恋の足音 since 2011.11.05 ※TOPへ戻る際は←のサイト名をクリックして下さい。


ホワイトデー当日、ささやかなプレゼントを配り終えたレンは足早に帰宅した。
朝まで一緒に居たいという女性は当然居たが、一人だけ特別扱いするわけにもいかない。
それにレンにとっての特別は、部屋で待っている彼一人だけだ。
「…レディたちの熱気にあてられたかな」
女性相手ならば、情熱的な愛の言葉をいくらでも投げかけられる。
しかし聖川相手となると長い年月の間に複雑に絡み合った感情が邪魔して、
いざ対峙すると唇が縫い付けられたみたいに動かなくなってしまう。
心の機微に鈍い傾向がある聖川は、レンの僅かな表情の変化までは読み取れない。
声をかけられて、談笑しながら肩に触れられて、些細な事で喜びに満ちるレンの心の内を
聖川は気付いた事が無い。
「良いんだか悪いんだか」
自虐的に笑うレンの鼻先を、妙な香りが掠めていった。
廊下の置くから何人もの生徒が青い顔をしてレンを横を走りぬけ、寮の外へと消えていく。
中には談話室にぐったりと倒れこんで動く気力もなさそうな生徒も。
「あ、レンおかえり〜」
「イッキ」
背後から駆け寄ってきた音也に声をかけられて、振り向く。
覇気の無い声を出すと思った音也の鼻には何故か洗濯ハサミが付いていた。
「新しいファッションか何かかい?」
「まっさかぁ!マサとレンの部屋から異臭が漂ってきてるんだよ〜」
それで皆新鮮な空気を求めて脱出しているんだ。と音也が溜息をつく。
確かに先ほど感じた香りは一般的には好まれない部類だとは思ったが、
レンにとっては割りと好ましい香りだった。
「俺は平気だけどね」
「!?…あ、那月とクッキー作るって言ってたし残り香が…?」
「ああそういう事。俺はシノミーの作る料理は美味しく頂けるからね、この香りも平気なわけだ」
「香り…生物兵器みたいな悪臭を香り…」
音也は未知の生物と出会ったみたいにレンを訝しげな目で見つめ、また溜息をついた。
「まー俺も他の奴らよりかは慣れてるからね。トキヤが帰ってくるまでに換気出来ればいいや」
じゃあね、と手を振って音也が自室へと戻っていく。

これだけの、自分以外には耐え切れないレベルの悪臭が充満している部屋に
聖川は居るのだろうか。
繊細なお坊ちゃまのイメージは無いが、代わりに耐える事を美徳とするイメージはある。
まさかな、と思いながら歩を早めて部屋に飛び込む。
大きく開け放ったドアから熱帯のジャングルみたいな重く湿った空気が流れ出た。
途端に遠くから聞こえてくる誰かの断末魔。
そう言えばこの香りは他人には劇物だった、と慌てて玄関に滑り込んでドアを閉めた。
一番臭いの濃い台所は見る影も無い。
何故か七色に発光しているクッキー生地が飛散して、しゅうしゅうと音を立てながら煙を出している。
「中々幻想的な光景だねこれは…」
那月の部屋で作ると聞いていたが、翔に泣きつかれてこちらに変更したんだろう。
音も無いこの空間にこの惨状は不気味だが、奥の部屋からはちゃんと人の気配はする。
どこぞのバカップルと違って、いつもお出迎えなどは無いから安否は分からない。
「聖川、居るのか?」
扉一枚隔てた室内に漂う香りはそう強くはない。
まだ春先で風は冷たいというのに正面のガラス窓が全開になっている。
一方だけ開けても空気は循環しないと思うが、被害を拡大しないための応急処置だろうか。

聖川は少しだけ顔に血の気が足りないものの、体調を崩すまではいっていない様子だ。
中央に置かれた共同テーブルに添えられた椅子に座り、目の前の山盛りクッキーを
微動だにせず見つめている。
「おかえり、神宮寺」
「ああ…お前、何してんだよ」
何故か気まずそうな雰囲気を滲ませてる聖川の声に身構えた。
本人は気付かれていると思っていないのか、いつも通りを装っている。
「その…ホワイトデーのお返しなんだが」
目の前にあるのがそうなんじゃないか、と思ったが聖川の視線はレンから
外されてフローリングの板目に注がれている。
突っ立っててもしょうがない、と対面の椅子に座ると僅かに聖川の肩が震えた。
何をびくついてるんだか。
「ホワイトデーね。お前、ちゃんと彼女へお返しはしたのか?」
バレンタインに渡されたチョコは義理にも満たない友チョコ扱いだったが、
個人的にお返しはしている。彼女は随分と恐縮してぺこぺこ何度も礼を言われたのを思い出した。

「………………………………四ノ宮からまとめてしてもらっている」
「ふぅん」
口の中でもごもごと言い辛そうに咀嚼して、たっぷり10秒。
言葉の裏を勘ぐっても文句は言えない時間だ。
何が聖川をそんなに追い詰めているのか、悔しいがさっぱり分からない。
おそらくは那月と一緒にクッキーを作り、彼女の胃袋と脳内細胞を守ったんだろう。
自分のためだけに菓子を作って欲しかったなどどいう思考は持ち合わせていない。
それは聖川だって十分理解しているはずだ。
「これ食べて良いんだろ?」
「ッ!!…あ、ああ」
「…」
やっぱりこのクッキーが原因か。
ファンシーな星型やハート型に焼きあがっているクッキーを摘み上げる。
既製品の型抜き通りに焼きあがっているのはせめてもの救いだ。
咀嚼すると何故か肉汁がじゅわっと口の中に広がる。
「……………………………」
小気味良い音がするはずのクッキーはグミに近い食感で、
噛むと3回に1度の割合で中から原料の分からない汁が噴出してくる。
きゅっと唇を真一文字に引き結んだまま、大真面目な顔で見つめられながらクッキーを次々
口へと放り込む。
「その…神宮寺、俺からのお返しなんだが…」
「シノミーと一緒に作ったこれだろ?やっぱりセンス良いな、シノミーは」
「そ、そうか…それは…良かった」
一緒に作ったわりには那月の個性が圧勝している。
しかしホワイトデーというイベントにかける那月の情熱が聖川を上回ってしまったんだろう。
うず高く積みあがっていたクッキーの山を半分程たいらげた時、
聖川が意を決したように立ち上がった。

「すまん、神宮寺!!!」

行儀作法の教科書みたいな完璧な角度で頭を下げられる。
絹糸のように柔らかで長い前髪がさらさらと落ちて、表情を隠した。
「いきなり謝られてもな」
頭を下げた時を同じ勢いで、聖川が姿勢を正す。
辺りの空気が混ぜられてクッキーの香りを吸い込んでしまったのか
顔色がどんどん悪くなっている。
「座れよ、酷い顔してるぞ」
「…すまん」
短く言って、聖川が促されるままに椅子へと戻る。
気を落ち着けるためか、大きく深呼吸をしてからようやく話し出す。
「俺は、四ノ宮との共同制作のものとは別にクッキーを焼いていた。そのせいで監視がおろそかになり、結果このような
 他人には重大な被害をもたらす兵器が作り出されるのを止めることが出来なかった」
随分と大げさな懺悔だが、まだ翔という最終防衛ラインは突破されていないのだから
大丈夫なんじゃないのか。
口を挟みかけたところで、テーブルにだらりと投げ出していた手をぎゅっと握られる。
「っ!」
一気に体中の血液が顔に集中する。
焦って振りほどくような余裕の無い真似をする事も出来ない。
聖川は長い状況説明を延々と続け、その間も手は触れたまま。
じわじわと上がっていく体温とともに、そこかしこから汗が滲み出す。
「結局綺麗にラッピングされた四ノ宮のクッキーを、自分が作ったレシピ通りのものと入れ替えたんだ」
「…………………は?」
茹ってしまいそうな程の体温が急激に冷めていく。
手を握られて浮かれていた心に聖川の言葉が深く突き刺さって、じくじくと嫌な痛みとともに沈みこむ。

「彼女を危険から守るために咄嗟にそうしてしまった。お前なら四ノ宮の作るものでも平気だからと…すまない」
もう一度、今度はしっかり目を見て謝罪の言葉を受ける。
咄嗟のうちに取った行動が何だって?彼女を守るために?
賞賛されるべき行動はレンにとっては酷い裏切りにしか思えなかった。
彼女がどんなに魅力的な存在で、どんなに心根の優しい人物かはレンだって身を持って知っている。
自分へのプレゼントを優先しろなんて馬鹿な事は言わない。
言わないが、聖川の中の優先順位において自分はかなり下なんだろうと思い知らされてしまった。
「…神宮寺?」
聖川の手から逃れて、歪んだ顔を覆い隠すように両手を広げる。
ポーカーフェイスが出来ていない自分はきっと酷い顔をしているんだろう。
涙が出てこないのが不幸中の幸いだった。この年齢になってぐずぐずと泣くなんて。
「何でもないさ…期待なんてしてないから謝るなよ」
顔をあげて、いつもみたいに笑いながら皮肉を言おうとして、失敗した。
喉の筋肉がしゃくりあげるように痙攣して、間抜けな声を出してしまう。
ぎょっと見開かれた聖川の目から逃れるように視線を逸らす。
先ほどまで聖川の手のひらに包まれて火照っていたレンの右手が、
今は耐えるように固く握り締められている。
ガタ、と聖川が立ち上がった。
動けずにレンがそのままでいると、すぐ横に聖川が屈む気配。
「ずっと共にいて、神宮寺が俺の心情を察して上手く立ち回ってくれる事に甘えた結果こうして
 お前を傷つけてしまったんだな」
レンの膝に置かれていた手が取られる。そのまま恭しく指先に口づけられて、体の熱が一気に戻ってきた。
微かに唇を触れさせたまま見上げられ、あ、と意味の無い声を出す。
「お前を軽んじた事は無い…そう見えたとしたら俺が未熟なせいだ。
 愛を捧げているのはお前だけだ、レン」
熱っぽい真摯な眼差しに縫い付けられて、心臓が弾けたようにドクドクと五月蝿くなった
BACK      NEXT
こいつら恥ずかしい