Your smiles in my heart
02



 焼ける砂浜はどこまでも白く見えた。
 真っ青な空、穏やかな海の波、特価品の爺臭いビーチサンダル。
 遠くに視線を運べば、ゆらゆら揺れる陽炎で、どこもかしこも誰も彼もが歪んで見えた。
 顎に伝わった汗の雫は、俺の足の甲に生温く垂れ落ちた。その鬱陶しさに俺は片足を軽く上げる。
 重力に逆らわず、汗は下方へと一筋の道を作っていった。指の間へと消え去ってゆくむずがゆい感触。
 何もかもゆらゆら揺れている。
 騒ぎはしゃぐ海水浴客を余所に、直人は黒髪の女の子をナンパして……ゲットした。
 混み合う客の間を、まるで泳ぐようにしてすり抜け歩いてゆく二人の後ろ姿。
 ……瞬間直人は振り返った。
 見つめる俺に手を振るその顔には、苦笑とも何ともいえない奇妙な微笑みが浮かんでいた。
 立ち昇る陽炎に遮られて、その姿も揺れてだぶって霞んで見えて、現実感がつかめない、分からない。
 ……だけれどこんなことは日常茶飯だ。俺は首を軽く振って、手にした焼きそばを食い始めた。
 どうせ帰ってくる。
 どうせ直人は俺のところに帰ってくるんだ。いつもそうだったし、……そうでなければ、それはそれで目出度いことだ。
「……それで、いいんだ」
 潮風が俺の頬を嬲る。
 揺れる現実。揺れる俺。手には味気のない焼きそば。俺は一人で待っている。
 ずぅっと、ずっと、多分一生、ずっと……

◆◆◆◆◆

「……そんなところで寝てたら、風邪引くぜ。ほら、起きろって」
「!!」
 大好きな声が脳に届いた。
 まるで音を立てる程の勢いで、俺は眼を見開いた。そこに飛び込んできた映像は、畳とその上に投げ出された自分の腕。
 ……ぐるっと周りを視線だけで見渡す。畳、テレビ台、襖、よく見知った足、切り揃えられた形のいい爪。
 リビングといえば聞こえはいいが、純和風の小さな部屋だ。俺はようやく理解して、熱の溜まった息を大きく吐き出した。
「あ〜あ、汗かいて、顔真っ赤にして……。何やってんだか」
 呆れたような声が、頭上から降りかかる。
 暑さと、体重を預けていたせいか痺れてしまった腕の鈍い痛みもあって、中々言葉が出てこない。
 いや、夢見の悪さが一番の理由だろう。……最低な夢だった。そう、最低な俺の、最低な夢だった。
「い、いててて……」
「ああもうほら……、なあ、手貸した方がいいのか?」
 俺は炬燵に足を突っ込んだまま、みっともなく寝転んでいた身体を、それでも何とか起き上がらせた。
「大丈夫だって……何か、腕が痺れてるだけだからさ」
 座り直そうとした瞬間、ぽたぽたと水滴が目の前の畳の上に垂れ落ちた。
 面を上げれば、心配げに微笑む顔がそこにあった。
「…………」
 風呂上り、濡れた髪をタオルで拭いながら話しかけてくる直人。俺を見てる直人。俺を好きな直人、俺が好きな直人。
「……なに?」
 着ている寝間着は元は俺の物だ。野暮ったいジャージの上下も、着る奴が着ると格好良く見えるから不思議なものだ。
「……咽喉、乾いたなって……」
「……全く。炬燵なんかで寝るからだぜ。頬に畳の跡、つけて、……あ〜あ、寝癖まで……」
 座布団を正して、ようやく俺は座り直した。目線の先……炬燵の天板には、程よく冷えた麦茶のコップがひとつ。
「それ、飲んでいいぜ。もう一杯持ってくるからさ」
「悪ぃ……」
 炬燵は乾燥し易いんだよと、笑いながら台所へ歩いてゆく直人の後ろ姿を見送る。
 ……笑われた後ろ頭を指で探れば、確かにツンと跳ね上がった束の感触がした。
 洗い髪、乾き切らない内に寝ればそうなってしまうだろう。
「…………」
 テレビはつけっ放し。それでも音量は確かに下げられていて、画面の賑やかさが何だか嘘のように思えてしまうほどだ。
「……はぁ」
 額と首筋に滲み出る汗は、炬燵の熱さのせいだ。あんな夢を見たのにも、一役買っていることは確かだろう。
 だけれど俺は、その理由が風呂でも炬燵でもない、垂れ落ちる汗を背中に感じていた。……嫌な、汗だ。
「くそっ……」
 握り締めたコップの冷たさが心地よい。俺はそのまま一気に中身を飲み干した。……夕方の、直人とのやりとりを思い出す。
「分かってるよ……」
 分かってる、分かってる。いや、分かっていたことだ。
 ……理不尽極まりないのは、この俺だ。

◆◆◆◆◆

「…………」
 壁から少しだけ額を離した直人が、僅かに俺を振り返り見る。その顔半分は闇に隠れて、……ますます俺は混乱した。
 いつもの直人の声。いつもの直人の顔。俺だけに見せる直人の『いつも』だ。
 照れと甘えが入り交ざった、どことなく子供のようにも思える、あの表情。
「……何も言ってくれないんだな」
 口元には少しだけ笑みが載せられていた。だけれど、それが本当の笑いではないことも俺には分かる。
 期待を裏切られたときのための、直人なりの防衛策だ。……悲しくなんかない、悲しむようなことじゃない。
 そう他人にも自分にも言い聞かせるための、ピエロの仮面。
「はっきり言うけど、何度でも言うけど、俺は」
 一瞬、直人の瞳に何かの光が生まれた。
 それと同時に俺の耳にもはっきりと届いたものは、ふっ、と、詰めていた息を吐き出す音。
 言い辛そうに少しだけ頬を歪めながら、それでも直人は素早い動作で……まるで迷いを振り払うように俺の方へと向き直った。
「俺はおまえが欲しい」
 壁を背にした直人の顔を、窓から差し込む夕日が照らす。
 茶色の髪がきらきら光って、こんなときまで絵になる奴だと、俺は心の内で苦笑した。
「欲しいんだ……」
 直人はまたその言葉を繰り返した。
 俺に届けたいわけではない、自分に向かって呟いているような、とても寂しい響きの声色。
「…………」
 ……俺は理不尽な奴だ。
 嫌なはずなんか、ない。嫌なはずなんかありゃしない。
 直人の方から持ち出してきたことは、俺にしてみれば願ったり叶ったりだ。
 このままいつもみたいに、……いつもの調子で、いつもの様子で、俺は一言呟けばいいだけだ。
 だけれど、でも。
 ……でもそれだのに声は出ない。
 好きにしろよ、とか、いいぞ、とか。いや、面と向かって恥ずかしいことを言うな、とか、そんなものだっていいはずだ。
 いつものように、直人に振り回されて引っ掻き回されて、情けない俺を強調していればいい。
 了解を思わせる一言で、直人はそれだけで喜ぶはずだ。
 待っていればいい。今も、待っていたからこその結果だ。俺は何の苦労も葛藤も、直人の前に曝け出す必要はない。
 普通に。当然のように。……全てが直人だけの願望のように、澄ました顔でいればいい。待っていればいいだけだ。
 そうすればまるで流されるように、なし崩し的に物事は進むだろう。
 俺はいつもの顔で、直人をたしなめたり怒ったり焦ったり、照れたりしていればいいだけだ。
 待っていれば……ただ、ただ待っていればいいだけだ。俺は、…………。
「……くそっ、畜生っ」
 俺は頭を乱暴に振った。乱雑に揺れる長い前髪の間から、突然のことに驚いている直人の顔が見え隠れしている。
 ……息を吸って、吐いて。俺は直人を真正面から見据えた。
 顎が、咽喉に絡まる言葉を追い出すかのように、自然と上がってゆく。……みっともない。
「直人……」
「……どうかした?」
「俺は……俺だって、俺は……」
「…………」
「俺だって、おまえが欲しいよ」