『手の中の幸せ』
○最終話○ 描いた未来(その6) ───数年後─── バアルの宮殿の一室では、決まった時間になると毎日のように子供の楽しそうな笑い声が響いていた。 「きゃあっ、きゃー、クラーク、もっともっと抱っこしてっ!!」 「いいよ、次はさっきよりうんと高く抱きあげようか」 「もっともっとー!!」 「レイ、たのしい?」 「たのしーーっ!!!」 望むままに抱き上げてやると、手足をばたつかせてはしゃぐレイ。 その愛らしい笑い声に目を細め、クラークはレイをぎゅうっと抱きしめて頬にキスを落とした。 「レイ、かわいいね。大好きだよ。レイも私のことが好き?」 「うんっ! クラークいっぱい抱っこしてくれるもんっ」 「それだけ?」 「あとね、一緒にねんねして、おはなしたくさんしてくれるしね」 「ほかには?」 「いっぱい遊んでくれるしね、ほかにもいっぱいいっぱいっ!」 「そう、うれしいよ。愛してるよ、レイ」 そう言ってクラークはもう一度レイを高く抱き上げる。 そのままぐるぐる回ってやると、益々はしゃいだレイは大興奮で頬を真っ赤に紅潮させて喜んだ。 ───コン、コン 「・・・入っていいよ」 扉をノックする音を聞き、クラークはレイを胸に抱きしめながら返事をする。 返事と共に顔を覗かせたのは、クラウザーだった。 「あーっ、クラウザーっ!」 レイは嬉しそうに声をあげ、それを見てクラークは彼を降ろしてやった。 降りた途端クラウザーの元に駆け寄ったレイは、彼の腰に力いっぱいに抱きついて甘えてみせる。 「レイ、一週間ぶりだね」 「あのねっ、いっぱいおもちゃあるのっ、クラークがね、こんどクラウザーが来たとき遊べるようにって、いっぱいあるんだよっ!」 「そうなんだ。・・・父上、ありがとうございます」 「いや、レイが喜ぶのが嬉しくて、気がついたら山のように増えてしまったんだ。・・・あぁ、来た早々悪いがそろそろ執務に戻らなければならない、後は任せていいかい?」 「はいっ」 「レイ、私はこれから少しいなくなるけど、今日は戻ってくるまでクラウザーがいてくれる。一週間分甘えたらいいよ」 「うんっ!!!」 クラークは大きく返事をするレイの額にキスをして、クラウザーには『頼んだよ』と頭を一度だけ撫でて部屋を退出していった。 クラウザーは暫し優しい父の微笑みに放心していたが、レイの声に我に返り、彼を抱きしめ昔から変わらぬキスを頬に落とす。 「レイ・・・、父上は優しい?」 「うんっ!! いちばんだいすき」 「・・・ぼくもだよ・・・、一緒だね」 あれから数年が経過したが、クラークはクラウザーの出入りを禁じる事はしなかった。 むしろレイが彼に懐いていることは承知していたし、クラウザーもレイを殊の外可愛がっているのを知っている。 何よりもクラークに忠実であろうとする彼が裏切りを働くなど考え難く、むしろこうやって週に一度は彼を部屋に呼んでレイの相手を任せているほどだ。 レイにはこうして触れ合える相手が必要だった。 彼の存在は現時点でも一切の情報が外部に漏れる事のないように徹底的に管理がなされ、レイ自身一度もこの部屋から外に出たことがない。 だから、レイと接する事が出来るのは極少数の者だけで、遊び相手となると更に絞られ、クラークかニーナかバティン、あとは時々訪れるクラウザーに限られる。 生まれて数年しか経っていない幼い心と、それに見合わない身体の成長・・・ 他にも懸念すべき問題はあるが、少なくともそれらの溝が埋まるまで、あと少しだけ時間が必要だったのだ。 クラークは部屋を出て廊下を少し歩いた所で、数冊の本を抱えて部屋から出てくるバティンの後ろ姿を目にした。 彼は一瞬だけ逡巡した後、バティンに追いついて声をかける事にした。 「バティン」 「・・・は」 「・・・執務室へ向かう前に寄りたいところがあるんだが、一緒に行かないか?」 「・・・・・・は、・・・はい・・・、畏まりました・・・」 クラークの言葉にバティンは僅かに顔を強ばらせたが、直ぐにいつも通りの難しい顔になって静かに頭を下げる。 あんな事が有ったにも関わらず、クラークの態度は以前と何ら変わる事がない。 その微笑みの裏にどのような負の感情があっても不思議ではないが、昔と変わらず接してみせる度量の大きさはそう真似できるものではないとバティンは思う。 しかし、こうしてクラークに誘われたとき、向かう場所はひとつと決まっていた。 それを拒絶するような気は毛頭無いのだが、彼と二人で向かうのには、まだ少しだけ抵抗を感じる心がバティンの中に存在しているのだ。 クラークのブーツの踵が規則正しい速度で堂々と鳴り響き、その後ろに従うようにバティンが足音も無く続いていく。 互いに交わされる会話もないまま向かうのは、薄暗い地下牢へと続く道だった。 しかし、地下へと続く階段を降りて延々と続く地下牢を通り過ぎながらも、2人ともそれらには一切の関心を示す事はなく、時折罪人達の呻きが響くだけで、それら全てを無視するかのように通り過ぎて行くだけだ。 名目上、地下牢を見て回る・・・というだけで、実際の目的はそれではないという事なのだろう。 それを証明するかのように、突き当たりの壁にひっそりと存在する小部屋の前で立ち止まった2人は、その部屋へと消えていったのだ。 実を言うと、ここには一部の者だけが知り得る秘密が存在する。 一見しただけでは単なる物置にしか見えないそこは、極一部の者だけが知る更なる地下へと続く入り口が存在していたのだ。 「・・・・・お前と此処に来るようになって随分経ったな・・・」 「・・・・・・は・・・」 床に仕掛けられた更なる地下への道を開きながら、クラークが小さく呟く。 前を行くその表情はわからない。 だが、抑揚のない声音に含まれる哀しい響きに、バティンは言葉を失い、『行こう』と静かに促すクラークの後を、俯きながらついていく事しかできなかった。 気休め程度に点在する灯りを頼りに地下へと続く階段を降りていくと、吐いた息が白くなる程周囲を包む温度は著しく低下していく。 最下層まで足を進めると、奥へと続く仄暗い通路をひたすら進んでいった先には、何の入り口か分からない扉がいくつも点在していた。 やがて2人は、その中の一つの扉の前に立ち止まり、おもむろにゆっくりと開け放った。 「・・・・・・あぁ、ニーナ、君も来ていたのか」 「・・・・あ・・・クラーク様・・・」 あまりに暗く冷気に包まれた此処までの道のりとはかけ離れ、部屋の中は温かく柔らかな明かりに包まれている。 そこにはニーナがいて、彼女はどうやら新しい花を生けにやってきていたらしく、扉が開く音と共に色とりどりの花で飾られた花瓶を手に此方を振り返った。 既にいた先客の存在にクラークは笑みを零し、部屋の中央まで静かに足を進める。 部屋の中央・・・ そこにいるのは─── 「ビオラ・・・・・・」 静かなこの場所で、ベッドに横たわったまま天井を見つめるビオラの存在があった。 だが、クラークが側に来ても彼女が反応する事は一切無く、横たわる身体を抱き上げられても、その瞳には何も映っていないかの如く視線ひとつ動かす事はない。 異常なまでに低い体温からは生きた温もりを感じる事は出来ないが、耳を寄せれば微かに聞こえる小さな呼吸音が確認でき、開いた瞳が時折瞬くのを目にする事によって、辛うじて彼女がこの世に留まっている事を教えてくれた。 彼女はあの事件の翌朝、徐々に冷たくなる身体を感じながら絶望の底で打ちひしがれていたクラークの腕の中で、唐突に目を覚ましたのだ。 クラークに限らず、バティンやニーナまでもが一転して驚喜したのは言うまでもない。 ・・・だが、そんな彼らを再び谷底へ突き落とすかのように待っていた現実はあまりに残酷だった。 最早人形になってしまったと言っても過言ではないビオラの存在は、まるで魂の無い抜け殻のようになっていたのだ。 「・・・・・・・・・あれから、随分経ちました・・・・・・。レイ様も、もう少し経てばあのように閉じこめた環境から解放出来るでしょう・・・・・・」 「そうだな。あのままどこまで成長を続けるのかと思っていたが・・・」 クラークは小さく笑い、ビオラの手を握りしめた。 触れていると少しだけ温かくなる・・・彼は僅かに目を細めて、彼女がこうなってからの数年に想いを馳せる。 ビオラが眠りに落ちたあの日から、レイの異常なまでの成長も止まった。 そこからは普通の子供と同じような速度で、ゆっくりと確実に大きくなっている。 あと少し経てば同年代の子供よりは大きくとも、それほど不審に思われるような事も無いだろう。 そうしたら、生まれて一度も出たことのないあの部屋からも出してやることが出来る。 窮屈な思いをさせているのは本当に可哀相だった。 だが、あまりに他と違うレイの存在を好奇の目で穢されるくらいなら、例え狭い中に閉じこめようとも、限られた者だけで大切に慈しんでいった方が余程いいと思えたのだ。 現時点でもレイを知るのは、クラークとクラウザー、バティン、ニーナ、・・・そしてナディアと信頼できる数人の部下に留まる。 あの日ナディアを宮殿中央に侵入させた衛兵に扮した彼女の側近は、その翌日には極刑に処され既にこの世にはいない。 実を言うと、あの毒はアカシアの滝の主に近い種の獣の牙から採取された猛毒で、解毒剤など最初から存在しなかった事が直ぐに判明した。 強烈な自白剤によってその者に一部始終を暴露させるのはそれ程難しい事ではなく、また、事の重大さにその者の極刑が免れない事は当然と言えたのだ。 更には一連の暴露により彼女の息のかかる重臣、兵士、身の回りの世話をする侍女、とにかくナディアを取り巻く存在は徹底的に調べ上げられ、疑惑が持たれる者は重罰に処し、果ては国外追放するに至った。 しかしナディアに於いては・・・ この期に及んでも尚、面倒な事に悩まされる羽目に陥ってしまったのだ。 事件より一年ほどの彼女は、言動も小さな子供のようでぐずったり我が儘を言ったりと、誰が見ても異常な状態を見せていた。 そのうえ、少し落ち着きを取り戻したと思えるようになった時には、あの日、レイが彼女に襲いかかった事は憶えているというのに、よりによってビオラに対して自分が何をしたのか、一切の記憶を失くしていたのだ。 その手の事象に詳しい者に言わせれば、極度のヒステリーによる記憶障害という事らしいが、己の手で犯した罪を忘却の淵に追いやっただけに留まらず、自身の側近達をことごとく奪われた事に激しく激昂してみせた彼女の態度を見て、其処まで自分に都合よく生きられるものかとあの場にいた誰もを呆れさせたのは言うまでもない。 それが理由というわけではないが、クラークはナディア自身には何一つ罰を与えていない。 所謂政略結婚をした彼女の生まれは、隣国アスタロトの王族の血を引く姫君だ。 北の棟に追いやっている現状すら、政治的にはマイナスであり、長く続けることでのリスクは否めない。 つまり、今後も隣国と強い結びつきを望むバアルにとって、ナディアの存在を無視し続けることは出来ず、それ以上の罰を与えることで巻き起こるであろう政争は誰ひとり望まぬ事であり、クラークと謂えども現時点では感情に任せて強行に踏み切る事が出来なかったのだ。 だが、それはきっと表向きの問題に過ぎないのだろう。 指輪の毒も何もかも状況証拠は揃っていた。 隣国との関係を保てなくなろうと、罪を問い罰を与える事など、やろうと思えば出来たはずなのだ。 にも関わらず、彼はビオラの存在そのものを隠してしまい、あの日何があったのかの真相を、肝心なところで自らの手で有耶無耶にしてしまったのは紛れもない事実なのだ。 もしかしたら、全ての悪意から彼女を遠ざけようとしただけではなく、ひっそりと自分達だけの世界を築かなければ己を保つ事が既に出来なくなっていたのかも知れない。 「・・・・・・ビオラ・・・、レイは元気に成長しているよ。君に益々似てきて眩しいくらいだ。・・・その姿を君に見せられないのが残念だけど・・・・・・、いつか必ずレイをこの場所へ連れてくるよ・・・・・・」 そう言ってクラークはビオラの頬にキスを落とす。 柔らな頬の感触と静かな吐息が、彼女が確実に生きていることを示しているようだった。 本当は毒を受けたあの日、この世から一度は命がこぼれ落ちた筈だった。 それを引き戻したのは、レイの力だ。 彼女の傷に、あの光る手で触れ、落とした筈の命をレイがすくい上げたのだ。 クラークに出来たのは、この命を必死で繋ぎ止めるかのように、今日まで抱きしめ続ける事くらいだった。 レイには母はいないと、亡くなったのだと言い聞かせている。 誰にも・・・、この場にいる3人だけが今のビオラを知る全てなのだ。 しかしいつか必ず・・・・・・ レイが大人になり、彼の力の全てがその器の中で完成された暁には・・・・・・ 「・・・・・・・・・レイが・・・・・・、君を救ってくれる唯一の希望だ・・・」 小さく呟いた言葉に、側で聞いていたバティンは切なそうに瞳を揺らした。 全ては確信の無い望みだ。 それでもこの数年間、いつか必ずと願い続けてきた想いだった。 バティン自身も、それでビオラが幸福な未来を歩んでくれるのなら願っても無い事だと思っている。 だが、彼にはどうしても頭を掠めてしまうものがあるのだ。 彼女が目覚めたら・・・、辛うじて均衡を保ち続けているものが崩れてしまいそうで・・・そんな予感が消えないのだ。 ビオラの半身が・・・・・・・・・、 レイドックがこのまま黙っているはずがないと・・・・・・・・・ バティンは辛そうに目を閉じ、ベルフェゴールを追放された日の事を思い出していた。 『・・・・・・陛下・・・・・・、貴方はもしや・・・・・・・・・』 事は偶々2人きりになったレイドックの居室で突然起こった─── バティンは、生まれてまだ数年の小さな存在が恐怖でならなかった。 この存在が今後のベルフェゴールを支えていくと思うと、計り知れない可能性を感じると共に、不気味な想いに支配されていくのを止められなかったのを今でも強烈に憶えている。 レイドックはあの瞬間、幼子とは思えない冷酷な目をして、辛辣な口調でバティンを糾弾してみせたのだ。 『・・・姿が幼いだけで誰もが子供と侮る。・・・だが、誰が好きこのんでこのように生まれるものか。生まれる前からこの耳で聞き、何もかも筒抜けだった言葉の数々に振り回され・・・、お前が父上に進言し続けた事も、・・・それによって、ビオラと結ばれるという望みの全てが絶たれた事も・・・』 『陛下・・・』 『この地位に立つ事であの子を守る事が出来るならそれでいいと何度も納得しようとした。・・・だが、無性に堪えられない瞬間が訪れる。・・・禁忌であろうと、呪われた血であろうと、どうしてもあの子が欲しくて堪らない・・・。なのに現実はお前達の勝手な言い分で、あの子の全てが遠いものとなってしまった』 レイドックはバティンの側に寄り、幼子とは思えないほど恐ろしく整った美しい顔を歪めた。 『・・・・・・貴様を見ているだけで怒りがおさまらぬ。もう二度とこの地を踏めると思うな』 そうしてあの日・・・ レイドックの特異とも呼べる力によって国境まで一瞬にして弾き飛ばされたバティンは、再び故郷に戻ろうにも巨大な結界に阻まれ、目の前の土を踏みしめる事すら出来ず、言葉通り追放されてしまったのだ。 あの瞬間、これまでのレイドックは、赤子を演じ続けていたのだと理解した。 生後一年で先代の皇帝が無くなった為に、その椅子に座ることを余儀なくされた哀れな皇帝。 まだ大人の言葉もろくに理解出来ない彼には、皇帝という言葉だけの地位が与えられただけに過ぎず、現実は大人達が政治を取り仕切っていた。 ・・・・・・だが、バティンを追放したあの日・・・・・・、 全てはレイドックの手のひらで我らが踊らされていたに過ぎないことを知った。 彼は何もかもを理解し、その上で我らを静観し続けていたのだ。 あの時のレイドックのビオラへの執着は自分が何よりも恐れるものだった。 しかし・・・・・・既に自分には何の手立ても赦されず・・・・・ どうか彼らが不幸な道を歩まぬよう・・・追放された後も、ただそれだけを願うばかりだった。 「バティン、・・・二人きりにしてあげよう」 ニーナに腕を引かれ、バティンはハッとして我に返り、小さく笑う彼女に眼を細めた。 あの追放から数週間、たった一人広大な森を彷徨っていた自分を追いかけてきたニーナ。 服も身体も泥で塗れ、汚れた顔で『また会えたね』と笑う彼女を見た瞬間の込み上げる思いは二度と忘れないだろう。 今も側に彼女がいることで、どれ程安らぎを与えられているか計り知れない。 「・・・・・・クラーク様、では我々はここで・・・・・・」 彼女と共に部屋を出て行く事にしたバティンは思いを引きずるかのように、ひっそりとクラークを振り返る。 声を掛けられたクラークは、小さく頷いただけで此方を振り返ることはなかった。 バティンもニーナもそんな光景を数え切れないほど見てきた。 クラークはあの日の事で、二人を責めるような事を一切しない。 ビオラが優先させた命を彼なりに受け入れたのか・・・それは彼にしか分からない事だ。 だが、あのように寂しそうな背中でビオラに話しかける彼を見ていると、居たたまれなくなってしまう。 真実など永遠に闇の中に消えてしまえばいい。 彼こそがビオラの夫であり、レイの父親そのものなのだと・・・。 だから、いつかきっと・・・・・・ 彼の願いが叶う日が来ることを自分達も心から祈りたい。 「ずっと側にいるよ。・・・君をひとりにしないから・・・」 クラークの小さなつぶやきを最後に扉は閉まり、後は二人だけの時間がそこに存在するだけだった。 そうして彼は、その時が来るのを今も待ち続けているのだ。 決してこの手を離さないと心に誓い、 ビオラとレイと自分と・・・・3人で過ごす幸せな未来を心に描きながら・・・─── 2011.8.19 了 Copyright 2011 桜井さくや. 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