小田急線の相模大野駅・三番線ホームに入線している快速に、ひとりの少女が隠れるように乗車していた。
平日の昼間ということで、さほど混雑はしていない。
もっと人混みのある方がいいのに、と少女は思っていた。

肩まである黒く艶やかな髪は、目の上で真っ直ぐに切り揃えられている。
顔全体が小さく、黒目がちの大きな目、小振りだが筋の通った鼻、小さめの口元。
中学生くらいだろうか。
おとなしそうな女の子だ。
童顔のようだから、もう少し上の可能性もあるが、高校生以上ではあるまい。

ウィークデイの真っ昼間に、体操着のジャージを着た少女が電車に乗っているのは、いかにも不自然である。
同級生や教師らしい引率でもいればともかく、彼女はひとりのようだ。
訝しげな視線が集まるたびに、少女は顔を隠し、身をすくめてシートに身体を押しつけた。
時間合わせのためか、列車はまだホームに入ったまま発車しようとはしない。
少女は不安げな顔を窓に押しつけ、ホームを見渡した。

「神奈川県……」

やっとここまで来た、というべきか、まだここなのか、と思うべきか微妙なところだった。
目的地まで、最短で行けば1時間40分ほどで行けたはずだった。
だが、その径路は誰でも考えつくから、追っ手も当然そのルートを辿るだろう。
だから少女は、なるべく乗り換えの多そうな路線を選んだ。
最初は、出発点の御殿場から御殿場線で沼津まで出て、東海道線に乗り換えて三島まで行き、そこから東海道新幹線で
一気に東京まで出るつもりだった。
そのつもりでお金を貯めていたし、仲間からのカンパもあったから、資金的には充分だった。
しかし、逃げられたと知った敵も、彼女の逃亡先を読めばそこを追ってくるはずだ。

結局、少女が選んだルートは、御殿場線で松田まで出て、そこから歩いて小田急の新松田まで行って相模大野へ回るものだった。
そこで乗り換えて新宿まで出るコースだ。
無論、相手もそれくらいは考えるかも知れないが、さほど追っ手に数は裂けないはずである。
それに、何も列車で逃げるとは限らないのだ。
長距離バスやタクシーの乗り継ぎ、あるいはヒッチハイクという可能性だってなくはない。

それらすべてに手を回すことは出来ないだろう。
クルマで逃げたケースと電車を使ったケースの両方を想定したとして、それぞれを追跡する人数はかなり少ないはずだ。
ルートによっては人員が回されない場合もあるに違いない。
最短ルートの1時間40分に比べ、2時間30分もかかるが、これが最も安全に思えた。

少女は、このルートに追っ手が掛からないことを祈っていた。
車内放送が「間もなく発車」と告げている。
アナウンスが終わるのとほぼ同時に、発車を知らせるチャイムがホームに鳴り響く。
ホッとしたように少女はシートに身を埋めた。

「……!」

虚ろだった少女の瞳が、連絡通路の階段に焦点を合わせた。
黒いスーツの男がふたり、足早に歩いてくる。
見たこともない男たちだが、少女は本能的に「敵」だと判断した。

(早く、早く出て!)

少女は祈るような気持ちで、落ち着きなく車内を見回した。
窓から外を見ると、ベルと同時に男たちが駆けだしてきている。
最後尾の車両に辿り着く寸前に、自動ドアがぴしゃりと閉まった。
男のひとりが悔しそうに列車を蹴飛ばし、もうひとりは駅員に食ってかかっている。
ガタンと軽い衝撃があった後、列車はゆっくりと走り始めた。

──────────────────

新宿駅南口。紅恵は、同じ学部の友人ふたりと談笑しながら歩いていた。
お昼時であり、どこで食べようかとワイワイ騒いでいる。

「モス行かない? 大学戻って学食ってのも芸がないよ」
「またハンバーガー? 昨日マック行ったじゃん」
「じゃ何にすんの?」
「私、麺類がいいなあ。パスタとか。あ、うどんもいいな、最近食べてないし」
「うどんかあ。あそこの讃岐うどんのお店おいしかったよね。そこにしよっか」
「うん。ね、恵は?」
「え?」

突然に話しかけられたような気がして、紅恵はきょとんとした。
その顔を見て友美と早百合がころころと笑った。

「あんた、本当にぼけっとしてること多いよ」
「そうかな」
「そうよ。お腹空きすぎ?」

そう言って屈託なく笑う学友を見て、恵もややぎこちない笑みを浮かべた。
平和だと思う。
スパルタ学園時代がウソみたいだ。
あの頃は、何だかいつも殺気立っていたような気がする。
だからこそ、仲間たちとの他愛のない時間が貴重だった。
いつも気が張っていたし、充実していたように思う。

今はまるで逆だ。
義憤を感じたり、怒ったりすることがなくなった。
それは「本気になること」がなくなった、というのと同義だった。
気疲れしなくていいが、張り合いもなかった。

恵は学園を卒業後、通訳を将来の道に選んだ。
別に通訳という職を目標にしていたわけではないし、憧れていたわけでもない。
「何となく」である。
スパルタ学園時代というより、中学の頃から英語は得意で好きだったし、筆記だけでなく話すのもリスニングもさほど難しい
とは思わなかった。
相手とコミニュケーションが取れないというのがイヤな性分だったから、言語には興味があったのだ。

スパルタ学園は、英語はもちろん第二外国語というのもあった。
科目には、フランス語や中国語、ハングルにラテン語まであったが、恵はドイツ語を選択した。
理由はない。
これも「何となく」である。

彼女の、高校時代の成績は極めて良かったが、中でもやはり語学はずば抜けていた。
こと英語に関しては、学園創設以来の秀才と謳われた結花とトップを争うほどだったのだ。
そんな訳で、恵は東京大学文科一類を受験し、当然のように一発合格した。
恵本人としては、どうせなら東京外国語大を受験しようかとも思ったのだが、指導教師に説得されて東大に変えた経緯がある。
恵はどちらでも良かったから、素直に従った。
今は東大文学部ドイツ語ドイツ文学専修課程の二年生である。
恵が言葉を濁していると、突然に突き飛ばされた。

「あっ」

170センチの大柄な恵からすれば小柄な相手だった。
女性らしい。そんな相手に突き飛ばされるというのも彼女らしくなかった。
というより、向かってくる相手に、ぶつかるまで気づかなかったというのが情けない。
本当に焼きが回ったかなと思うと何だか可笑しくて、尻餅を突いたまま小さく笑ってしまった。

「大丈夫!?」
「怪我してない!?」

慌ててふたりが駆け寄ってきてくれた。
恵の手を取り、立ち上がらせる。
恵が無事と知ると、今度は彼女の代わりに怒りだした。

「何よ、あの子!」
「失礼よね、謝りもしないなんて」
「……」

恵は彼女たちを見ている。
憤ってくれている友美たちは友人ではあるが、実はそんなに親しいわけでもない。
少なくとも恵はそう思っている。
彼女たちは恵を友達と思っているようだが、恵の方はそれほど強い結びつきを感じてはいなかった。

ただ、中学や高校の時のように突っ張っているのにも疲れたし、流されるようにみんなと妥協している。
そんな中で、「つき合っていても比較的疲れない相手である程度」の認識なのだ。
実際「良い子」たちなのだ。
愛想が良く、それなりに思いやりもあって、気軽につきあえる。
そういうタイプだ。
だが、裏を返せば上っ面だけの付き合いだとも言えた。

スパルタ学園時代、けっこう仮面の同志たちに感じていた一体感や、高橋真弓たちのような学園側に虐められていた生徒に
持っていたシンパシーはなかった。
つかず離れず、間が薄い壁に隔てられたような関係だと思っていた。
それでも、さっぱりとした性格でリーダーシップもある恵は、彼女の思惑とは別に人気者なのであった。

その時、三人のすぐ脇をふたりの男が駆け抜けていった。
彼らも通行人を弾き飛ばすようにして全力疾走している。

「あれ……」

足下に紙が散らばっている。
落ちたブリーフケースの口が開いており、その中に入っていたらしい書類のようなものが道に広がっていた。
よく見ると、片側のエレメントがスライダーから外れていた。
これを直すのは少しコツがあるが、手先の器用な恵は難なく修繕した。

「あ、恵の?」

拾い出した恵に気づいたのか、早百合がすぐにしゃがんで紙を拾い集めてくれた。

「いや、あたしのじゃないけど……」
「え!? じゃあ……」
「よくわからないけど、さっきの子のじゃないかな」
「じゃ何で拾ってんの?」

手渡された書類を集め、ブリーフケースに詰め込んだ。
クリップで留められていたものも多かったので、そうひどく散ったりはしなかったようだ。
恵はポンとひとつお尻を叩いて埃を払った。

「いや、届けてあげようかと思ってさ」

その言葉に友人たちは呆れたように顔を見合わせている。

「あんた……、どこまで人が良いの?」
「ぶつかってきて謝りもしないで行っちゃった子のなんか放っておきなよ」
「でもさ、大事なものかも知れないだろ」
「そんなに大事だったら、立ち止まるか引き返してくるでしょ」
「そりゃそうだけど……。あ、まだ走ってる」

少女の逃げていった方を見ると、まだ後ろ姿が人陰にちらちらと見えてきた。

「あたし、行って渡してくるから」
「マジ!? やめなよ、恵」
「そうよ、大きなお世話かもよ」
「ちょっと行ってくるよ。すぐ戻るから、先にご飯食べて学校帰ってて」
「あ、恵!」

友人たちが止める暇もなく、お節介な女子大生は少女を追いかけていった。

──────────────────

少女はよろよろと立ち止まった。
逃げ続けたかったが、息が切れてしまってもう走れない。
胸が自分のものではないように大きく弾み、手を突いた膝がガクガクしている。
肺が酸素を求めて喘いでいる。
呼吸が落ち着くまでは走れそうにないが、すぐにでも逃げなければならない。
さっき振り向いたら、例の黒服たちが後ろから追ってくるのが見えた。
見つかっているのだ。

相模大野駅でまいたと思っていたから、新宿駅で彼らを見かけた時は心臓が縮み上がった。
恐怖と焦燥に囚われ、訳もわからず闇雲に走り、逃げ続けた結果、ここに着いた。
手をかけている柱には「新宿御苑 新宿口」とある。
よくは知らないが、公園か庭園らしかった。
そう言われれば、中も外も大勢の人がいた。
運が良かったのかも知れない。
人が多いところであれば、彼らも無茶は出来ないはずだ。
今がチャンスだろう。

少女は不安そうにあちこちを見渡した。
そこでいきなりポンと肩を叩かれた。

「きゃっ!!」

少女は文字通り飛び上がって驚いた。
そうでなくとも激しい運動で心臓が酷く鼓動していたのに、今ので口から飛び出たかと思ったほどだ。
しかし彼女の肩を叩いたのは、黒服ではなかった。
少し吃驚したような顔で少女を見ているのは、彼女より少し年上そうな女性だった。

髪は長いがボサボサだ。
あんまり手入れをしないのだろうか。
しかも赤く染めていた。
まとめるか、ちゃんと梳かせば質の良さそうな髪なのにもったいない気がする。

155センチしかない少女に比べれば、随分と背が大きい。
でも、大柄なイメージはほとんどない。
体つきが女性っぽいからだろう。
褐色に近い濃いベージュの肌で、きりっとした目つきが鋭い。
しかし、厳しいとか険しい感じはしない。

ブルーのヴィンテージ・ジーンズを履き、チャコールのカットソーをざっくりと着ている。
控え目なカラーリングだが、顔つきが華やかなので地味な印象はない。
化粧っ気もないから、どうもメイクとかファッションとかには、あまり興味がないのだろう。
それでも充分に人目を惹くような美人だった。
女は、少女の顔を覗き込むように言った。

「……他人にぶつかったら、ひとこと挨拶くらいはするもんだよ」
「……」

呆気にとられて何も言えない少女に、女は苦笑を浮かべて言った。

「はい、これ」
「え……」

さっき「わざと」落としたブリーフケースだ。
ファスナーも締まっているし、手に持つと中に書類があることがわかった。

「あんたのだろ?」
「え、いや……ち、違います!」
「は?」

女は怪訝な顔をした。
当然だろう。
少女はどう言い訳していいかわからず、ただ書類入れを女に押しつけた。

「こ、これ……私のじゃありません。持ってってください!」
「だって、これさっきあんたがあたしにぶつかった時に……」
「だから違うんです! お願いだから、これを……」
「……」

少女は涙ぐんだ。
それを見た女の表情が変わる。

「……訳ありかい?」
「……」

少女はうつむき、口をつぐんで押し黙ってしまう。
そこにドタドタッと乱れた靴音が近寄ってくる。
続けて、乱暴な運転の黒いワゴン車が急ブレーキをかけて急停車した。

「ひっ……!」

少女は脅えて小さく悲鳴を上げた。
少女の姿を確認した男たちが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
サングラス越しに女から視線を外さず、少女に声を掛ける。

「……藤くん、帰ろうか」
「……」

少女は反射的に身を引く。
その腕を両側から男たちが掴んだ。
ワゴン車のスライドドアが開く。
女の持っているブリーフケースに気づいた男が言った。

「それは? あなたのですか?」
「い、いや、これはこの子の……」

恵は書類入れを少女に渡そうとしたが、少女は手を後ろに回した。

「違います! それ、私のじゃありません!」
「……」

そのやりとりを見て、男が猫なで声で言った。

「いやあ、申し訳ありません。わざわざ届けて戴いて」
「は?」
「それ、確かにこの子のものなんですよ」
「……」

不審そうな女の目に、男は言い訳するように続けた。

「あ、いや、連れなんですよ、この子の」
「違う、違いますっ。持ってってください!」
「藤くん! あ、すいませんね、じゃあ……」

男がブリーフケースを受け取ろうと手を伸ばすと、逆に女はスッと手を引いた。
どうやら事情を察したようである。
どう見ても「連れ」には見えない。
贔屓目に見ても、少女は彼らの手から逃げていたと判断するしかあるまい。
女は男どもを無視して、不敵な笑みを浮かべて少女に言った。

「……これを落とした人を思い出したよ。どうだい、あんた。あたしと一緒にその人を探さないか?」
「!」

少女は、ほとんど反射的に男の手から逃れ、女の陰に逃げた。
男の手が伸びてくると、女がそれを振り払った。

「……お姉さん、あまり余計なお節介を焼かない方がいいと思いますよ」
「……」
「怪我したくなければ、おとなしくそれをこっちに渡すんだな。後ろの子も引き渡せ」

女の目つきが一層に鋭くなる。
左手で少女を後ろに押しやり、力を抜いた右腕をぶらりと垂らした。
男が近づいてくる。

「さあ、おとなしく……」

女の腕が飛んだ。

「ぐあっ!」

タッと一歩踏み出した女は、素早く裏拳で男の顔を打ち込んだ。
男は顔を抱え込んでもんどり打つ。
驚いたもうひとりが、女に殴りかかった。
女は少しも慌てず、すっと腰を沈めて男の拳を避けると、右手で男の顎にアッパーカットを決める。

「ぐっ……!」

下から顎を突き上げられた男が吹っ飛び、門柱に背中からぶち当たった。

「きさま!」

ワゴン車から三人ほど男たちが駆け下りてきた。
続けて、黒塗りのセダンが二台が飛び込んできて急停車した。

「ちっ!」

女は、増えた敵を見て舌打ちしたが、その顔はむしろ楽しそうに見える。
左手で少女を庇いながら、襲いかかってくる男どもを難なく蹴散らしていく。
長い脚を振り回して男の後頭部をぶちのめしたり、踵落としで肩を砕く。
右手も武器と化して、拳を作って腹にめり込ませ、手刀で首筋に打ち込んだ。

この乱闘騒ぎに、さすがに野次馬が集まってきた。
周囲を人が取り囲んでいる。
中には携帯電話をかけている者もいた。
警察に通報でもしているものか。
男たちもそれを覚ったようで、武器らしいものは使ってこなかった。
さっき女のキックを受けて地面に沈んだ男が、悔しそうに口を拭って呻いた。

「ち、ちくしょう!」
「野郎、女!」

他の男がまた向かっていくが、女は軽く避けて男の腕を掴んで引き寄せる。
そこに思い切り膝を打ち込んだ。

「うぐっ!」

鳩尾に強烈な一撃を食らい、呼吸が止まって呻きながら屈めた男の背に、女は遠慮なく肘打ちを叩き込む。
男は声もなく失神した。

「待て!」
「きゃああっ……!」
「!!」

少女の悲鳴がした。
女が振り返ると、少女は男に髪を掴まれて引き寄せられ、がっちりと抱え込まれている。

「抵抗はやめろ」
「……」

人質を取られては仕方がない。
女はようやくおとなしくなった。
リーダーらしい男は幾分ホッとしたように近づいてきた。
地面に叩きつけられていた男どもも、悔しそうに女を睨みながら立ち上がる。

「きさま、何者だ」

ただ者ではなさそうだ。
女のくせに、それなりに格闘技を心得ている男どもを、千切っては投げ千切っては投げ、である。
ただの女とは思えなかった。

「寄越せ」
「……」

黙っている女からブリーフケースを奪い取ると、ざっと中身を検めた。
上目遣いで女を見ながら顎をしゃくると、少女をワゴン車に乗せるよう部下に指示した。
そして女の肩を掴んだ。

「……おまえも乗れ。おかしなことは考えるなよ」
「……」

女は黙って従った。
全員が乗り込むと、ワゴン車と二台のセダンは、取り囲んでいた群衆へ苛立たしそうにクラクションを鳴らして、そこから走り去っていった。

──────────────────

恵と少女はワゴン車に押し込まれた。
その前後を乗用車が挟み、先導している。
ワゴンは3シートになっており、恵たちは真ん中に並んで座らされていた。
特に拘束はされていなかった。
それもそのはずで、恵たちのシートからスライドドアを開閉することは不可能だったからだ。
後ろにはガードの男がふたり陣取っている。
ここで恵が暴れても、彼女ひとりならともかく、少女を連れて逃げることは難しいだろう。

恵はさり気なく男たちを観察した。
黒っぽいスーツを着てサングラスをかけているから異様な迫力がある。
体つきもがっちりしているから「プロ」なのだろう。
暴力団の類にも見えなかったし、民間組織とは思えない。

(警察……公安かな? そうも思えないけど……)

強引なやり方を見ると公的機関かとも思うのだが、そうした闇の部分と、今、恵の隣で不安そうに震えて座っている
少女は、どうしても釣り合わなかった。

(何なんだろう、この娘……)

恵は聞いてみたかったが、この環境では無理だろう。
フロントガラスから見える風景に目を移す。
都心から郊外へ向かっているようだ。
メインロードから外れ、脇の小道に入る。
対向車とすれ違うのがやっとの道だ。
大きな橋が遠くに見えている。
右側には河川敷が広がっていた。
クルマは大きな土手道を走っているようだ。

(荒川かな……)

どこまで行くつもりかわからないが、いずれにしてもこいつらの本拠地に連れ込まれてしまう前に何とかしなければならない。
恵も少女も目隠しされていない。
普通こうした場合、攫った者には場所の特定をされぬよう目隠しなどするものだと思う。
それがないということは、少女はともかく恵を生かしていくつもりはないということだ。
今ならまだ敵は少ない。
何とかなるかも知れない。
ならないにしても、何もせずに状況を待つというのは、恵の性に合わない。
恵は、うつむいている少女に言った。

「……シートベルトした方がいいよ」
「え……?」

少女は少しびっくりしたように恵を見た。
今さら何を言うのだろうと思ったらしい。
周りの男どもも同じように思ったらしく、失笑して言った。

「ははっ、そうだな。藤くん、そっちの元気の良いお姉さんの言う通りだ。シートベルトはしておきたまえ。そんなことで
警察に咎められても厄介だしな」
「まったくだ。おい、おまえ安全運転しろよ。こちらのお嬢さん方が不安だそうだぜ」
「けっ……」

からかわれた運転手が面白くもなさそうに舌打ちした。
道はまた細くなった。
もうほとんど一車線しかなさそうだ。
少女はシートベルトをカチリとセッとしたのを確認すると、突如、恵は行動を起こした。

「この野郎!」
「ぐえ!」

恵は腰を持ち上げ、そのまま手刀を運転手の首筋に打ち込んだ。
男たちは仰天した。
決して油断していたわけではない。
そうではないのだが、まさか運転手を攻撃するとは思いもしなかったのだ。
運転手が怪我をしたり失神でもすれば、クルマは彼のコントロールを離れ、制御不能になってしまう。
そうなれば男たちだけでなく、恵や少女もタダでは済まないのだ。
まさかそんな自暴自棄なことはするまいと思ったし、いくら恵がただ者ではないとしても、その状況から脱出できるとも
思わなかったのだ。
確かに若い女にしては手練れではあるが、せいぜいが空手や合気道を少々やっているくらいだと見くびっていたのである。
これはやむを得ないだろう。

「何をする!」

驚いた助手席や後ろの男が立ち上がり、恵を止めようとする。
構わず、恵は倒れた運転手を引き倒し、ハンドルを掴むと思い切り右へ切った。

「うわ!」

失神した運転手はアクセルを踏んだままらしく、そのままのスピードでワゴンは右へ急カーブした。
クルマは大きく傾き、そのまま横転する。
前を走っていたセダンが急停止したが、そこにワゴンの大きく振られた後部が激突した。

「……!!」
「きゃああ!」

凄まじい衝撃が車内を襲う。
恵は舌を噛まぬよう必死に口を食いしばり、少女の頭を抱えてその身を守った。
次の瞬間。
横転したワゴンは土手を転げ落ちていく。
車体が軋み、ガラスが割れる音がする。
少女は気を失ってしまったようで、もう声も出ていない。
恵は少女の顔を自分の胸に押しつけ、覆い被さるようにしてその衝撃に耐えている。

ドーンとひときわ大きな衝撃音と振動がして、ワゴン車は停止した。
ゴロゴロと転落したワゴンは、運良く立ち上がった状態で止まっている。
すぐ前には、前方を走っていたセダンが逆さまになっており、タイヤがくるくると空回りしていた。
そのドアが開き、ふらふらと男が出てくるのが見える。
早く逃げなければ。
恵は、庇っていた少女の頬を軽く叩く。

「おい……おい! 大丈夫かい!?」
「……」

声はない。
死んではいないし、見たところ外傷もないようだが、気絶しているらしい。
恵のように鍛えた身体でなければ致し方ないだろう。
この時、恵はこの娘を捨てて逃げようという気はまったくなかった。
もともと無関係なのだから、そうしたところで責められようもないのだが、ここで見捨てたら何のために助けたのかわからない。
幸い、スライドドアが半開きになっている。
そこに足をかけ、思い切り蹴飛ばすように開いた。
割れた窓ガラスの破片が落ちてきたが、気にしている余裕はない。
恵は少女を片手で抱えるとワゴンから飛び出た。

「くっ……」

身体のあちこちが痛い。
クルマが転がり落ちる時に、どこかで打ち付けたらしい。
左の腿と左肩、そして肩胛骨のあたりが鈍く痛む。
折れたりヒビが入ったりはしていないだろうが、打ち身で痣くらいは出来たようだ。

河川敷で散歩したり草野球をやっていた連中も事故に気づいたようで。がやがやしながら何人かがこちらに向かってくる。
彼らに救助を求めよう。
そう思った恵が少女を引き摺りながらそちらに向かうと、背中に強烈な打撃を受けた。

「ぐっ……!」

恵が振り返る間もなく、第二撃が鳩尾に来た。

「うぐ!」

ワゴンの後ろを走っていたクルマは無傷で済んだらしい。
それに乗っていた連中のようだ。
霞む目でその男の顔を見上げたが、今度は脇腹に拳がめり込んできた。
たまらず抱えた少女を離してしまうと、屈み込んだ背中にだめ押しの一撃が入ってきた。
恵は、土手の草むらに倒れ込む前に意識を失った。

──────────────────

恵と少女は郊外にある四階建ての小さなビルに連れて来られた。
クルマに押し込まれ、車内で揺られているうちに恵は意識を取り戻しており、気づかれぬよう周囲の風景を記憶した。
どうも多摩近郊らしい。
というのも、サンリオのピューロランドらしい施設がちらっと目に入ったからだ。
数人の男たちは恵たちをビルの地下室に連れ込んだ。

「……」

少女は立ったまま後ろ手に縛られている。
一方の恵は、なぜか椅子に座らされていた。
もちろん手は後ろに回されて、背もたれを逆手で抱え込むように縛られていた。
恵の活躍を見れば、当然の警戒だろう。

奇妙な部屋だった。
まず窓がない。
天井に近い高さのところに、鉄格子を嵌めた小窓があるだけだ。
窓と言っても開閉は出来ないようで、いわゆるはめ殺しである。
室内は無個性、殺風景の極みで、コンクリート打ちっ放しであり、およそ装飾品の類はない。
床もコンクリートである。
調度もまるでなく、あるのは恵が座らされている椅子が一脚と小さな机がひとつ。
そしてなぜか恵の真横にパソコンデスクのようなものがあり、そこには見たことのない機械が乗っていた。

リーダー格らしい初老の男が、奪い取ったブリーフケースの中身を机の上へ無造作にまき散らした。
ばらけた書類をひとつひとつ確認しながら頷き、そのたびにちらちらと少女を嫌みな表情で見ている。
どちらかというと小柄で、恐らく恵より小さいだろう。
鼈甲の丸眼鏡をかけ、白髪が八部ほどを占めている頭髪をきっちりと七三に撫でつけている。
着ているスーツも高そうで、全体としては「紳士」というイメージなのだが、何となく卑屈な感じもする。
常に上目遣いな目つきのせいだろう。
男は書類を手にしたまま少女に言った。

「これだけかね、藤くん」
「……そうです」

少女は「藤」という名らしい。
名字だろうか。

「いいや、そうではないはずだ。まだあっただろう?」
「……」
「この期に及んで惚ける気かね」

男はじっと少女を見ながら、懐柔と脅迫じみたことを言う。

「脱走だけでも重営倉入りは間違いないところだよ」

よほど重い罪なのか、少女の喉が「ひっ」と鳴った。

「だが、きみの態度次第では、私が学院長先生に罰の軽減をお願いしてみようじゃないか。どうだね、悪い話じゃないだろう」
「……」
「ふん」

男は、それでも俯いて口をつぐんだ少女に鼻を鳴らした。
そして、わざとらしく困ったような表情を浮かべつつ、椅子に縛られている恵に近づく。

「きみがそういう態度だと、こちらの……」

男に顎を掴まれた恵が叫んだ。

「何をする!」
「……お嬢さんが困ることになる」

少女が慌てる。

「そ、その人は関係ありません!」
「そう。きみが正直になってくれないと、無関係のこの人が痛い目に遭うことになる」
「……」

やはりそう来るのか。
予想通りのゲスな野郎だ。
恵がそう思って睨みつけると、男は蜥蜴のような目でその視線を弾き返した。
部下らしい若い男が、初老の男に恵の学生証を手渡した。
さっき身体検査された時に奪われたものだ。
男がそれを見て、大仰に驚いてみせる。

「ほほう、これはこれは」
「……」
「この勇ましいお嬢さん、何と東大生らしいぞ」

部下たちだけでなく、少女もびっくりしたように恵を見つめた。

「……紅恵さんね。ふんふん、今年で19歳になるのか。東京大学文学部、言語文化学科のドイツ語ドイツ文学専修課程
だそうだ。失礼ながら、見た目にそぐわず優秀な娘らしいぞ、くっくっくっ」

いやらしい笑い方だ。
恵がそっぽを向くと、男はますます淫らな笑みを浮かべて、手を伸ばしてきた。

「な、なにを……あっ!」

初老の男はにやりとすると、素早い動きで恵のカットソーの裾を掴んだ。
恵と少女が驚く暇もなく、ぐっと前をはだけさせるようにして頭から抜き取り、肩から袖の方へと捲り上げてしまった。
さらに男は、机の上にある装置から伸びる細長い棒を取り上げた。
全長50センチほどの金属製編み棒のようにも見える。
ただ、持ち手のところがビニール樹脂のようなもので保護されていた。
その根元からは細いコードが伸び、装置に繋がっていた。
そのスティックを左右の手に一本ずつ持った男は、棒の先端を軽く恵の右肩に当てる。

「?」

冷たいがそれだけだ。
と思っていると、もう片方の先を左の肩口にちょんと触れさせた。

「んぐっ!?」

バチッと大きな音が聞こえたように感じられ、その瞬間に恵の全身に強烈な刺激が突き抜けていった。
頭のてっぺんから爪先までを太い鉄棒で貫き通されたような猛烈なショックだ。
強力な電流を通されたようだ。
装置は電気治療器のようなものらしい
。強力な電撃でもつれがちになる口で恵が呻いた。

「き、きさま、何を……」
「なに、大したものじゃない。スタンガンの大げさなものだと思ってくれればいい」
「スタンガンだと?」
「仕組みは同じだよ、威力もね」
「ぐわっっ!」

電極が触れているのは肩口なのに、恵は背中から丸太か何かでぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
ガクンと大きく仰け反り、すぐに前のめりになって倒れかかる。

「やめて!」

少女は絶叫した。
助けてくれようとした恵に加えられる拷問にいたたまれなくなったこともあるが、そのショッキングな光景と彼女の受けて
いる苦痛を想像し、恐怖に駆られている。

「やめて……、もうやめてください、教頭先生っ……!」

少女は涙をぼろぼろ零して哀願した。
恵を責めている男は、どこかの学校の教頭らしい。
ということは、この少女はそこから逃げ出した生徒ということになる。
察した事情と、この教頭の仕打ちを見て、恵はスパルタ学園時代を思い出した。
あの学園も、仮に脱走騒ぎでもあれば、この程度のことはやってのけただろう。

少女の言葉を聞き、教頭はくるりとそちらに向き直った。
両手に持った電極をカチカチとぶつけて火花を起こし、少女を脅している。

「やめて欲しければ……、あの写真をどうしたのか言いなさい!」
「し、知りませんっ。引き出しから取ったのはそれだけです!」
「ふん。まだそんな強情を張るのかね。では仕方ない」

憤然とした教頭が、また電極を手に恵に近づくと少女が叫ぶ。

「やめてくださいっ!」
「んあ!」

スティック先端が恵の右腕、そしてお腹に触れる。
途端に恵は絶叫とともに大きく仰け反り、全身を硬直させた。

「やめてえっ……!」

少女は堅く目を瞑って、恵をいたぶるのを止めるよう叫んだ。
恵は電気ショックの衝撃で、肩や胸を大きく波打たせて呻いている。
教頭の冷たい声がした。

「では言いなさい。きみはあの引き出しに入っているものは全部盗み出している。なのにあの写真だけないというのはおかしな
ことでしょう。どこに隠しているのか言いなさい」
「ほ、本当に……本当に知りません。そ、そんなものなかったです!」
「またそういうウソをつくんですね。わかりました」
「やめて!」
「あっ!」

教頭は電極を置くと、剥き出しになっていた恵のブラジャーを一気に剥ぎ取ってしまった。
ブラの中で窮屈そうに収まっていた大きな乳房がぶるんとまろび出た。
男が喉で嗤う。

「くくっ、なかなか大きなおっぱいじゃないか。発育が良すぎるようだな。けしからんな、東大生のくせに男と遊び回っとるのだろう」
「……」

自分勝手かつバカバカしい妄想に、恵は顔を背けてツバを吐いた。
こういう男どもはみんなそうだ。
身体つきやスタイル、顔だけで女を評価する。
美人ならもてるだろうし、スタイルも良ければ男とセックスしまくっているに違いない。
おのれの下劣さがそのまま浮き出ているような、くだらぬ見方である。
恵の若い乳房をまじまじと見ながら、教頭がまた電極を持った。
それを無造作に恵の乳房に押しつける。

「ぐぐっ!」

バリッと電流が走り抜け、恵の脳髄を引き裂いた。
教頭は左右の乳首に、それぞれ電極をあてがったのだった。
場所が場所だけに猛烈な刺激になった。
脊髄を電撃が突き抜け、全身がガクガクと震える。
教頭は、恵の左乳首を電極の先で押しつぶしたまま、左手に持ったスティックを身体のあちことに押しつけた。
百万ボルト近い電圧が女子大生の全身を突き刺していく。
もっとも、電圧は高いが電流は低いから、死ぬようなことはない。
但しショックだけは猛烈だ。

「んぐわっ!」
「ぐおっ!」
「んぎぃっ!」

とても見ていられず、少女は身体を揺さぶって叫んだ。
大きな瞳からは涙がぼろぼろ落ちている。

「やめて! そんな酷いことはやめてください!」

その声を受けて、教頭の手が一時的に止まった。

「……この娘を苦しめたくなければ言いなさい。正直にね」
「だ、だから……だから本当なんです! 私、知らないんです! 写真って何のことなんですか!?」

それを聞いて教頭は、わざとらしく恵に言った。

「……気の毒に。藤くんが嘘つきなお陰できみがこんな目に遭うハメになる」
「……」

教頭としては、恵の方からも少女に写真を出すように訴えかけさせたかったのだろう。
だが、生憎この女子大生はそれほどヤワではない。
沈黙を保っている恵を見て、腹立たしそうに言う。

「藤くんが言うまで、この責めは続くぞ。それでいいのかね?」
「……」
「やれやれ、どちらも頑固な娘たちだな。ほら、これでもかね」
「うぐっ!」
「ほれ」
「ぐは!」
「やめて!」
「言えばいつでもやめよう。そら」
「ぐぐっ!」

電圧が上がったのか、さっきよりも強烈な刺激が恵を貫く。
電撃を食らうたびに髪が逆立った。
たちまち恵の額や首筋に脂汗が浮いてくる。

「ぐわあっ!」

電極を突きつけられ、恵はその威力に全身をわななかせる。
腕も脚も突っ張ってしまい、椅子の脚をガタガタ鳴らしている。
何度も仰け反って、椅子の背もたれが今にも折れてしまいそうだ。
性的に感じているわけでもないのに、乳首が痛いほどに立ってきた。
片側だけスティックを乳首に当てられると、まだ通電していないのに乳首自体がビリビリ痺れるような気がする。
通電していない時は背筋に悪寒が走る。
電気が来れば背骨が折れそうになるまで仰け反ってしまう。
歯がガチガチと鳴って止まらない。
なおも電撃責めは続いた。

「ぐぎぃぃっ!」
「お願い、やめてぇぇっ!」

女子大生の苦鳴と、それを見守らねばならない女子高生の悲鳴がいつまでも木霊していた。

──────────────────

「……ん」

恵は、額や首筋に感じた冷たく心地よい感触で目が醒めた。
ぼんやりと視界が次第に戻ってくると、仰向けに寝かされている恵を心配そうに覗き込んでいる少女の姿があった。
失神してしまった恵を介抱してくれていたらしい。
どうやら連中は、口を割らない少女と、電気ショック責めにも音を上げない恵を攻めあぐねたらしく、いったん中断して
善後策を練っているらしい。
少女の手には、水で濡らしたタオル地のハンカチが握られている。
それで額や首の汗を拭ってくれたのだろう。
あの教頭に捲られたカットソーも元に戻されている。

「あ、気がつきましたか?」
「ここは……」

半身を起こそうとすると、すかさず少女が支えてくれた。
周囲を見回すと、さっきの部屋とは違うのがわかった。
鉄格子の嵌められた殺風景な部屋に変わりはないが、ずっと狭苦しい。
室内には何もなく、隅っこに小さな洗面台があるだけだ。
ハンカチはそこで濡らしたのだろう。
あとは頭上から電灯がぶら下がり、心許ない灯りでふたりを照らしている。
出入り口はなく、鉄格子で区切られている。
牢屋のようだ。
少女が弱々しく微笑んだ。

「身体、大丈夫ですか?」
「え? ああ、何とか……」
「すみません、私のせいで……」

少女は涙ぐんでいる。
恵を巻き込んでしまったこと、なのに何も出来なかったことを申し訳なく、情けなく思っているのだろう。
あんな連中にかかれば、ただの女の子にはどうすることも出来ないに決まっている。
彼女のせいではあるまい。
恵は、まだ少し電撃の影響で身体のあちこちが変だったが、強がって言った。

「平気だよ。それより、あいつら何者だい? それにあんたは……」
「あ……」

そう言われて初めて気がついたように少女が頬を染めた。
自己紹介すらしてなかったのだ。

「私、藤と言います……。藤寿々美です。高校生です」
「ふうん、藤さんね」
「寿々美でけっこうです。あの、あなたは……」
「あたしは紅。紅恵。やつらも言ってけど、女子大生だよ」
「紅さんですか」
「あたしも恵でいいよ」
「あ、そんな目上の方ですから、そんな呼び方は……」

恵は微笑ましそうに寿々美を見ていた。
真面目な娘らしい。

「恵でいいってば。で、やつらは?」
「ええ……。学校の先生と、ガードマンの人たちです」
「高校の先生かい? どこの?」
「御殿場の三光学院って言うんです。ご存じですか?」

知らなかった。

「そうですか。そうでしょうね」
「ただの高校とは思えないね」
「中高一貫の私立学校です。全寮制です。一時はけっこう話題になったみたいです。中学で問題を起こした生徒達を率先して
入学させて更正させるってことで……」
「へえ……」

何だかスパルタ学園みたいだな、と恵は思った。
だが、それにしては、なぜ寿々美のような真面目そうな娘がいるのだろうか。
そう言うと寿々美は少しはにかんで答えた。

「恥ずかしいんですけど、私、中学時代はけっこう……」

グレていた、ということなのだろう。

「家が少しお金持ちだったからかも知れませんけど、何だか親にも世の中にも学校にも反発しちゃって」

恵にとっては他人事ではない。
彼女も同じような理由で中学から族に入っていたのだ。
何となく彼女に親近感を感じてきた。
恵は、身につまされるような思いで寿々美の話を聞いている。

「困った両親が三光の噂を聞いて、私を押しつけたんです」
「ふうん。それで先公どももあんなのが多いのか」
「はい……。もっとも、ああいうタイプは教頭先生くらいです。あとは何て言うのか、体育会系って言うんですか、そういう先生が多いです」
「で、耐えきれなくなって逃げ出した、と」

恵がそう言うと、寿々美は少し言い淀んでからじっと見つめてきた。

「……ただ厳しいから逃げたってわけじゃないんです。あそこ……おかしいんです」
「おかしいって?」
「ええ……」

寿々美の話によると、高校生がやるような授業はあまりしないらしい。
座学よりも身体を動かしている方が多いのだそうだ。
勉強もしないわけではないが、高校生の学ぶ範囲よりも、中学時代の焼き直しが中心らしい。
中学で問題児だった連中ばかり集めているのだとすれば、確かにそういうことも大事だろうとは思う。
だが、それにしたって高校で教えるべき内容をほとんどやらないというのは変だ。

「卒業生は? 大学進学とかしないのかい?」
「まだ開校して2年目なんです。卒業生はいません」
「そうか……。じゃあ、授業って他には何をやってんだ?」

ここで寿々美はまた口ごもった。
恵は関係者ではないのだから、どこまで話していいか困っているのだ。
あまりに秘密を暴露してしまうと、それを知った恵は最悪の場合処分されかねない。
察したのか、恵が笑った。

「今さら同じだよ。あんな拷問してくるくらいなんだ。あたしが警察へ駆け込んだら困るだろうから、どっちみちタダじゃおかないさ」

寿々美は少し困ったようだったが恵が再度尋ねてきたため、結局、喋った。

授業は現代国語と英語、そして日本史と地理、物理、化学はかなりやるらしい。
しかし、逆に数学は中学程度だし、世界史や公民、芸術や家庭などはほとんどやらない。
情報は触り程度で、あとは情報の専修クラスがあるそうで、彼らは念入りにするようだ。
あとは特別授業というのがある。
それが半分。
残り半分は体育中心だそうだ。

しかし普通の高校とはかなり違っている。
球技の類はレクリエーション以外はやらない。
陸上競技もほとんどない。
水泳はある。
あとはほとんど武術なのだそうだ。
とはいえ、武道というよりは格闘技であり、柔道や空手などより遥かに実践的な格闘術を叩き込まれるらしい。
果ては銃剣術や居合い、フェンシングまでやる。

異例なのは射撃があることだ。
それもクレーやエアライフルなどではなく競技銃ではないらしい。
加えて、2チームに分けてのサバイバルゲームもどきのことまでするという。
座学での特別授業というのも、過去の戦争から学ぶ戦術の勉強や、銃など武器に関する知識を得るためのものだという。

信じられない内容だった。
要は軍事訓練である。
恵は呆然とつぶやいた。

「……なんでまた生徒たちに軍事訓練なんかさせるんだ?」
「わかりません……。もう生徒は学校側を恐れてしまって何も言いませんし……、ただ、噂ではクーデターでも狙ってるんじゃないかって」
「クーデター……ねえ」

それはどうだろうか。
今のこの日本でクーデターを起こせるとも思えないし、また起こす意味があるとも思えない。
自衛隊はそこまで反社会的な組織ではないし、どこかの金持ちが傭兵でも雇って日本を乗っ取るというのだろうか。
ハリウッド映画じゃあるまいし、南米やアフリカならともかく、日本ではそんなことは無理だろうし、やったところでそれこそ
自衛隊や在日米軍によって簡単に鎮圧されるだろう。
意味がない。
だが、寿々美の話が本当なら、三光学院という学校が生徒たちに異様な軍事訓練をさせていることは間違いない。

何かしっくり来ない。
しかし、それにしたって校庭で銃を使ったりすれば銃声がするし、周辺住民が気づくだろう。
そう言うと、寿々美は首を振った。

「学校の周りって本当に何もないんです。隣の敷地には海槌重機っていう大きな会社の工場があります。機械が動く大きな騒音も
しますし、そこって自衛隊とかに納める武器も作ってるんだそうで、広い試射場とかもあるんだそうです。だから……」

射撃音がしても目立たないということらしい。

「それに、3キロくらい先に自衛隊の演習場もあって、そこでは戦車や大砲まで撃ってますから」

それでは小口径の銃など、どうということないだろう。
硝煙や火薬の匂いも同様だ。
だが、3キロ離れている陸自から見れば、遠くに銃声がしても海槌かと思うだろうが、海槌の方は隣の学校で射撃音がすれば、
さすがにわかるだろう。
それでも問い合わせだの抗議だのはないらしい。
それどころか、定期的に海槌関係者が学院長を訪ねてくるのだそうだ。
何か裏で接触があるということを匂わせる。
寿々美がぽつりと言った。

「学院長や学校が何を考えているのかは知りませんけど、訓練中に仲間が何人も死んでいるんです」
「……」
「最初は反発して先生たちに食ってかかったりする子もいました。もともと中学の時に暴れていたような人ばかり来てるわけですから。
でも学院は、そういう生徒たちを徹底的に弾圧したんです。先生やガードマンたちの暴力はもちろん、さっき恵さんにやっていた拷問
みたいなこととか、営倉っていうところに収容して殴る蹴るするんだとか」
「ひどいな……」
「食事を減らされたり、罰走と言って、グラウンドを何十周も走らされたりとか」
「……」
「試験や訓練で失敗したりするのは、そんなに咎められないんです。覚えるまでやらされますけど、失敗自体はある程度許してくれます。
でも、先生や学校……というか学院長の方針とかに逆らうともう……」

ひどい責め苦を与えられるということだろう。
その学院長が完全な独裁体制を布いており、個人崇拝を求めているようだ。

「おまけに……、これは噂ですけど、学校はフランケンシュタインを作り出していて、学長に逆らったりすると、それと戦わされること
になるって」
「フランケンシュタインだって?」

恵が呆れたように言った。
ガセにしたって、もう少しマシなウソがあるだろうに。
まるで子供だましだ。
寿々美も小さく頷いた。

「ええ、そんなもの嘘っぱちだってことくらいわかります。でも、まことしやかに校内で噂が流れているのも事実です。それに、
学院長が引っ張ってきたお医者さんがいて、この人がおかしな薬を作ったりして、それをそういう生徒に使って実験してるとかって
噂もあるんです。そんなこともあって……」

少女は哀しそうに顔を伏せた。

「だから、もうみんな無気力になってきてます。おとなしく学校や学院長の言うことを聞いていればいい。あとは課題をこなしさえ
すれば殴られずに済む。そう思ってるんです。自分たちが何をやっているのか、そんなことはもうどうでもよくなってきてる」
「……」
「まるで学院長の下僕を作ってるようなものです。私は……、私はそれが我慢できなくって」

気弱そうだった寿々美が、悔しそうに握り拳を作っている。

「私だけでなく、まだ何とか自分の意志を持っている子たちもいます。その友達たちと話し合って、誰かがここから脱走して訴えようって」
「ちょっと待て」

恵が口を挟んだ。

「学校、御殿場って言ってたよな? どうして東京まで逃げてきたんだ? 御殿場の警察にでも行けば……」
「それがダメなんです」

寿々美がきっぱりと言った。

「どういう裏があるのか知りませんけど、地元の警察と学院は繋がってるかも知れないんです」
「どういうこと?」
「以前にも脱走騒ぎはあったんだそうです。二回だったかな。いずれも近所の派出所とか警察署に逃げ込んだらしいんですが、
直後に警察から学院に連絡が行ったんだそうです。脱走した生徒はその間、何も聞かれずに取調室に軟禁されていて、迎えに来た
先生に引き渡されたって」
「……」
「その生徒は、それ以降、見かけなくなったそうです。学院は、退学させて自宅に帰したって言ってますけど、生徒は誰も信じて
ません。家に帰れば絶対に学院でやってることを喋りますから。そのために脱走したようなものなのに、捕まえた生徒をわざわざ
解放するわけがないんです」

それはその通りだろう。
とすれば、学院内に監禁されているのか、あるいは……。
寿々美が続けた。

「だから所轄って言うんですか、近くの警察は多分ダメなんです。でも、どこまで学院の力が及んでいるのかわかりません。
もしかしたら静岡全体がダメかも知れない。だったら東京まで逃げよう、東京の警察なら話を聞いてくれるかも知れない。
いいえ、そうでなくてもどこか新聞社とかテレビ局とかのマスコミに駆け込めばいいかも知れないって」
「それで東京まで出てきたのか……」
「はい。東京まで行くのは時間がかかるから途中下車しようかって何度も思ったんですけど、近ければ近いほど学院の人が追って
くる可能性が高いかもって思うと……。実際、新宿で捕まってしまったわけですし」
「……」

寿々美がぽつりとつぶやた。

「けっこう仮面て……本当にいるんでしょうか」
「え!?」

少女の何気ない一言に、恵はどきりとした。
彼女がそうなのである。
恵の動揺には気づかず、寿々美は弱々しい微笑みを向けて言った。

「恵さん、ご存じないですか? けっこう仮面のお話」
「……」
「教師たちの横暴で荒れる学園に颯爽と現れ、生徒を助けてくれる正義のお姉さま」
「……」
「私たち、噂し合ってたんです、けっこう仮面のこと。いつか、けっこう仮面が来てくれるかも知れない。けっこう仮面が来て
くれればって、いつも話していたんです。それが慰めになっていたのかも知れません」

恵は言葉を挟めなかった。
彼女の思っている以上に、けっこう仮面の噂は広がっており、その存在感は大きかったのだ。
寿々美は少し寂しそうに言った。

「でも……、噂か風聞に過ぎなかったみたいですね……」
「……なぜそう思うんだい?」
「だって……」

俯いていた寿々美は、額にはらりと落ちてきた髪を手で払った。

「もし本当にけっこう仮面がいるのなら、私たちの学校に……三光学院に来てくれないわけがないじゃないですか。あんなに酷い
有様なんですから」
「……」

別に恵のせいではないのだが、悔しかった。
それほどまでに期待されているのに何も出来ていない、していない。
自分はもう引退したからとか、知らなかったことだから、と言って逃げていていいものだろうか。
恵の心に、何かがふつふつと湧き、込み上げてくるのがわかった。
俯いた寿々美の肩に、恵が優しく手を置いた。

「わかったよ、寿々美……。あたしが何とかするから」
「何とかするって……?」
「詳しい話はまた後だ。とにかく、ここから出なくちゃな」
「え……?」

こんな牢屋からどうやって脱出しようというのか。
鉄格子には当然施錠してあったし、それも大げさな南京錠だ。
簡単に壊れるとは思えない。
小さな窓がひとつあるが、そこにも鉄格子がある。
不安そうな寿々美の視線を受けながら、恵は室内を見渡した。
一見何もないように思えたそこに、彼女は何か見つけたようだ。
にやりとすると寿々美に言った。

「濡れないように脇へ行ってな」
「濡れないように?」
「いくよ」
「何を……きゃあ!」

寿々美が尋ねるよりも速く、恵は自分のスニーカーを脱ぐと、それを天井の火災報知器に投げつけた。



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