■月篭01

「あたしたちは、これっぽっちも信じてなかったのさ。そんな伝承なんざ、先祖が自分の名前にハクを付ける為に造ったフカシだってね」


 しかし、セレンは言った。
「だからあたしはあの子を誰にも見せずに隠してたけど、そいつは大きな間違いだったわ」
 今思えば、彼女は予感していたのだろう、自分の消える日を。
「今はさ、ただ、どんなに汚れても生きていて欲しいって、そう思ってるよ」
 強い思惑から、美しい彼女が愛した人の子を託したのが自分だけじゃなく、他に誰がいたとしても、約束≠守ろうと若いヘンリーは思ったのだ。


 若かったヘンリーが入れあげた女の息子が、見た目は兎も角、少々小突いたくらいでは何の感慨も示さない程にたくましく育っていたのを見つけた頃、また彼女が何年も前にこの世を去っていたことも知った。
 気付かなかった、見つけられなかったコトを、言い訳しようとも、後悔してみせようとも、彼は思わない。
 あの頃の自分には手の届かない向こう岸に、セレンとその子は隠れるように棲んでいたからだ。
 やっとその指先が闇の中へ届く今、あれから年月をかけて、ヘンリーはその力を手に入れていた。
 血を流さずに生命を駆け引きする、企業と言う名の楼閣に君臨する僅かな人々の列に加わっていた。
 若き日に恋焦がれた女は、深窓の令嬢のように儚げで、人形のように可愛らしく美しい娘──もうそんな歳ではなかった筈だが──だった。その息子は、細身だったセレンより更に華奢で、写し取ったかのような顔は、同じように清楚で柔らかそうだったが、同じ色彩をもつ瞳には彼女が持っていた強い輝きが無かった。
 霞が掛かったような碧緑の瞳は、まるでわざわざ艶を消した金属のように硬質で、けれど全ての光を打ち消すように虚ろだった。
 はっきり言って、繕う術も思いつかない程に、あの女の息子──ユイは内向的で暗い性格だった。
 それは、昔から変わっていない。かつて数度会った頃も、同じように虚ろな目をしていたし、地下室の猫のようにただ、隅の方でじっとしていた。
 理性と謀略も決して取り溢さないが、大胆且つ奔放なヘンリーとは、水と油程も違う。
 だが、自惚れではなく、嫌われてはいないという手応えはあった。
 それは、今も変わらない。
 何があったのか、それは、この陽のあたる世界に引っ張り出すときに、その為の儀式めいた誓いとして、あえて聞かない事としたが、無数の傷跡と一緒に負ったナニかがあの目の奥に棲み憑いている。それでも、ユイは息子を迎えに来たヘンリーに黙って付いて来た。
 それなりの権威を持つヘンリーの家の名を貰ったユイは、相変わらず飾り物の人形のようだったが、表面上はおとなしく過ごし、突然出てきた養子に訝しんだ親族もそのしおらしい姿形に次第に納得していった。
 周囲を納得させた容姿以外のもう一つ──意外な特技? に注目し、ヘンリーは妙案を提示した。
 ヘンリーは息子を自分がかつて過ごした寄宿学校へ通わせた。
 それに当たって特別に何も告げなかったが、自分が息子をこの街から遠ざけようとしていることに、ユイは気が付いている様子だった。ただ黙って、ユイはヘンリーとの約束を守ろうとしていた。
 そして、あのときにした約束も。


 だから、ユイは少々の事なら辛抱しようと思っていた。親父はバカだけど良い人だ。それにその周りの連中も。
 そんな彼らがしてくれる事なら、これからの自分にとってプラスになるのだろうと、ユイは思った。こんな機関が何の為に存在して、その権威に、何故皆がありがたがって何かを学ぼうとするのかとか、実はよく分からなかったのだが。
 その寄宿学校は、誰も彼もが入学を許されるような場所でなく、かつてのユイの仲間が言っていた学校とは別の種類の何からしかった。確かに、彼らの言っていた類の施設とは、全寮制である事や、女の子が一人もいない事を差し引いても、根本的に違う。
 丁寧な仕立ての制服の上からでも窺える程度に立派な体格をしている奴が結構いるというのに、その手にはユイの知っているような痕も無く、また、無理矢理踏みつけでもしない限り床になんかゼッタイ座りそうになかった。
 紙の上だけでしか存在しなかった彼らの世界に踏み込んで、今まで何もかも知ったような顔をして世の中なんてつまらないし退屈だとぼんやりしていた自分に、少し違和感を持った。まだ、自分には知らない事が沢山あるんだろうな、とか、ユイは漠然と新しい森を眺めるように、新しい棲処を眺めた。
 施設を案内してくれた偉い人が、受けた試験──座学の才なんて我ながら意外過ぎる特技だとその時気付いた──の結果を高く評価していると言ったが、それだけで此処へ入れない事くらいはある意味浮世離れしたユイにも分かっている。細かく突き詰めれば、何の血筋も持たない何処の誰とも知れない路地裏の子供であるユイには、一生縁の無い場所、の筈だった。ついこの間までは。
 だから、これはヘンリーの力だ。親父の名前とか、権力とか、あと、何かいろいろ。
 息子である自分の為に、してくれたことだ。


 授業の幾つかと気が遠くなる程大きな書棚は値打ちがあると思ったけど、あとは正直下らなかった。
 ここにいる、という事だけに価値を見出す様な生き方は、ユイには理解出来なかった。
 友達になろうとしてくれる社交的な何人かや、ルームメイトは概ね親切だったが、そもそも、まっとうな手段でありながら現金を拝まずに買い物を済ませるであろう彼らと、何を話して良いか分からず、最低限の返事と、自分からは挨拶くらいしか出来なかった。
 かつての仲間達なら、しびれを切らして半分は本気で殴りかかって来そうだったが、彼らは辛抱強く、内気で奥ゆかしい──明らかに暗いしヘタレ、のヒトコトで片付けられそうな態度も彼らには違って見えるようだった──転入生に話しかけ、その小さな手を取って、拙い返答を聴いては笑いかけた。
 不用意に口を開いて言ってはいけない事を口走ってしまう事を恐れ、ただ困惑するだけだったユイも、次第に彼らがどういうものを好み、何を楽しみに過ごしているのか分かって来た。こういう処にも、流行廃り等はあるらしい。
 だけど、ソレを知って、ユイは微かに後悔した。何故なら彼らの愛するものは、自分を飼おうと隙を見ては抗い難い指を絡めてきた男の趣味と、どことなく似ていたからだった。
 友達付き合いをするのはだんだん苦痛じゃ無くなって来たけど、その話題に付いていく為の基礎があの男の手によるものだと思い知らされる度に、ユイは疲れた。


 そんな新生活に慣れたり疲れたりしていたある日、友達の一人に複数の誰かが自分の行き先──何処に行けば会えるか──を尋ねているのを耳にした。賑やかな食堂、しかも遠くからだったのでスロットを塞いだサイバーウェア──そもそもこんなものを幾つも埋め込んだ自分をどうやって査定させたのか、ユイはソレもある意味親父はすごい、と思った──ではどんな雰囲気の遣り取りなのかまでは拾えなかった。
 その後、いつものようにお茶の誘いを断って図書館へ行こうとするユイに、ルームメイトが躊躇いがちに囁いた。一人にならない方がいい、彼がそう言ったので、ユイは理由を聞こうとして言葉を選んだ。何で? と言おうとして、やめる。
 どうして? と首を傾げたユイに、友達は口ごもって、やっとの思いで言葉を紡いだ。
「……だって、図書館て、旧い本には毒が染み込んでるみたいじゃない?」
 それは、ユイの好きなタイプの冗談ともネタとも付かない言い回しだったので、小さく微笑むと、幾分軽い足取りで、今日読み漁る本棚の事でも考えながら、彼らに背を向けた。


 有体にいうと逢魔時、曖昧な時刻に、図書館は閉まってしまう。夕食が済んだ後なら、申請すれば再び利用できるらしいが、そんなのは面倒だ。
 どうも最近、思う程食べられない気がする。身体を動かさないせいだろう。
 だとすると、相当鈍っているだろうな、と嘆息する。
 でも、それもいいかも、と思う。
 恐らくこれからは使うことなんかないだろうし。
 親と友達との良く似た2つの約束を思って、ぼんやりとガラスの向こうにある紫色の空など眺める。
 そろそろ戻らないと、頼まれてもいないのに席を取ってくれている彼らに申し訳ないし、と閉じかけた本が消える。
 何もかも消えた暗闇に、ユイはまたか、と再び溜息をついた。
 目立たない自分がいることを忘れて、司書官が照明を落とすのはこれで何回目だろうか。
 でも、今回はソレじゃなかった。
 気が付いた時は、何もかもが間に合ってなくて、取り落とした本を気にする間もなく本棚に押し付けられながら、ユイはやっぱり自分が鈍っていると確信していた。
 数人の人影は、プロじゃなさそうだった。たまに、そういう風に見せかけて仕事をする奴がいるが、それ程の相手に狙われる名前を売った覚えはない。ユイの小さな手を背中に捻じ伏せる大きな手や、細い肩を無意味に掴む別の誰かも、暗闇に息を殺す仕草も、手馴れた様子だったが、それだけと言えば、それだけだった。
 多分、人を殺したことはないだろう。
 サイバー化も、してなさそうだった。電脳も無しかあっても全員じゃない。
 かがみこんだ男──ネクタイの色からすると上級生だ──にペンライトで照らされながら、やっぱり夜目が利かないんだろうと考える。
 抵抗らしい抵抗もせず、動かないユイを見て、ライトの男は囁いた。
「こんばんは、ユイ」
 微笑んだ男に目を遣ってから、ユイは僅かに身じろぎした。ライトの指向が小さすぎて光量を調節し辛い。どうしても周囲の闇に呑まれて、眩しく感じてしまう。そういえば、視覚素子も、旧いタイプを入れっぱなしだ。
「怖い? 怖い目に遭わせてごめんね。でも、君みたいな可愛い子に酷い事するつもりないから」
 こわがらなくていいよ、と、別の誰かが反対側の耳元をくすぐる様に囁く。それから、後ろ手に掴んだ腕は放さないまま、本棚からユイを離し周りを囲う様に立つ人影へ振り向かせると、また蟲惑的に微笑んだ。
「一緒においで」
「朝までには帰してあげるよ」
「嘘、嘘。夜中までに終わるから」
 優しげな声で酷い冗談を言う彼らは、雑誌を彩るモデルか何かにさえみえる。全員が長身で、均整の取れた体格をしており、やっていることは兎も角、その洗練された容姿に一目で良家の子息だと誰もが言いそうだった。
「……困ります」
 ぽつりと告げたユイに、まさかこんなコトを言われるとは思ってもみなかった彼らが少し目を見開いた。
「どうして?」
 昼間のユイの仕草を真似て、一人が首を傾げると、別の人間が笑いを噛み殺しながらたしなめた。
「やめないか、失礼だろ」
 いつから見られていたんだろうか、そんなコトにも気付かない程自分は腑抜けになっていたのだろうか、さすがにちょっとショックを受けるユイだったが、実際の所、それだけ気付かないうちに気を張っていてそこまで手が廻らなかった、といったトコロである。
「人を、待たせているからです」
 小さく言って掴んだ腕をすり抜けたユイを見て、一瞬何が起こったのか止まったが、男は素早くユイの靴を蹴飛ばした。別の男がすかさず華奢な肩を掴んで、今度はかなり強く本棚に押し付ける。
 ユイはそれ以上抵抗せず、衝撃で床にちらばった本を何の気無しに見つめた。
 やはり、男は男でしかないということか。
 と、下らない悟りに達してぼんやりしているユイに、リーダーらしき男が囁いた。
「ごめんね。しっかり掴んでなかったから離れちゃったんだね」
 こんどはしっかり捕まえていてあげるから、と彼は微笑んだ。
「だから、安心して」
 何を安心して良いのやら、彼は押さえ付けられているユイの折れそうな首筋に唇を這わせた。
 ばさばさ、と落ちた本を見て、リーダーは愛しげにユイの頬を撫でた。
「おとなしくしてたら、ひどいことしないから」
 でなければ、という言葉をちらつかせて、優美な手をユイのネクタイにかける。
「本が」
「どうしたの?」
「あの、本が……痛みます」
 解いたネクタイを弄びながら、シャツのボタンを半ばまで外した手を止めて、リーダーはにこり、と笑んだ。
「うん? それで?」
 細めた目の奥は笑っていない。何かを狩るときの。そして、手折って、それから。
「一度だけ、ここじゃない所なら……」
 ユイの言葉に、今度は頭を撫で撫で、と触り、嬉しげに告げる。
「良い子だ」


「ね……ユイ、気持ちいい?」
 殺してやりたいが、結構上手くて余裕が無い。
「感じ易いよね、この子」
「かわいい」
「でも、この身体何?」
「……慣れてるよね」
 やれなくもないが、そういうわけにもいかない。
 約束は破らない。
「いわゆる調教済み?」
 そうだよ。イヤならやめろ。
「はじめてじゃないのは残念」
 そうだよおもしろくないだろ。
「でも、最初から全部挿れられるし」
 何だ、くすっと笑った顔は王子様みたいで吐き気がした。表の顔するな。ゲス野朗。
「……い……いかも」
 こいつらみたいなお貴族様でも汗とかかくのか。
「ほら、声だして」
「ちゃんと挿入るけど、びくっとするんだよね……いいよ……こういうの」
「……っ! ……っ……ほんとだ」
 押し込まれる刺激に堪える俺を、抱き締めて喜ぶ。耳元でハァハァ息を切らすのやめてほしい。
「苦しそうにするよね」
 当たり前だ、ホントは何か入れるところじゃないんだぞ。しね。
「滑りいいけ、ど……キツいし。この瑕も却ってそそる」
 見上げた変態根性だ。しらないけど、いいのか。ゆくゆくはどっかの姫様みたいなの嫁に貰うんだろ。アングラに開眼して、ロリペド丸出しで、バカか。
「そういえば、養子って、いってたよね」
「ああ……」
「そういうこと」
 ああもう殺したい。こいつらも、それで、痛くて泣けない自分も。
 せめて悲鳴を上げられるくらい怖くて、痛ければ。
 痛みを感じる回路があれば。


「可愛い声……っ、ぁあ……君……本当に、いい」
 良くない。良くない、死ね。
「ひと圧しで死んじゃいそう、弱々しいトコロが堪らないよ……」
 お前がしね。一人で勝手にイけ。そして帰ってくるな。
「小さくて細くて、作り物みたいに綺麗で……可愛いよ」
「堪えたら、苦、しいよ……もっと……っ、もっと喘いで、僕のお人形さん」
 殺してやる。約束だから、ソレは出来ないけど。
 ──俺は人形じゃない。
 こうされてさえ、快感を返す。だから都合の良い抱き人形か。おもしろくない。勝手にそう思ってろ。どんな風に撫でられたって、心は気持ち良くない。


 取りあえず、下らない予言どおり夜半に帰ってきたユイを見て、ルームメイトは泣きそうな声で頭を下げた。
 守ってあげられなくて、ごめんね、と。
 気にしなくていいよ、と言いたかったが、さすがに立っているのが辛くて、ここまで歩いて帰るだけで精一杯だったユイは、床に座り込むと、ただ、黙って首を振った。
「シャールは悪くない」
 好意に甘えてベッドまで運んで貰って──予想通り非力だったから歩くのも大差はなかったが──横になると、熱い濡れタオルを作ったり、高そうなお茶を淹れたり、あれこれ世話を焼かれる。
 初めて省略して名前を呼んでくれた友達に、シャールはやっぱり申し訳なくてぽろぽろ涙をこぼした。
「……何も泣かなくても」
 泣く程の事か? というのが本音。ムカつく事甚だしいがムカデに咬まれるよりありがちで雑多で些末。でも、この場には相応しくない感慨だと思う。特に、この善良なルームメイトに取っては多分大事だ。
 思わず口をついて出たセリフにヤバいと思ったが、泣きじゃくるシャールの耳には届いていない様子だった。
 ティッシュの箱を渡して背中をさすってやりながら、普段はユイよりも目の位置が高い彼の姿を目に入れる。やっぱり、彼もサイバー化はしていないみたいだった。
「ごめん、ごめんね、ユイ」
 顔を上げると、ユイの瞳を覗き込み、肩に触れようとして、慌てて引っ込める。
「君みたいな……あんなこと、酷い事、君みたいな子に」
 だけど僕には何もできない、と悔しがるシャールだったが、急に顔を上げて、今度はがしっと、ユイの華奢な肩を抱きしめた。そして、しまった、という顔をして慌てて頭を下げる。
「すまない、僕って最低だ」
 あんなことがあったあとにやっていい事じゃない。シャールは自分の迂闊さを呪いながらも、あらぬ誤解を避ける為に、正直に述べた。
「でも、よかった。僕は……その……君がどうにかなってしまうんじゃないかって、壊れてしまうんじゃないかってずっと心配で、心配で、でも、帰って来てくれて、無事でよかった」
 ──無事か?
 と、心中複雑なユイだったが、親切ながらどうもそそっかしいこの友人とはそれなりに楽しくやっていけそうかも、と思った。


 とは言ったものの、シャールには悪いと思ったけど、あれから数日は、何かの弾みで彼に告白されるんじゃないかとユイは密かに恐れていた。が、そうでないことは、周りの友人達が冗談交じりに保証してくれた。曰く、いつだって親切で憎めない彼がそういうつもりだと勘違いして部活の新人に逃げられた事、曰くそういうつもりだと勘違いした友達に迫られてほうほうの体で逃げ出した事、とか。
 こんな風に日が経つ毎に、ユイは誰がどんな装備で歩いているかなど、次第にどうでも良くなって来ていた。


「ユイ、何聴いてるの」
 慌ててヘッドホンを外し、プレーヤーをしまう。いつの間にか、シャールが風呂から上がって来ていたようだ。
「前から気になってたんだ。ユイって寝る前時々音楽聴いてるよね」
 別に検閲がある訳じゃないから、音楽メディアの一つや二つ、大した問題ではない。何を持ち込むか位の選択は許されたので、こっそり聴いていたのだが。
「何も言わないからヒミツにしてるのかなー、って思って気になってたんだけど訊けなくて」
 上品とは言い難いセリフの飛び交うヒップホップをか? 環境音楽寸前の偏ったトランスをか?
「でもやっぱり気になるー! 聴かせて?」
「うわ」
 シャールがふざけて飛び込んで来たせいで、枕が跳ねてプレーヤーが滑り落ちそうになる。慌てて端を捕まえて手繰り寄せる。その手を掴んで、シャールがニヤニヤする。そして諦めて渡したヘッドホンを嬉々として眺める。
 そんな嬉しいものかな、と思う。でも、ユイもシャールの事を、少し知りたいと思ってる。少し前は思いもしなかった事だ。自分の好きなものを知りたくて柔らかな表情してるシャール。ソレは心の中のどこかがほんのりと良い温度で、今ならこの優しい友達と同じように笑えそうな気がした。
 ゆったりしたペースのエレクトロニカ。朝焼けの海がみえてきそうな。こういうのなら、聴き易いかも。そう思って、プレーヤーに手をのばす。
 ユイの小さな手が触れる直前で止まり、外の気配に顔を上げる。
 そして聞こえるドアをノックする音。
「誰だろ?」
 シャールはユイを制して軽やかに立ち上がる。
「はいどうぞ」
 ドアの向こうの人影に、シャールの背中が凍りつく。
 我に返ってドアを閉めようとするが、押し戻すように彼らは踏み込んできた。
「こんばんは、ユイ」
「こんばんは、シャール」
 立ちすくむシャールを押し退けるように微笑むと、別の誰かが後ろ手でドアを閉ざした。鍵の掛かる音がする。
 優れた構造であるが故の絶望に、シャールはその場にへたり込んだ。
「君のことが忘れられない」
 そうだろ、と呟くと、口々に、彼らはユイの事を褒めた。そんな言葉から、シャールは耳を塞いでしまいたかった。
「シャール、君も一緒にどうだい」
 鷹揚な口調で話しかけられる。
 必死で首を振るシャールに、彼は優しく微笑んだ。
「君だって、毎日あの子の寝顔覗き込んで、抑えが効かなくなってるんじゃないの?」
 腹が立って、シャールは拳を握り締めた。ありえない。
 だから、勝てないって分かっていても、彼は滅茶苦茶に相手を殴りつけた。そして、派手に反対側のベッドに吹き飛ぶ。


 久方振りの、電気の匂い。
 スタンガンだ。
 友達を吹っ飛ばしたソレの威力を考えると、ユイも同じように突っ込んでしまいそうになる。
「邪魔者は片付けたし」
 まだベッドに座っているユイに顔を近づけて、囁く。
「またかわいがってあげるよ」


 シャールには一瞬過ぎて何が起こったのか分からなかった。自分のいる側と反対側の壁に、男が叩き付けられて、何かを吐き出した。それが、血と折れた歯であることに気付くまでにも、十秒くらい。
 それで、終わりだった。
 周りを見ると、他の連中も全て、身体のどこかを折られて、転がっている。
 転がっている人間の脇で、小柄で華奢な人影が小さく何かを呟いた。最初のリーダーっぽい男の目の前だ。
 綺麗に澄んだユイの声が、お人形のような彼の可愛い顔が、笑ったように見えた。
 そして、告げられた早口のイタリア語は、リーダーを十二分に怯えさせ、またがっくり項を垂れさせるのであった。
 シャールには最後の言葉だけ分かった。
 ユイはあれだけの事をやってのけ、大して面白くもなさそうにこう言った。
 ──二度目はない、次があるなら、
 ──お前らみんな殺してやる。


 シャールは、最後の日に私物を持ち去ったユイに声を掛ける事ができなかった。一瞬合った目も、逸らせてしまった。
 罪には、問われなかったらしい。
 詳細はわからないが、彼らの家庭がそれまでの事の発覚を恐れて、追及を拒んだらしい。
 だが、沈黙を守らせようと余計な篭絡を試みて、ユイの父親らしき男が激昂する様子を、シャールは密かに耳にした。幅広な肩をいからせて客間を出るその男は、精悍で活気にあふれる港の陽光に似ていた。だから、シャールは彼らに血の繋がりがないのだろうと容易に推測した。
 多分、かつての生徒であったというその男は、ユイに取ってこれ以上ない父親なのだろう。

 (1stup→210413tue) clap∬


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