『ラブリィ・ダーリン』番外編・1

【前編】





1.ある朝の風景


 高級マンションの一室から神経質そうな顔の男が、皺一つないスーツを当然のように着こなし、姿勢良く出ていく。
 左手にはゴミ袋を2つ抱え、右手には彼愛用の鞄を持ち。
 決められたゴミ置き場にぽんぽん、と袋を置くと、彼は会社に向かうべくその場を後にした。


「あ〜ら、高辻さんのダンナさん、あんな顔してゴミ捨てなんてするのねぇ」
「ウチのなんて全然ダメ! 何もしやしないのよぉっ」
「ウチもよぉっ、でも、高辻さんの所はダンナさんアレでしょう? 飯島グループの本社に勤めてるとかって」
「ホント凄いわよねぇ・・・聞いたところによると専務の秘書やってるんですってよ?」
「へぇっ、秘書って女の人じゃないの?」
「色々いるんじゃないの?」
「だけどまだ30代でしょう? いいわねぇっ、お給料なんてどれくらいもらってるのかしら? あの若さでこんな所に住めるんだものきっと・・・」

 彼が去った後、ゴミを捨てる様子を見ていた近所の主婦達は一様に彼に対する噂話を始めた。
 直ぐに話は金の話に変わってしまったようだったが、高辻という男性は、飯島グループ本社に勤務する専務専属の秘書である。
 ちなみに36歳妻子あり。

 余計な言葉は一切口にせず、しかも能率良く仕事をこなす彼の仕事ぶりは評価に価するもので、彼自身秘書という仕事が天職だと思っている。

 しかし、ここ数日はあることが原因で帰りはいつも午前様。
 彼は何も言わないが、妻の方はそろそろ怒りが頂点に達するかもしれない。


 まぁ、前置きはこの程度にして、今度はその原因を作った当事者にスポットを当ててみようと思う。




2.ちょうど同じ時間のそのまたある朝の風景


「や〜、どうして今日も遅いのぉっ」
「ごめんね、あぁっ泣かないで華ちゃん〜」
「だってだって、最近ずっとなんだもん、休みの日だって仕事だしぃっ!」

 華は目に涙をいっぱい溜めて優吾の胸をポカポカと叩いていた。
 優吾はそんな華をなんとか宥め賺そうと必死でご機嫌取りをしているのだが、一向に彼女の機嫌が直る気配はない。
 彼は一体どうしたものかと困り果てていた。





 二人がこんな事で揉めているのにはそれなりの理由がある。

 というのも、華が湯河に行ってしまった後、優吾は毎日のように仕事を抜け出しては華に会いに行ったり、宗一郎やジュリアのもとへ赴き、華を返して欲しいと飛び回る毎日だった為、本来彼がやるべき仕事は後手後手にまわり、それを見かねた優吾の兄で代表取締役の秀一が彼の仕事の一部を片づけるという羽目になった。

 それが一月以上も続いたものだから秀一としては堪ったものではない。自分のやるべき仕事だけでも多忙を極めているというのに、その上優吾の仕事まで片づけ、彼の疲労は精神的にも肉体的にもピークに達していた。


 そういう事情が有り、無事解決し、華が戻ってきた時、とうとう秀一がキレた。

 今まで残業や休日出勤など殆どしてこなかった優吾に、それを命じ、その上今までの溜まりに溜まった仕事を10日で片づけろという社長命令が下った。
 更にこれまで以上に過酷に組んだスケジュールを涼しい顔で手渡し、それらをこなすまでは休みはないと思えとばかりに仕事をまわしてくる。

 これまで秀一が彼に甘かったのは、華という存在があったからだが、ここまで仕事に支障を来されては他の社員に示しがつかない。一度くらい灸を据えるつもりで、秀一は心を鬼にしたのだった。


「次の日曜日は多分休めるから、ね?」
「・・・そう言ってこの前も休みじゃなかった・・・」
「次こそ絶対休みもらうから、だから笑って華ちゃん」

 優吾は華をギュッと抱きしめ、何度も頭を撫でた。
 そうしているうちにようやく気持ちを落ち着かせた華が、優吾をじっと見上げる。
 まだ目に涙をいっぱい溜めているが、先程までのような不機嫌さではない。
 それに気づき、優吾はにっこり笑うと彼女の唇に優しくキスを落とした。

 唇が離れると華はちょっと恥ずかしそうにして、俯く。

「ごめんね・・・ワガママ・・・・・・」
「いいんだよ。ワガママくらいいっぱい言ったって」
「・・・でも・・・」
「どんなワガママだって、華ちゃんのだったら聞いてあげたいんだ。だけど、今回はお仕事全部片づけないとダメみたい。秀一くんの頭に角が生えてるから」
「・・・そっか・・・私も悪いんだもんね、ごめんねパパ、ちゃんと我慢できるから」

 華は優吾に抱きつくと、彼に自分からキスをする。まだそういう事に慣れていない様子は初々しく、優吾の胸を高鳴らせた。


「パパ、大好き」

「僕も華ちゃん大好き」



 しかし、今は朝で華は学校の時間が迫っている。そんなことをいつまでもしている場合ではなかった。
 それを思い出した優吾が慌てて華を送り出す。


「いってらっしゃ〜い」
「は〜い・・・・・・あ、パパ。晩ご飯って一人で食べるの寂しくない?」
「ん? それは・・・・」
「じゃあ、私今日パパの晩ご飯会社に持ってくね♪ お仕事の邪魔はしないから、ね? いいでしょ? 私もたまにはパパと晩ご飯一緒したいもん」

 華の提案に優吾が頷かないわけがなかった。

「うんっ! わぁ・・・楽しみだなぁ・・・」







3.高辻秘書の苦悩


「本日は、十時から役員会議、正午から伊勢物産の代表取締役との会食。そして1時半からはFUJISAKIコーポレーションとの契約に向かってもらいます」

「・・・ねぇ、高辻くん」
「それから・・・え? はい、何でしょう、専務」

「もうちょっと何とかならない?」
「と、言いますと?」
「う〜ん、何て言うかさぁ、僕の身体が何個もあればいいけど、やっぱさ〜・・・」

 だが、そこまで聞いて、秘書である高辻は優吾が何を言いたいのか察し、これ以上彼に喋らせても時間の無駄だと思い、本日のスケジュールを再び読み上げる。

 優吾の仕事嫌いは今更始まったことではない。

 しかし、彼に仕事をさせてプラスになることは有ってもマイナスになったことは一度もない。それは会社にとってということではあるが。
 高辻は優吾のプライベートにとやかく口を挟む気は毛頭ないが、プライベートによって優吾の優秀なビジネスセンスをことごとくないがしろにされるのも内心穏やかではいられない。
 だから、この前華を取り戻すために優吾が仕事を疎かにしたことがとても悔しくてならないのだ。

 それに、例え優吾が仕事に対して情熱を持っていなくとも、与えられた仕事だけはこなしてもらわなくてはならない。自分のプライドに賭けても。

 高辻が本日のスケジュールを全て読み上げる頃には優吾はすっかり大人しくなっていた。
 だが、今日はそれでも少しだけ抵抗を見せる。

「ねぇ、せめてさ、夜の七時から九時までは会社で仕事させてよ。今日だけ、ね?」
「・・・・・・しかし、本日の予定でいきますとその時間は・・・」
「高辻く〜ん! お願いっ、何とかしてよ、今日華ちゃんが来るんだよぉ」
「なっ!?」

 両手を合わせて拝むような姿勢で高辻にお願いする優吾に、彼は気を失いそうになった。
 まさか、会社に優吾の娘が来るとは・・・


 優吾の娘はまだ高校一年生。
 極偶にではあるが優吾に会いに会社にやってくる。人形のような愛らしい様子の彼女にメロメロになってしまう優吾の気持ちもわからないではない。
 初めて彼女に会ったとき、能面のようだと陰口を叩かれている高辻の表情も穏やかになってしまったくらいだった。
 周囲の人間も華が来ると嬉しそうに目尻を下げ、滅多に笑わない社長ですら華には甘い。

 だが、問題はそこではない。

 問題は・・・彼女が来ると優吾は全く仕事をしないということだった。

 仕事が詰まったこの状況で彼女が来て、優吾が仕事をしなければその分のツケは明日以降に回ってくることになる・・・

「・・・専務・・・それは・・・決定事項なのですか?」
「ウン、晩ご飯作ってきてくれるんだって。高辻くんも一緒に食べようよ。華ちゃんの料理美味しいよ〜」
「・・・はぁ・・・・・・」

 夕飯・・・そういえば最近は帰りの遅い自分に妻も大したものは作ってくれない。昨日などはカップラーメンの横にポットが置いてあっただけだった。

 高辻がそんな事を思っていると、優吾はこれはイケると思ったのか、にこにこしながらスケジュール変更を願い出た。

「お願い〜っ、そしたら僕今日ウンと仕事がんばっちゃう!!」
「えっ? 本当ですか?」
「ウンっ!」

 高辻の方もやる気になった優吾を放っておく手はないと目を光らせ、少し考えた末に超過密スケジュールで予定を組むことにした。






4.ロビーにて


 午後七時、高辻の組んだ殺人的スケジュールをこなし、優吾は会社に戻ってくることが出来た。高辻の表情が心なしか綻んでいる事から極めて優良な仕事が出来たということが窺い知れる。
 優吾は腕時計に目をやり、何とか間に合ったと安堵の溜息を漏らす。

「高辻くん、今日ってまだ仕事しちゃったりする?」
「・・・え? 九時以降という事ですか?」
「うん」
「専務がやる気でしたらおつき合いしますが」
「まさかっ、・・・って事は今日はこれで終わりなんだね?」
「・・・はい。その為に組み直したスケジュールですから」

 どうせお嬢様が来た後では到底仕事ははかどらないでしょうし・・・
 そう思ったが、高辻は口には出さなかった。

「あぁ〜、頑張ってよかった〜」
「そうですね、本日の専務の仕事ぶりは実に素晴らしかったです」

 お世辞などではなく、高辻は優吾を褒め称えた。
 こんな平和そうな顔をしているが、彼もやはり飯島の男。会長や社長に引けを取らないほどの器を持っているのだ。
 もう少し貪欲になればとは思うが、今日の仕事ぶりを見て、『華』という存在がもしかしたらこれからの彼を左右するかもしれないなどと思ってしまう高辻だった。


 だが、二人が会社に入り、足早にエレベーターに乗り込もうとした、

 その時、

「優吾さんっ」

 そんな声に後ろから呼ばれ、二人は一斉に振り返った。
 そこにはまるでモデルのようなスタイルで綺麗に化粧した美しい女性が立っていた。

 優吾は声の主を見て不思議そうな顔で首を傾げたが、やがてふんわりといつもの微笑を讃えた。

「紫藤さん、どうしたの?」

「こんばんわ」

 紫藤さんと呼ばれた女性は、優吾の隣にいる高辻に目配せをして『優吾と二人で話がしたい』ということをアピールする。
 それに気づいた高辻は、その場を去ろうとしたが、優吾はそれを制した。

「高辻くんはここにいていいんだよ。話は直ぐ済むから」
「し、しかし・・・彼女は・・・」

 彼女は・・・

 優吾が一度だけお見合いをした女性だった。




後編に続く


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