■夢をみた 01

 ユイがその男に会ったのは、路地裏で面白くもない殺し合いをする連中を踏みつけにしていた頃だった。
 路地裏というなら、表に相当する場所がある筈だったが、ユイは一度も、そこへ足を踏み入れた事が無い。他の場所の事はよく知らなかったし、別に知りたくもなかった。他にも、ユイには知らない事が沢山ある。
 家に泊まる男は、母の客で、たまに恋人だったりした。物心ついた頃に傍にいたのは彼女だけで、他人の口から曰くありげな生まれを持っていると聞いた事もあったが、彼女が死ぬまで、直接そんな話をする事もなかった。だから、ユイは父の顔を知らない。
 客の中には、それこそ父のように相手をしてくれる男もいた。役に立つ事も、役に立たない事も、よく教わった。いま思うと、埃をかぶっていても片隅に良心が置いてあって、何処か憎めない男が多かった。時々、子供のユイに手を出してくる奴もいたが、そういう困った趣味の男は母と長続きせず、辛い思いをする事もあまりなかった。母は適切な相手と適切な関係を築ける頭の良い女だった。そんな聡明な女がいかほどの算段を誤ったか、当時つきあっていた相手のトラブルに巻き込まれ、彼女は事故らしきものによってあっけなくいなくなった。
 母がいなくなって、ユイは本格的に自分の身を守る事に気を配らなくてはならなくなった。彼女が生きている頃、ほとんど外に出なかったユイは、母がかなりの名前を持っていた事も知らないでいた。彼女は、その名前と、出来る限り健康な心の男と付き合う事で、佳人の誉れ高い自分にそっくりな子供を守っていたのだ。
 逃げ隠れしているだけでは追いつかなくなって、何度も失敗を繰り返しながら、ユイは少しずつ、殺し合いを覚えていった。
 自分を賭けの対象にして、必死で頑張れば勝てそうな相手に挑む。そうやって自分を追い詰めて負けられない状況を作る。この方法は功を奏し、ユイは格段に強くなった。
 そして、その日も同じように下らない賭けに乗ってきた相手を叩きのめして無機的に踏みつけていた。


 ユイが金でもなく、物でもなく、自分≠賭けると言うと、乗って来ない奴はいなかった。
 こんな容易い勝負で、可愛いお人形さん≠ェ手に入るなら、安いものである。とか考えてか、彼らはユイを自分のものにしようとする。でも、ユイは誰のものにもならなかった。下世話な賭けくらいでは、ユイはもう滅多な事で負けなくなっていた。そんな感じで強くなっても、ユイの生活は同じだった。更なる力を求めて腕を磨くでもなく、名を上げる仕事に手を出すでもなく、請われれば自分を賭け、動かない表情で単調な日々を生きていた。
「この間はやってくれたな。今日こそお前をモノにしてやる」
 そう言ったのに、そいつは水溜まりの中で動かなくなった。
 身ぐるみ剥いでやろうかと思ったが、やめた。今日は賭けじゃなかったからだ。雨上がりの湿気で怠くなってうとうとしかけたところにこの男が仕掛けてきた。
 ユイは自分の靴が濡れないよう細心の注意を払って、男の身体を水溜まりから蹴り出した。
 こうしておけば、少しは永らえるだろう。放っておけば、その限りではないが、そこまで面倒はみきれない。
 今に始まった事ではないが、つまらなかった。
何を食べているのかは知りたくもないが、やけに丸々した猫がいつも寝そべる塀伝いに歩いていって、路地奥の廃屋へ向かう。さっき邪魔をされた分、その辺で寝直すつもりだ。古いベンチか、この際階段でもいいから、乾いている事を願う。
 どういうわけか、この廃屋へは、誰も来ない。だからユイは、よくここで昼寝する。
 ベンチは乾いているようだった。灰色の雲が流れている水溜まりを越えて、ユイはベンチへ歩み寄る。早く横になりたい。こんな怠い日は眠るのが一番マシだ。
 ベンチから、人影が起き上がった。
 どうして彼がいる事に気付かなかったのか、ユイはショックだった。誰も来るわけが無いと油断しきっていたし、それから。
 人影は若い男だった。腰に剣を差し、肩にくたびれたマントを引っ掛けている。外≠ゥら来た男達がしているような服装だった。
「よう」
 男は女性に不自由しないだろう端正な顔を向けた。腰掛けていても、ユイを見下ろしている。
 嫌な男だ、とユイは思った。
 別に、男は失礼な事を言ったわけでもないし、見下ろしているのもユイが小柄で彼がかなりの長身だったからだし、何というわけでもなかったが、その計算し尽くしわざと着崩して似合い過ぎているシンプルな服装や、切れ長なアイスブルーの目を見ていると、無性に腹が立ってきた。
 ユイは人形のように動かない瞳をそらして、珍しく識別出来るくらいの不快な表情で、来た道へ向き直った。
「逃げるなよ」
 見なくても、彼の表情がわかる。やれやれ、と、皮肉に笑んでいる。
 何でこんな事くらいで逃げるとか言われにゃならんのだ、はっきり分かる怒った表情で、大きな瞳を吊り上げ、ユイは男を振り返ってしまった。
 怒っているユイの瞳が、今度は驚いて見開く。
 男の手が、ユイの手首を握っていた。余裕で一回りして、指が余っている。鍛えられた手だったが、形は綺麗だ。
「俺が相手をしてやろう」
「嫌だ」
 即答して、男の手を振り払う。
 彼が件の言葉を囁いて寄せた頬にゆるくウェーブの掛かった金の髪が揺れていた。髪が触れた耳元が何だか酷くくすぐったい。
 乏しい表情で無理をして自分を睨むユイを見て、楽しそうに男は続けた。
「俺も俺を賭けてな」
「嫌だ」
 ユイは頑張らないと勝てない勝負をしてきたが、頑張っても勝てない勝負は絶対にしない。目の前の男には絶対に勝てないとユイは思った。彼はストリートの賭けなんかに乗るような下世話な種類の人間ではなさそうだった。それから、下世話なストリートの賭けなんかかすりもしない技量だ。
 こんな相手に賭けなんか出来るわけがない。


「俺は、言った事は必ず実行する」
 振り下ろした剣を、半分吹っ飛ばされるような形で避けたユイに、男が告げた。
「やだっ」
 かろうじて声に出して、ユイは刃をかわす。
「まあそう言うな」
 一生懸命なユイの肩に手をかけて、もう片方の手で、男はユイの頭を撫でようとした。
「!」
 男は目にのばされたユイの小さな手を振り払い、再び剣を手にする。ユイは続けて正確に一撃で仕留められる部位を狙ったが、男は洗練された動きでかわしてみせた。
 男の金の髪が僅かに断ち切られて浮かぶ。ユイは男に蹴飛ばされて水溜まりに落ちる。
 口の中がじゃりじゃりする。咳き込みながら水溜まりから起き上がるユイに、男が脇差を投げた。
「使え。素手じゃ分が悪いだろう」
 ユイは黙って脇差を握ると、素早く間合いを取った。
「お前……刃のある武器を使った事がないのか」
 男は呆れたような感心したようなそぶりで苦笑した。
「まあいい。使っていれば慣れる。それまでに済まさんと俺が殺してしまいそうだが」


 結局、ユイは男に勝てなかった。
 何度も水溜まりに落とされ、剣の背で弾き飛ばされて、ユイは雑巾のようになった。
 こうして、一方的な賭けに勝った男は、そんなユイを無理矢理押し開いた。
「俺は今欲しいものは今手に入れる」
 ユイは満足に抵抗する事も出来ない。言葉を返す事も出来なかった。それでも、今にも消えてしまいそうな光で、死んだようなその瞳が男を見据えていた。
「悔しい、か? だったら俺に勝ってみろ。勝ってお前にした事と同じ事をしてみせろ」
 そう言って恋愛を知る者なら誰しも魅了されそうな笑みを浮かべ、男はユイを抱き締めた。
「……!」
 押し開かれる感触に、意識が薄れる。それが何度目か、もうユイにはわからなかった。


 男はディストマと名乗った。
「蟲……」
「何だ、博識だな」
 思わず呟いたユイの頭を、男は軽く撫でた。
「ま、しかしコレだと変に洒落た名前付けてやたら他人と被ったりせずに済むんでな。我ながら良い名前見つけたと気に入ってるんだが」
 彼はユイの名前を知っていた。
唯一[ユイ]……唯一ってコトだな」
 母の昔なじみの客から、話を聞いたらしい。
「……ザウエルは?」
 その客は、ユイも知っていた。確か、男と同じく外≠フ傭兵だった筈だ。
「さあな。あれから会っとらんが、死んだって話は聞いてないからな。死んだんなら、あの写真貰っておけば良かったか……まあ、ここに本物があるしな」
 男は美しい指でユイの頬をつまんだ。
「!」
「痛いか? なら夢じゃない。やっぱり本物だ」
 怒るユイの顔を見て、男は楽しげに笑った。
「できれば見てみたいもんだと思ってたが、まさか俺の家に忍んで来るとはな」
 廃屋は彼が数年前に出来心で買った家だという。
「しかし、他の連中が近付かんのは、この家で昔何かの呪いとかで人が死にまくったからなんだがな。とんだ箱入りだなお前」
「余計なお世話だ」
 怒った顔を背けるユイを見て、男はまた、楽しげに笑った。


「お前に剣を教えてやる。その間毎晩俺に夜伽をしろ。そしたら次の日は前の日より上の技を教えてやろう」
「嫌だ」
 傷が癒えた後も、ユイは廃屋で過ごした。本当は嫌で何度も出ていこうとしたが、その都度雑巾のように倒された。男に勝てたら出ていける、その為にこの状況も利用すべきだ。ユイはそう考えて、男に挑んで倒されながら彼の技術を奪い取り、そしてまた、何度も斬りかかった。刃のついた武器に慣れたユイに、男は刀をくれた。最初に握った──後に知った事だが──飾り物の脇差とは違う、本物の刃のついた武器だった。外さなければ、殺せる。でも、ユイは男を殺せなかった。彼は本当に強かった。
 教えてやると言ったが、男のやり方は特訓や練習と呼べる代物ではなかった。自分を殺そうとする相手を切り刻む、それだけだった。もっとも、切り刻まれるのはいつもユイだったが。
 初めて会った日から、血を流さない日がないユイを、男は毎回優しく手当てし、強引に押し開いた。
「俺はあんたなんか大嫌いだ」
「お前はおもしろい奴だ。誰の事もキライなんだろう?」
 路地裏育ちの人間なら唾でも吐き掛けそうなシチュエーションだったが、ユイは一言罵るだけだった。余程大事に仕舞われていたらしく、変にお行儀良く育っている。乏しい表情だが、これでもあるだけの感情をぶつけているつもりだ。そういうところが可愛い。男は心の中で笑いつつ、嫌がるユイをからかった。
 男の言う事はいちいち気に触るが、真に受ければ彼を喜ばせるばかりだと、いい加減ユイも気が付いていた……というか、やっと黙って辛抱出来るように落ち着いた。
 何も言わないで目を背ける。男はにこりと微笑んでユイの頭を撫でると、脇腹の包帯を引っ張った。数時間前に自分が切り刻んで自分が手当てした傷だ。まさか、だからといって乱暴に解く権利まで自分にあると言うつもりなのだろうか。これにはユイも頭に血が昇って、何か言ってやろうとした。でも、身体が冷たくなって、目の前が暗くなった。意識が薄れて、言葉も出なくなった。開いた傷口から床に、血の雫が落ちていく。切り口が綺麗だと、すぐに痛くならない。雫が小さな水溜まりになるくらいで、酷い痛みに浅く沈んだユイの意識が引き上げられた。
「痛いか……?」
 小さく悲鳴を上げるユイの頬を撫でて、男は労るように囁いた。
「俺にばかり話をさせて、悪い奴だ」
 わざと悲し気に呟く。
「こういうのは悪趣味だと思うが、お前に口をきいてもらう為だ、いたしかたあるまい」
 弛んだ包帯で、男は器用にユイの両手を結んだ。
「……あんた……神様がこわくないのか」
「神!? お前は本当に面白い奴だな。お人形さん≠ノも神がいるのか」
 嫌な言い方だ。今まで踏み付けにしてきた下世話な連中が、いつもユイをそう呼んでいた。褒め言葉で使われたとしても嬉しくなんかない。
「そう呼ばれるのが嫌なら、せいぜい人間臭い生き方をするんだな」
 男はそう言って強引にユイの顔を自分に向けさせ、いつだってするように何度も押し開いた。


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