由比は百合絵と共に、『多恵さん』に会いに行くため、彼女の故郷へと電車で向かっていた。
手を握りながらシートに座り、寄り添う百合絵の温もりを感じながら、由比はぼんやりと窓の外の変わり行く風景を眺めていた。
暫く揺られていると、百合絵が懐かしそうな目をしてゆっくりと話し始める。
「・・・多恵さんの家からは海が見えてね、良く波打ち際を散歩したわ」
「泳がなかったの?」
「・・・・・・泳げないの・・・」
由比が笑うと、百合絵は頬を膨らませて彼の腕を軽くつねった。
「じゃあ、由比は泳げるの!?」
多分彼女は由比が泳げないと思っている。
それが分かった由比は、自信ありげに口端をつり上げた。
「オレは泳ぎ上手だよ」
「え〜?」
どうも信じてもらえていないらしい・・・
本当なのだろうか、と顔を覗き込まれ、思わず苦笑してしまう。
「昔はオレも健康そのものって感じだったんだよ、これでも」
「・・・へぇ・・・・・・ごめん、ね」
すまなそうに謝る百合絵の肩を抱きしめ、自分の方に引き寄せた。
楽しく泳いだのも、健康だったのもずっと昔のこと。
懐かしい、こんな事を思い出すなんて今まで殆ど無かったのに。
由比は、クスッ、と小さく笑うと百合絵の髪を撫でた。
柔らかな彼女の温もりが、この腕の中に自然にあることが幸福でならない。
完全に自分に寄り掛かって、安心しきったその顔が愛おしくて堪らない・・・
「・・・百合絵?」
「・・・・・・・・・ん・・・・・・」
顔を覗き込むと、彼女は目を閉じて殆ど眠っているような状態だ。
由比は、そんな彼女を慈しむように、いつまでも抱きしめる腕を緩めることをしなかった。
▽ ▽ ▽ ▽
「あらあら、ユリちゃんお帰りなさい! さぁ、あなたもお入りなさいな、いらっしゃいどうぞどうぞ」
家に着いた早々、挨拶する間もなく多恵の賑やかな出迎えにあい、押し込められるように家の中に入り、あまりの歓迎ぶりに百合絵も由比も顔を見合わせて笑った。
居間に座ると、用意していたお茶と茶菓子を持って、にこにこした多恵がやってくる。
「はじめまして、本郷多恵と申します。ユリちゃんがいつもお世話になっているようで」
「日向由比と言います。あ、あの・・・お世話になっているのはオレの方ですから・・・」
高校生の自分が百合絵をお世話しているわけがない。
多恵が言っている事が、通例の挨拶だと分かっていてもそんな反応しかできなかったのが恥ずかしい。
頬を赤らめた由比を見て、多恵は益々にこにこと表情を崩す。
「ユリちゃんの学校の生徒さんなんですって? 最初聞いたときは驚いちゃったものだけど、ユリちゃんがこうして男の人を連れてくるのは初めてなのよ。奥手でねぇ・・・恋がわからないってずっと悩んでたから、本当に良かった」
「多恵さん、そんな恥ずかしいこと・・・っ」
「あら、ホントのことじゃないの。全くねぇ・・・こんな日をどれだけ夢見てきたことか」
嬉しそうに話す多恵の言葉に、由比も嬉しくなった。
百合絵からは聞いていたものの、彼女が連れてくる男性など今まで誰一人としていなかったのだと改めて知り、自分が初めての人間なのだと実感出来たから。
それにしても二人はとても仲が良くて、どう見ても親子にしか見えなかった。
百合絵から記憶喪失だと聞いたが、こんな風に明るくいられるのは、この人に出逢えたからなのだろうと納得する。
「ねぇ、ユリちゃん、発作の方は最近はどうなの? 顔色はいいみたいだけど」
「あ・・・うん、・・・たまに苦しくなる程度で、熱も殆ど出ないし凄く調子はいいの」
「それはよかった。でも、無理は禁物だよ」
「多恵さん、相変わらず心配性ね」
くすくす笑う百合絵の横で、由比は不思議そうに二人の話を聞いていた。
「・・・発作って・・・?」
一体何の話だろうか。
「え? 何、ユリちゃん、日向くんに何も話してないの?」
「・・・あ、だって発作なんて全然起きないし・・・」
「ダメだよ、こういうことはちゃんと彼にも知ってもらわないと」
二人して由比の知らない会話をしている。
・・・発作・・・?
何度記憶を呼び覚ましても、百合絵のそれらしい姿を思い出すことは出来なかった。
確かに彼女は細いけれど、決して不健康の部類に入るようには見えない。少なくとも由比の知る限りでは。
渋る百合絵を余所に、多恵は由比に向き直り、先程とはうって変わって真面目な顔になる。
「ユリちゃんはね、ちょっと身体に難しい病気を持っててねぇ・・・無理をしたらいけないんだよ。手術が出来ない体だから、一生この病気と闘っていかなきゃならない」
「・・・手術が出来ない体・・・?」
「麻酔がねぇ、効きにくいんだよ。勿論、他の薬もねぇ・・・」
「・・・・・・」
「無理に手術したって、地獄の苦しみに耐えられる体じゃない。手術中に発作を起こしてそれこそ一環の終わりだろうね・・・」
「で、でもっ、今は発作って全然起こらないのっ! それは、私が多恵さんと出会って、幸せを手に入れたからなんだわ」
「日向くんとも出会ったしね。病は気からって良く言ったもんだけど」
多恵はふんわりと笑いながら、百合絵を愛おしそうに見つめる。
百合絵の方は不安そうな面もちで由比の顔色を窺っていた。
恐らく今までその事を話さなかったという事と、それを知った後の由比の反応が気になったからだろう。
そんな彼女に気づくいた彼は、穏やかに微笑みを浮かべる。
隠し事をしていたからとかそんなことはどうでもいい。
それだったら自分だってしている。
ただ、由比は、今の話を聞いて、百合絵に自分と近いものを感じていた。
ずっと病気で苦しんできた由比。
同じように彼女も・・・
『自分だけ』なんて卑屈になって・・・
ガキだなぁ・・・
そう思うと、ふ、と肩の力が抜けて、多恵達と共に自然と笑い声をたてていた。
▽ ▽ ▽ ▽
「多恵さんって、あったかい人だね」
多恵の住む家を出て少し歩いたところで呟いた。
彼女は由比のことを非常に気に入ったようで、帰る頃にはとても名残惜しそうな顔をしながら、二人を見送った。
由比の方も、もう少しあの場所に留まっていたいと思わせるほど、多恵の人柄は好感の持てるものだったのだ。
「でしょう? 大好きなヒトなのっ!」
多恵を誉められて余程嬉しかったのか、顔を紅潮させて由比の腕にしがみついた。
彼は優しく微笑み、突然何かを思いついたかのように立ち止まる。
「海、歩こうか」
「えっ」
「30分くらいなら大丈夫だよ。行こう」
海・・・
懐かしい。
昔は何も考えることなく過ごして。
あの頃は、日々『楽しい』が全てだったんだ。
由比は幼い頃の自分を思いだし、百合絵の手をつなぎながら波打ち際を歩き出した。
シーズン前の砂浜は寂しいものだけど、二人でいるということが楽しくて。
やがて、
由比が海を見つめたまま立ち止まり、百合絵もその隣で足を止める。
夕焼けに染まった綺麗な海を見ていたら、話すつもりの無かった昔の自分を百合絵に知ってもらいたいと思った。
「・・・・・・オレさ、昔この町に住んでたんだ」
とても穏やかな気分だった。
何か、自分の中で変わったのだろうか。
「・・・小学生の高学年くらいから、体の調子が悪くなって、大きな病院のある今住んでる町に引っ越したんだ」
「・・・・・・そう、だったの・・・」
由比は百合絵を見つめ、小さく微笑んだ。
そして、彼女を優しく抱きしめ、触れるだけのキスをする。
「百合絵に、オレの秘密教えてあげる」
「・・・由比の秘密?」
そう、本当は言うつもりなんて無かった。
百合絵にどれほど焦がれていたのか。
きっと忘れてしまっているあの出来事が、オレにとってどれ程のものだったか。
他の誰かに心が移った事なんて無かった。
幼い時のあのままの憧れを抱き続けて。
再開して、憧れだった筈が、いつの間にかそれだけじゃ済まなくなっていたんだ。
だから、
ずっと、これから先も───
「オレは・・・永遠に百合絵と共にあるから・・・・・・それを忘れないで」
百合絵は、帰りの電車に揺られるときも、由比の胸の中で気持ちよさそうに眠っていた。
幸せそうな彼女の寝顔を見つめていると、この上ない至福を感じる。
ただ、ふとした拍子に強烈に襲われる寂しさは、とても拭いきれるものではなく、もしかしたら顔に出ているのかもしれない、と頭の端で感じていたが、その度に目の前の彼女の顔を見て現実に引き戻された。
いつまでも憶えていよう・・・
きっと持っていけるのはこの気持ちだけだから───
▽ ▽ ▽ ▽
和浩は帰りの遅い由比を心配し、落ち着かない様子で玄関の外で待ち続けていた。
きっといつも通り、こっちの心配を余所にケロッとした顔で帰ってくる。
そうは思うのだが、家の中でジッとしていることが出来なくて、毎度の事ながらこうして待ってしまう。
『カズ兄、心配しすぎ』と由比に苦笑される姿が目に浮かぶようだ、と思いながら。
「・・・・・・あ」
見覚えのある影が、遠くで揺らめいた気がする。
和浩はその方角へ駆け寄り、夜道に浮かび上がる自分の弟の姿を目に留めた。
「由比っ!」
「・・・・・・カズ兄・・・」
・・・・・・?
なんだ?
声に精気が感じられない。
由比の歩調はゆっくりだとしても遅すぎる程で、フラフラと左右に蛇行しているようにも見える。
どす黒い嫌な感じが胸に広がる。
「由比っ!!!??」
叫びながら駆け寄り、由比の肩を掴み顔を覗き込む。
外灯に照らされた顔は、微笑んでいた。
───血の気のない、真っ白な顔で・・・・・・
「なんっ!? おいっ、大丈夫か!? 由比、由比!!! 意識はしっかりしてるか!?」
自分の胸の中に掻き抱き、身体をさする。
由比は、ほぅ・・・と小さく息を吐き出し、くすっと小さく笑った。
「・・・カズ兄、心配しすぎ。オレ、そんなヤワじゃないって」
「由比、由比!!」
本人に自覚はないのだろうか。
身体からどんどん力が抜け、和浩に支えられないと立つことも出来ないというのに。
「・・・オレ、前にさ、医者にあと一年って言われたよね」
「・・・・・・知ってたのか・・・」
「うん、・・・でも、もうあれから一年半以上経ってる、ウソばっかりだ」
「あぁ」
由比の顔色は最悪なのに、彼の気分は高揚しているようだった。
楽しそうに笑って、その顔は無邪気だった頃の由比そのもの・・・・・・
何があった?
今日、どんな楽しいことがあったんだ?
お前にそんな顔させる事が出来るのは誰なんだ?
「なぁ、由比・・・お前さ、好きな女がいるんだろう?」
「・・・・・・」
「その人に、会いに行ってたんだろう? ずっと・・・」
出かけていく時の由比の顔。
心なしかいつも顔が綻んでいるような気がしていた。
それで、何となく由比には誰か想う人間がいるんじゃないかと思った。
その問いかけに由比は、和浩が今まで見たこと無いような優しげな微笑みを浮かべた。
もしかしたら、この顔は和浩じゃない、誰か別の人間に向けられたものだったのかもしれない。
「・・・ヒミツ、だよ」
───結局、
由比からはそれ以上の言葉を聞き出すことは出来ず、
彼は眠るように気を失った───
▽ ▽ ▽ ▽
「由比ッ!!!!」
由比の両親の電話で優吾が病院に駆けつけたのは、由比が倒れてから3日後の夜明け近くだった。
その時既に、彼の周りには由比の家族が集まり、落ち着き払った状態で、見れば由比の酸素マスクも外されている。
「優吾くん、こんな時間にすまないね」
由比の父親が憔悴しきったような表情で笑った。
「・・・・・・あの・・・・・・」
「由比の側にいてやって欲しいんだ」
「・・・・・・・・・」
この異様な雰囲気に、優吾は遂にその時が来たのだと言うことを理解せざるを得なかった。
それでもそんなことを認めたくなくて、優吾は由比の側に歩み寄り、無理矢理微笑みを浮かべる。
「・・・・・・由比」
「・・・ん」
話しかけるとうっすらと目を開け、由比の瞳が優吾を捉える。
「調子悪い? ・・・ねぇ、また一緒に学校行こう、疲れたら僕がおぶって学校まで連れてくからさ」
優吾の言葉に由比はかすかに微笑み、小さく頷いた。
その顔があまりにも儚くて、綺麗で、優吾の瞳からは大粒の雫が止め処なく溢れては床に吸い込まれていく。
「・・・・・・・・・なぁ」
消え入りそうな由比の声。
それを逃すまいと彼の手を握りしめる。
「なに、由比?」
「・・・・・・・・・もうすぐ、・・・・・・夜が明けるな」
うっすらと明かりが差し込んで。
太陽が明るく照らしてくれる。
ポツッ、と頬にあたる暖かい雫。
ばかだな、
何泣いてんだ。
こんな時に湿っぽいのはやめてくれ。
言葉にしようとしたが、どうやら声にはならなかったらしい。
ぼんやりと霞んでいく風景。
目の前の優吾の顔さえも・・・
あぁ、ホント、
今まで気がつかなかったけど。
オマエのこんな顔を見るの、初めてかもしれない・・・
一端明け始めた朝の光は夜の闇を追いやって、
室内に光が射し込む。
「・・・・・・ユリエ・・・」
オレを恨んでいいよ。
何も言わずに、卑怯な事をした。
我が侭で、自分勝手で。
最低だと罵ってくれてかまわない。
百合絵が永遠にオレのことを忘れられないようにと、そればかりに囚われて。
自分のことだけで、残される方の気持ちを理解しようとしなかったなんて、何て子供なんだろう・・・
───あぁ・・・
眩しいな・・・・・・
瞼の向こうが温かい・・・・・・
百合絵。
まだ、眠ってる?
幸せそうに、夢見てる?
百合絵にも見せてあげたいくらい、外はいい眺めだ。
今、夜が、明けたよ・・・
Copyright 2004 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.