!」
 生気のない人形のような奴だと思っていたが、こんな顔もできるらしい。からかいたくなるのも、まあわかる。笑いたいのを辛抱して、ドライツェンはひらひら手を振った。
「まあそんな怒らんと。そうやなくてな、俺は自分そんなんで今まで何とか喰われんと生きとるから、誰かと術っぽい契約とかしてて御主人様[マスター]≠フ守護か何かがあるんかと思たんや」
「それも違います」
 こんなことで騒いだのが恥ずかしくて、ユイは自分で熱くなっているのがわかる顔を壁の方へ背けた。ドライツェンは薄く笑うと、そっぽを向いたユイの頭をぽんぽんと撫でた。
「そか、そーなんか」
 白衣の男は、一人で納得した。
 まだ、望まれる理由をしらない。
 彼は繋がりも告げていないのか。
「何や、欲しいもんあったら、取ったるで」
 ドライツェンが我に返ると、ユイがベッドから立ち上がろうとしていた。
「いえ、もう帰ります」
「今からか?」
「長居しました」
「いや、かまへんけど……しゃあないな、送ったるわ」


 それでも自分よりはましだったが、ドライツェンはうすっぺらだった。グレーのコートの背中も、ユイが細い腕をまわしている胸も、あまり厚みがなかった。
「寝るなよ」
 そう言われて、下がっていたまぶたを開ける。
「乗り心地ええからって寝たら死ぬで」
 自分で言うだけあって、ドライツェンはバイクの運転が上手かった。それこそ人のことは言えないが、彼のうすっぺらな外見からは想像しがたい。もしかしたら──これも彼の軽薄な言動からは想像しがたいが──怪我人のユイに気を遣っているのか、ゆっくり走っている。ゆっくりなのに、バランスがとれていてふらふらしないので、かなり乗り心地が良かった。バイクは本来道路には向かないオフロードKDX250≠フレプリカらしかった。もっとも、彼の本来の職業から考えると、中身は別のものでできているのだろう。
 見慣れた景色がでてきて、バイクが止まった。
「ほい、ここでええねんな」
「お世話になりました」
 ユイがぺこり、と下げた頭を、黒い手袋の手がぽんぽんと撫でた。
「君はエエ子やな」
「何ですかいきなり」
 今一つどこを見ているのかはっきりしない瞳を吊り上げて、ユイは少し恥ずかしそうに咎めた。
「いや、ま、ちょっと言うてみたかっただけや。あ、そうや自分にこれやるわ」
 ポケットをごそごそさせて、ドライツェンは名刺を一枚取り出した。
 ユイが小さな手の中に置かれた肩書きを見ている間に、ドライツェンはバイクに向かって歩き出した。
「俺、そういう者やから、ま、よろしゅうしたってな。セリザワ博士≠ナ通じるから」
 ドライツェンはにこり、と笑うとひらひら手を振りながら帰っていった。KDXが小さくなる。
 『ゆうなぎまてりある 品質保証部 係長 芹沢芒』
 見慣れた社章にうすっぺらな男の肩書きが書いてあった。


「はー。よう書けてんなあ」
 その書類をみて、ドライツェンは感心した。
「あの社長やったらモエモエするよな」
「萌え萌え、ですか?」
 髪の長い綺麗な娘が、彼の傍らで首をかしげた。
「せやモエモエなんや。これ見てみ」
「FOREST≠フ報告書ですね……んと、昨日のサンプルの件ですか?」
「おー。せやねんけどな、よう書けとるやな」
「……すごいですねー。何だかお手本みたいにきれいにまとめていらっしゃいます」
 ──あれ?
 彼女はまた、きょとんと首をかしげた。
「何やトロ子どないしんや」
「えとですね、それが、何で萌え萌えなのかと思ったのです」
「あーそれな。その書類作った頭のエエ子が、社長のモエモエなんや」
「そうなのですか?」
「せや」
 ドライツェンがネコグチで笑った。それを確認したいが為に、わざわざこの報告書を取り寄せたのだろうか。まあ、係長が変なのは今に始まった事ではないので、特に気にせず書類を適当なファイルに綴じた。
 ──でも、社長の萌え萌えって、どんな人なんだろ?
 と思案しつつ、彼女は定常業務に戻った。

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 (201004sun)


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